ギンブナと皇帝ペンギン

@naruyu77

第3 文鳥のオス

父は、私が三歳の時に家族三人で住んでいた家を、自分の母親と二人で売ることを決めて売ってしまい、三人で住むところもがなくなってしまった。実際私たち三人一緒でいるべきなのに、三人の家を用意することもなく母の実家へ返された。その後父は、私が居る母の実家に無理やり入ろうとガラス戸を割ったが、母が警察官と近所に住む母の叔父を呼び、おおごとにはならなかった。このとき私は母と二人で二階の奥の部屋のクローゼットに恐怖に満ちて隠れていたのを17歳になった今でもはっきり覚えている。このことがあったので、祖母はうちに成犬の柴犬のマルを連れてきた。うちに番犬がやってきた。

家族の離散した始まりの話し合いが無いのだからつまりはその後の話し合いができる訳は無いのでそのまま離婚するのは自然のながれであった。経緯はともかく事の始まりは全て父とその母親の責任なのだろう。そういうことで母は、弁護士を雇って離婚調停を開始した。

私は、証言のために今は立川に移転しているが当時は八王子にあった家庭裁判所まで連れていかれた。祖母にはなぜか男の子の恰好をさせられた。父に私と認識させない為だったらしいが髪を短く切られたり黒っぽい色のトレーナーやジーンズばかりを着させられたりしたせいか今でもそんなファッションが似合う。

父という人は無理やり母の実家に押し入ろうとする様な人間だから、母たちにとって私を勝手に連れ去る恐れが強かったらしい。私はまだ幼く、ママがうちにいて一緒にいられるから嬉しかった思い出しかない。母は、祖母と祖父がいない私と二人きりの状態に恐怖で我慢が出来ない時期があった。祖母が外出先から母に電話で帰宅依頼されて慌てて戻ることも多かった。離婚が成立するまでに、母と私は書類上父の扶養に入っていたが生活費は勿論健康保険証も渡されていなかった。従って医療機関は祖父の懇意の先生に診てもらい、支払いはずっと自費で生活費はを含め経費は母の実家持ちであった。そのうちやっと母は働き始めた。私は運よく歩いて5分ほどの保育園に入園できたが、気管支様喘息を患い定期的な受診をしており、長い集団生活にはお決まりの感染症には罹りまくっていたので病院にはどれほどの出費だったか想像もつかない。やっと母が正社員になれて始めて母の健康保険に入ることができ、医療費の控除をうけることになったのは、別居してから2年近くたっていた。一方調停も2年ほど続き母は働きながら八王子の家庭裁判所に通っていたが私が小学校に上がる前に遂に離婚は成立し、私と母だけが名字が変わった。これも調停成立後に家庭裁判所に届け出、市役所に届け出、その他保険証から運転免許証、クレジットカード類、といった身分証明の名前の書かれたすべての物の名字を書き変える手続きがされた。保育園では名字で呼ばれることもなかったので、小学校からの名前と認識できたことは、私のストレスが少しは減ったのかもしれない。つまり保育園までは、姓名の名の方を通称とし就学と同時に新しい姓を使えるようになったのである。

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