第2話 悪魔の誘いはひんやり冷たい
暦の上では秋と言っても、まだまだ残暑厳しい九月初旬。何かと騒がしい蝉の皆様はほとんど引退されたものの、太陽センパイは相変わらずご健在で、むさ苦しさを存分に振りまいていた。
この季節、エアコンどころか窓もない密閉された暗室は、サウナ顔負けの暑さになる。そのような中での一時間近い作業は、もはや苦行以外の何物でもない。現像作業はデジカメでは決して味わう事の出来ないアナログフィルムの特権だが、来年からは夏の撮影旅行はデジカメにするべきだろうか。でも、プリンターで印刷した物を、写真部として文化祭の展示品にするのはいかがなものだろう。ジメジメとした熱気と、定着液の酢酸に僕の汗が加わって放つ強烈な臭気の中、僕はぼんやりとそんな事を考えていた。
「やあやあ、暑いのにご苦労さん!」
ようやく現像が終わり、汗びっしょりになって暗室から出てくると、写真部を辞めた筈の横須賀先輩が何故か部室にいた。
ひょろりとした長身を部室のパイプ椅子に預け、手にはキンキンに冷えたアイスクリーム。それを美味しそうに舌で舐め取りながら、テーブルに広げたノートに何やら書いている。
「何やってるんですか、こんなところで」
「ん、ちょっと日記を書いてるんだぉ」
何故に日記を? しかも辞めた写真部の部室で?
以前からよく分からない人だったけれど、さらに輪をかけて意味が分からない。
「栗栖も書くといいぉ。自分ではない誰かに成りきって書く日記はなかなか面白いぞ」
どんな日記だ、それは? ますます意味不明である。
「って、そうじゃなくて。どうして先輩がこんな所にいるんです? そもそも部員だった時だって、滅多に顔を出さなかったくせに」
僕は水場で用具を洗いながら、非難の色を隠さず先輩を睨みつける。横須賀先輩は今年の春まで写真部の部長だった。が、部長のくせしてほとんど写真部員らしい活動をしなかったうえに、あろう事か「極楽研究会」とか言う、よく分からない集まりに熱を入れて移籍してしまった。
簡単に言えば、裏切り者だ。
「冷たいなぁ、栗栖は。せっかく俺がいい話を持ってきてやったってゆーのによー」
唇を突き出して、ぶーたれる先輩。うん、可愛くない。ロケットランチャーで吹き飛ばしてやりたい。
しかし、その気持ちをぐっと抑えて無視する事にした。
どうせいい話っていうのも、厄介ごとか何かに決まって――
「ふっふっふー、栗栖タン、瑠璃ちゃんとの距離を一気に縮めたくないかい?」
唐突に告げられた名前に、僕は洗っていたトレイを思わず落としそうになった。
その名前が出てきた事に驚くと共に、思わせぶりの話し方からどこまで知っているんだと疑惑を抱く。
「彼女、ちょっと変わってるけど、かわいいもんねー。栗栖が絶賛片思い中なのも無理ないと思うよ」
いやん、全て知ってるし。
僕はわなわなと震え、どうすればこの男を誰にも知られることなく殺害できるかと思案を巡らす。
「おいおい、やめてくれよぅ、栗栖。俺は死ぬ時は腹上死って決めてるんだからさ」
だからなんで考えが読めるんだってばよ。
おまけに腹上死って、高校生の癖にサイテーだ、こいつ。
「とにかく落ち着いて話を聞けって。ほら、来週に学園祭があるだろう? 俺たち三年生なぁ、旧校舎を使って大掛かりなお化け屋敷をやる事にしたんだなぁ」
僕の怒りもなんのその、横須賀先輩は勝手に話を進める。
僕はどうして瑠璃ちゃんへの恋心を知っているのか、それを誰かに話してはいないかと問いただしたい事は多かった。が、とことんマイペースな先輩がこうなっては、こちらの求める情報を聞き出すのがいかに難しいかを僕は知っている。下手に踏み込めば、それこそヤブヘビ。逆に知られたくない情報を暴かれた挙句、それが明日には全校生徒の知るところになってもおかしくないほどの危険人物だった。
だから僕は大人しく話を聞くことにする。
それに持ち出された話題にも少し興味があった。
ようやく来年の春先に取り壊しが決まった旧校舎。三年生がこれに目を付け、なんでも丸ごと使ったお化け屋敷をやるらしいと夏休み前からひそかな噂になっていた。
しかもただのお化け屋敷ではない。旧校舎からの脱出を目的としたストーリー仕立てになっており、一組の男女カップルで挑むそれは、恐怖あり、アクションあり、謎解きあり、感動ありとさながらホラーゲームを生身で実体感できるようなアトラクションとなっているそうだ。
大掛かりな舞台設定が噂を呼び、関心が高まりつつある中でゲーム感覚の心浮き立つ内容が公開されると、その大胆な企画は瞬く間に学園内に広まって注目を集めていた。
「おかげさまで前評判も高くてなぁ。なんでもその参加チケットは、裏では相当高額でやり取りされているらしい」
そう、これほど大掛かりな事をしておきながら、演出の関係で一回の公演には一組のカップルしか参加出来ない。おまけに公演は十回しかないから、実質このアトラクションを楽しめるのは二十人だけ。そんな理由もあって、今やそのチケットは誰もが欲しがるお宝となっていた。
「そして実は俺、この企画の発起人だったりするわけだ。だからな、その権限で持っていたりするんだよ、そのプラチナチケット。しかも最終公演のヤツ」
なん……だと……?
驚愕する僕に、先輩はひらひらと二枚のチケットを指先で振ってみせた。
「瑠璃ちゃんと一緒に楽しめたら最高だよなぁ?」
これ以上は無いぐらいのドヤ顔だった。
「カップルでの参加を強制しているぐらいだから、当然、その手のイベントも盛り込んでいるぞぅ? 怖がる瑠璃ちゃんを、栗栖が自分の身を挺して守るところを想像してみなよ。『きゃあ、栗栖センパイ、格好いいですー! 大好きー! ぶちゅうぅぅぅ』なんて事もあるかもよ、あるかもよ?」
き、汚い。人の恋心を利用するとは、なんて汚い人間なんだ!
「さて、ここまで言えば、何をすればいいのか分かってるよな、栗栖?」
くそう。先輩の顔には思いっきり「ボクちんへの冷たい言動に対して、誠意ある謝罪を要求するニダ」という表情が浮かんでいた。
はっきり言おう。
この時、僕は冷静さを失っていた。
それは主に暑くて臭い暗室に、一時間も篭っていたせいだと考えられる。
決して横須賀先輩の口車に乗せられたわけでも、ましてやイヤらしい妄想に取り付かれたわけでもない。
そもそも裏切り者で、パパラッチで、ジコチューな先輩が企画したお化け屋敷なぞ、まともな物であるわけがないだろう。先輩という人物を知っていれば、幼稚園児だってそれぐらいの分別はつく。
だからこの時の僕の行動は、振り返って考えると、潜在的な意識の中でただ涼を求めただに過ぎない。ただ、その行為の中でせっかくこの格好をするのだから、おまけでチケットを下さいとお願いしてもいいかなという、その程度の物だったのだと思う。
「お願いします。この通りですから、そのチケットを僕にください」
気付けば僕は土下座を決めていた。
おでこを擦り付けた床が冷たくて気持ちよかった。
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