嘆きのウラヌス

七木へんり

嘆きのウラヌス

 帝国皇帝は死んだ。

 人々の叫ぶ快哉は帝都から数多の属州へと駆け抜けていく。雪深い森の奥へ、灼熱の大地へ――帝都へと通じる全ての道を通って、黄金のサンダルを履いた伝令神のように飛び回った。

 血潮にも似たそれは隅々までを潤し、勢いよく国の鼓動が打つ。悪政に青ざめていた帝国市民が生気を取り戻す。

 見よ、歓喜に沸く七つの丘を。救い出された世界の燈台を。絶えることなき永遠の炎を。高らかに詩人が歌う。

 軍団は凱歌を揚げ、元老院はほくそ笑み、市民は嬉し涙で喝采した。

 母の傀儡の愚かな皇帝は死んだ。殺された。輝ける尊厳者の権威を地に落とした男、贖いには名誉の抹殺でも到底足りぬ。

 謂れなき粛清、無実の罪で処刑される者たちの嘆きは天をも揺り動かさんばかり。皇帝のやり方に異を唱えた都市はその住民ごと軍馬の蹄にかけられた。流される夥しい血、もたらされる老若男女に等しい死、徹底的な破壊。はたまた放蕩に耽溺し、重税を課し、悉を奪い去った。そして、あの猥りがわしい様。放埓な肉欲、爛れた性のおぞましき狂乱の宴、悪徳の栄え。

 閃いた白刃は、天空の支配者、全知全能神の放つ雷霆であった。正義によって悪しき者を討ち果たす裁きの光だ。

 常軌を逸した皇帝の愚行に対する軍団の嫌悪が、皇帝のご機嫌取りに終始する蔑ろにされた元老院の不満がそれを為したのではない。夫を、子を、兄弟を失った女たちの涙、父を、兄弟を、友人を失った子らの怒りが、積もり積もって彼を切り伏せたのだ。

 かくしてかつて万民をひれ伏させた男は首を落とされた。躯は紫地の帝衣を剥ぎ取られ帝都中を引き回されるという屈辱を味わわされた。

 しかし、民人の怨みはそれでも鎮まらぬ。彼の裸の躯は千々に切り刻まれ、澄むことなき川へと投げ入れられた。

 怒り冷めやらぬ人々はその首も同じ目にあわせようとしたが、混乱に紛れたかどこを探しても何故かそれだけは見つからなかった。

 ――帝国の建国から約三百年が経過した頃のことである。



 建国から二百八十年を少し過ぎた年の、豊穣の女神の月も半ばを過ぎた麗らかな昼下がり、薔薇園では密やかな会話がなされていた。

 華やかな色合いが咲き乱れるそこには、えも言われぬ香りが漂う。東方から帝国に伝わったこの芳しく美しい花は、現在ではなくてはならないものとして生活に溶け込んでいる。貴族の間では自分の薔薇園を造るのが流行していて、帝都の一画、七つの丘の内最も古い丘に築かれた壮麗な宮殿の主も例外ではなく、見事な薔薇の園をあつらえているのだった。


「いってっ! とげが刺さった! これ以上奥に隠れるのは、やっぱり無理だ!」

「大きな声を出すな、コンスタンス。そなたは馬鹿か。せっかく家庭教師老いぼれの退屈な話から奴隷どもを撒いてまで逃げてきたというのに。見つかったらどうするのだ」

「おまえ、年上に対してそれはないだろう」

「確かにわたしはそなたより年少だが、身分も頭の中身もそなたに勝っている」

「なんて可愛げのない! 昔はあんなにもおれの後をついて回っていたというのに!」


 園の奥まったところの茨の茂みから這い出て天を仰いで慨嘆すれば、共に高名な教師に師事する少年から今にも射殺されそうな視線を寄こされた。年齢だけでなく身長も頭一つ半ほど小さいくせに何という迫力だ。おっかない。

 コンスタンスの母の妹の子にして現皇帝の息子は、まだ幼いというのに完成された容貌の持ち主だった。

 血の通わぬ白さの肌と、肩口へと真っ直ぐ流れる葡萄酒色の髪の対比が鮮やかで深い印象を残す。繊細な眉とその下の切れの鋭い目が大人びた美貌を構成していて、神経質そうな唇は少女めいて赤い。

 ぶつくさ言いながら皇子はコンスタンスの手を取った。顔がわずかに曇っていることに恐らく本人は気づいていないだろう。


「……って、こんな小さな傷であんな大声を出していたのか!? まったく、大袈裟な!」


 本当に薔薇のような奴だ。

 はたき落とされた手を引き戻したコンスタンスは思わずにいられない。美しい姿形と触れれば人を傷つける鋭い棘――そっくりだ。その棘が身を守る術だということに気がついている者は、ごくわずかだったが。

 そう物心ついた頃から共にいるのだ。分からぬはずはない。


「何か失礼なことを考えたな?」

「いや? おまえの瞳は鴨の羽のような色だと思って」

「みょ、妙な譬え方をするな!」

「なんでだ!? 綺麗な色だと褒めたんだぞ!?」

「もう少し詩的な表現はできぬのか!」


 怒り出した皇子の照れに気づいてほのかに笑むと向う脛を蹴り飛ばされた。この人より華奢な美少年は花の顔に反して喧嘩っ早かった。向こう気の強さは母譲りか、明らかに体格の違う相手にも臆せず向かっていくので、コンスタンスは度々肝を冷やしたものだ。


「照れるなよ、アレクシウス。おれとおまえの仲じゃあないか。帝国広しといえども、おれたちほど仲のいい『兄弟』は、いないだろう?」


 強かに蹴られた脛をさすりながら言えば、うるさいと刺々しい声が投げつけられる。

 コンスタンスは、そっぽを向いたアレクシウスの背中をにやにやと眺めてからそっと視線を外した。さんざめく女たちの声が耳をついたためだ。それは媚態を増してどんどん近づいてくる。真近くにいる皇子にも聞こえてはいるのだろうが、反応はない。

 何事かと確かめようとした途端に衣を強く引かれた。暗い青緑の目が行くなと言っている。コンスタンスはそこでようやく一際高い声の主の正体に思い至った。

 皇帝の妾妃ユリア。コンスタンスの叔母にしてアレクシウスの実母だ。

 東方の毒花と口さがない帝国市民に噂される属州アレキア出身の彼の母は、ではなかった。女というにも少し違う。彼女が愛するのは男ではなく無論のこと子でもない。力である。欲に忠実な彼女は人を、人の運命を恣にすることに快楽を得る性質だった。運良く妾とはいえ皇帝の妃の座に納まったのは彼女にとってこの上もない僥倖であったろう。品を作った彼女が帝衣を引けば大抵のことは思いのままだ。

 自らの立場のために生した子。狡猾な妾妃は表立って口にすることはないが、ふとした折にそれを垣間見せた。産んだ子がこれほど聡くなければ気づくことはなかったやもしれぬ。しかし、その子の過敏なほどに研ぎ澄まされた神経は、母の醜穢なる本音をいとも容易く拾い上げてしまう。

 ――たとえ本当に息子が姿を消したとしても心からは悲しまぬのではないか。外聞のためによよと泣き崩れ、皇帝に縋りつくくらいはするだろうが、それは盤上の重要な駒を失ったという嘆きに過ぎない。

 コンスタンスは幾度も見てきた。それでも母を恋しがるアレクシウスがおずおずと手を伸ばす様を、思い届かず力なく手を落とす様を。己とて似たようなものだったから彼の気持ちは痛いほどよく分かる。そのことが二人をより強く結びつけたのだ。

 兄弟のいないコンスタンスにとってアレクシウスは何にも代えがたい弟であった。己がこの地上に萎えることなく自身の足でしっかりと立つための根拠といってもいい。


「コンスタンス……聞くな、あれは妖婦の歌ぞ。聞く者を惑わし、海の底に引きずり込む禍々しき妖しの業だ」


 アレクシウスの青白い顔が浮かべる笑みは、その年齢にそぐわないほどに疲弊しきっていた。コンスタンスの目には耳を塞ぎ、身を伏せて泣く幼子の姿がちらつく。

 聞くに堪えぬ嬌声は今やはっきりと退廃のにおいを醸し出している。ねっとりとした淫蕩な空気が香り高い薔薇園を汚していく。姦通は婚姻の華と嘯いた浅薄な貴族がいたが、光輝に満ちた尊厳者の宮殿の園でも同じことが言えるだろうか。

 高く低く声はあらゆる汚らわしいことを語った。帝衣を脱ぎ捨てた寝床の中の男のことからその精を受けて生まれ落ちた一粒種のことまで。純な白き肌を組み敷いてどろりとした汚泥を塗りたくろうと邪な手を伸ばす。

 あまりの醜さにとうとうコンスタンスは耐え切れなくなってアレクシウスの手を引いて駆け出した。

 刺々しい茨のもっと奥へ? いや、どこでもいい。ここでなければ。ここから遠くへ。もっと遠くへ。ここにいてはいけない。この綺麗なものが穢されてしまう。

 されるがままのアレクシウスと二人駆けていると世界という暗闇が嘲笑しながらのしかかって来る気がした。世界は無力な子どもたちにちっとも優しくはない。抗う術を持たぬ我らを隙あらば蹂躙しようと手ぐすねを引いている。無垢な犠牲を一息にたいらげようと真っ赤な口を開けて待っているのだ。

 ――そうはさせるか。

 コンスタンスにも備わる向こう気が顔を出す。

 たとえ何もかもに背いても。道理など端から相手にすらならぬ。天に、神にさえ背いてでも、この美しきものを守ろう。彼の者を無残に穢そうとする全てのものから。

 悲壮な決意を胸にあの忌まわしき喘ぎ、愛でられる肉体のおぞましい睦言が聞こえなくなるまで走って、走って、走り続けた。

 背後の皇子が苦しげな息をもらし、我に返ったコンスタンスはようやく足を止める。いつの間にか皇帝の個人的な礼拝堂の前まで来ていた。ここには皇帝の遠祖である愛と美の女神が祀られている。

 いつもなら真っ先に毒づくはずのアレクシウスが何も言わない。ただ黙って息を整えている。振り返ると彼はこちらをじっと見ていた。

 視線が、交わる。

 コンスタンスは神に誓うかの如くにアレクシウスを掻き抱いた。幼い抱擁だった。だが、それゆえに心の内が隠しきれずに溢れる。皇子の細い手が背中に回された。混沌たる中で唯一つの確かなものであるかのようにぎゅっとしがみついてくる。

 コンスタンス十二歳、アレクシウス八歳のこの日、二人は泣いた。幼い弱さなど今ここで全て葬ってしまえと言わんばかりに。



 その日からコンスタンスは変わった。あどけない誓いを守るため、守り得るだけの力を備える必要があった。

 退屈だと逃げ回っていた家庭教師の講義を熱心に受けるようになり、面倒だとさぼりがちだった鍛練を同年代の誰よりもしっかりとこなした。

 妙に冴えた眼をするようになったアレクシウスもそれに続いた。けれども腺病質の気のある彼は武術の方はからきしだ。それでもなんとか続けていたのだが、ある時、体調を崩していたのに無理をして結局倒れてしまった。貧血を起こしたのだという。それ以降は鍛練に勤しんでいる姿を終ぞ見たことがない。

 ひたすら勉学と鍛錬に明け暮れる日々が続き、コンスタンスが頭角を現し始めると、連れ立つ者たちの顔ぶれも否応なしに変わった。あの誓いのことは片時も忘れてはいない。しかし、手段が目的に取って代わられていたのも事実だ。次第にアレクシウスと過ごす時間も減っていく。コンスタンスはそのことに一抹の寂しさを感じてはいたが、年齢も離れているし当然の成り行きだと思っていた。

 ――それだけではないことに気づいたのは、ある初夏の日のことだ。

 コンスタンスは帝国において成人とみなされる十七歳になっていた。

 軍に身を置き、総督となった父につき従って属州に赴くことになった少年は、帝国におけるありとあらゆる美徳を身につけていた。いや、顔こそ幼さを残してはいるものの既にトガを着る姿も堂々としたいっぱしの青年である。


「アレクシウス。いないのか? アレクシウス!」


 潜めた声で呼ばわる。応えはない。

 ここにいると聞いたのだが、どうしたものか。

 コンスタンスは思案顔でぐるりと辺りを一瞥する。に収められた帝国の叡智が冒し難い威厳を湛えて若者を見下ろしてきた。

 飲み込まれそうなほどに際限なく広がる書架の海。うず高く積まれた巻子は古今東西の智者たちの金言、値千金の知識で埋め尽くされている。帝国の公用語や教養人の言語であるグラエキアの言葉だけでなく異国の言語で記されたものもあった。東方の大図書館にも匹敵する蔵書を誇る皇帝の図書館は圧倒的に雄弁でありながら静けさに満ちている。

 午前は家庭教師について学び、午後は身の回りの世話をする奴隷すら遠ざけてここに籠るのがアレクシウスの日課となっているらしい。彼に倣ってコンスタンスも奴隷たちを置いてきた。

 立ち並ぶ列柱の間を縫ってコンスタンスはアレクシウスを探し回った。幾本目の柱の下を歩いているのかも分からなくなった頃にようやく皇子を発見した。

 明り取りの窓からほのかに光が差し込む一画、異国情緒あふれる刺繍が施された腰掛けに座ったアレクシウスは小さな円卓に突っ伏してうたた寝している。近くには読みかけの巻子が広げられていた。


「……のん気に昼寝とはいいご身分だ」


 皮肉げな言葉とは裏腹にコンスタンスの声の調子も表情も柔らかい。こうしてまともに彼の姿を目に入れたのは久しぶりだったからだ。

 一見する限り相変わらず華奢だったが、幾分か背が伸びた。葡萄酒色の髪も艶やかに長く背を覆っている。顔は伏せているために分からないけれども、きっと変わらぬ美しい顔をしているのだろう。

 自分の用はたいしたことではない。属州へと向かう前に挨拶しておきたかっただけだ。何かと気苦労の多い皇子のこと、相当に疲れがたまっているに違いない。目覚めるまで待つとしよう。

 コンスタンスは物音を立てないよう慎重に腰掛けを引き寄せた。そこへ腰を下ろした途端に少しひねた声をかけられる。


「実際にいい身分なのだから、仕方ないだろう?」

「アレクシウス」


 皇子が顔を上げていた。頬にはらはらと落ちかかる髪を掻き上げ、少女めいた唇を人の悪い笑みの形に吊り上げている。


「久しぶりだな、元気だったか?」

「衣食住に恵まれ、唯々諾々と生かされていることを元気というなら元気なのであろう」

「おまえはまたそんな言い方をする」


 アレクシウスの目元には、かつてはなかったわずかな険があった。それが誰に向けられたものかは想像に難くない。ただその険が大人びた美貌に危うさを添えている。


「それで? そなた今日は如何なる用件でわたしの前に顔を出したのだ?」


 冷たく響きがちな声の端々に彼の精一杯の親愛の情がこもっていた。

 コンスタンスは世事を学び経験を積むために軍務に就くこと、総督となった父について属州へ下ることをかいつまんで話した。

 円卓に肘をついたアレクシウスは髪の一房をいじりながらただ黙ってそれを聞いている。


「――メッサリアへ発つ前におまえに一目会っておきたかった。願いが叶って良かったよ」

「……なぜ? 近頃は兄上と懇意にしているそうではないか。わたしなどに用はないのでは?」

「なぜって……」


 コンスタンスはふと言葉に詰まった。

 アレクシウスの兄――ルキウスは正妃の子だ。アレクシウスより二歳年上の少年で、どちらかというと印象の薄いアレクシウスと違い、父からの覚えもめでたい。そう遠くない未来、皇帝は彼を後継者に指名するだろうというのが衆目の一致するところである。

 皇帝の寵を笠に着て得意満面の妾妃ユリアでもままならぬ唯一のことが後継問題であった。血筋も確かな才ある後継候補がいる以上、それに劣らず優秀であっても妾腹のアレクシウスが帝位に就く可能性は現時点では限りなく低い。ユリアは不満げではあったが、何も言わなかった。今のところは。


「理由などない。ただ腹の底から会いたいと思ったゆえにだ。おまえはおれに会いたくはなかったのか?」

「なにを」


 馬鹿な、と鼻で笑ってアレクシウスは立ち上がり、コンスタンスに背を向けた。未だトガを身につけることを許されてはいないためトゥニカ姿だ。その肢体は未だ男のにおいの欠片もないためか、瑞々しい。すっかり男らしくなったコンスタンスには、やけに目映く思えた。


「久方ぶりに目の前に現れたかと思ったら、わけの分からぬことを言い出す。そなたなど知らぬ。どこなりと行ってしまえ」

「ったく、少しは寂しがるとかしろよ」


 突き放したことを言う皇子の耳はやはり赤い。コンスタンスは愉快そうに笑った。

 しばらくコンスタンスを横目で睨んでいたアレクシウスもしまいには笑いだした。快活なというにはほど遠いが、年齢に相応しい顔をしている。

 その後は幼い日に戻ったかの如くにとりとめもない話をした。不思議なもので少し疎遠になっていたことを微塵も感じさせない。つい昨日手を振ってまた明日と別れたばかりのようだった。


「……自分で決めたことゆえ致し方ないが、おまえと話していると波乱多き彼の地へいざ赴かんとする気持ちがほんの少し失せる」


 コンスタンスの独白にも似たつぶやきを拾ったアレクシウスがどこか遠くを眺めて言う。


「……わたしの余命が幾許もないと言ったら、わたしのために行くのを止めるか?」

「アレクシウス!? おまえ、どこか悪いのか!?」


 腰掛けを蹴り飛ばして立ち上がったコンスタンスはアレクシウスの肩を強く掴んだ。その力の強さに驚いたのだろう。皇子は目を見開いた。


「……安心せよ、例え話だ」

「驚かせるな! 冗談が過ぎるぞ!」


 怒気をにじませたコンスタンスを見つめるアレクシウスは形容し難い顔をしている。笑っているような、泣いているような、そんな表情だ。


「いや、すべてが例えというわけではないな。わたしは病なのだ」

 言葉を失ったコンスタンスの食い入るような視線の先でアレクシウスは胸の辺りを押さえた。まるで心臓を掻き出そうとでもいう風に爪が立てられる。

 命に別状こそないが、不治の病であること、子を生すことは叶わないだろうこと――彼はそういう趣旨のことをなげやりに言った。


「一生これと付き合っていかねばならぬかと思うと、気が重い。抱えきれぬ重みに生きながら冥府に沈んでいくようだ」


 ひどく憂鬱な、暗い声だ。

 コンスタンスは不意に悟った。これこそがアレクシウスとの間にいつしか出来ていた距離の一因ではないのかと。

 なぜ、気づいてやれなかったのだろう。過ぎし日にはあんなにも近くにいたのに。傷口から血が染み出すように後悔が込み上げてくる。都合のいい感傷かもしれない。自責の念がコンスタンスにこんなことを言わせた。


「……ならば、その重みをおれにも分けよ。一人で抱えきれぬというなら、おまえの傍らでおれも共に背負おう。この生涯かけて」


 できるものかと激するかと思ったが、反してアレクシウスは少し寂しそうに微笑んだ。

 彼の微笑みは何を意味していたのか。コンスタンはひたすらに考え続けた。答えは、出ない。

 出発の日、軍神の神殿の前に集った人々の中にアレクシウスの姿はなかった。しかし、彼の従者奴隷の一人がひっそりと紛れていたので、もしかしたら近くにはいたのかもしれない。コンスタンスはそう信じて属州へと発った。



 それから三年後、メッサリアの平定も未だ見えぬ神々の女王の月のこと、アレクシウスが家庭教師を殺したと風の噂で聞いた。

 聞いたばかりの頃はそんな馬鹿なと一笑に付したが、しばらくしてそれが真実だと知ってコンスタンスは動揺した。

 いったい何があったのだ、アレクシウス。

 居ても立ってもいられず帝都に飛んで帰りたくなったが、曲がりなりにも幕僚の末席に連なる身、いよいよ混迷を極めていく戦局を放っていくことはできない。

 コンスタンスは手紙をしたためた。戦況を報告するための使いに頼み込んで帝都へ送ってもらったが、返事は来なかった。

 やがてアレクシウスを案ずる気持ちは息つく間もない激しい戦闘に紛れて薄れていく。

 年が明け、長い冬も過ぎ、帝国軍は前の年に一度は帰順したものの他部族と結んで反旗を翻したイェネス族と相対していた。

 そもそも属州メッサリアはメッサラ川を境として北と南で随分と様相が異なる。帝国の初期に属州となってすっかり同化したエルニアに隣接する南メッサリアは帝国化も進み、遠征に従事する帝国軍の拠点となっていた。対して北メッサリアは帝国の支配が完全には及んでおらず、帝国に不満を持つメッサリア人の部族が多数存在している。イェネス族もそうした部族のひとつであった。またメッサリアの北東からはハサディア人が、西からはタルディア人が頻繁に侵入しては暴れ回り、帝国を悩ませていた。

 メッサリア総督であるコンスタンスの父は、総督代理数名をハサディア人ら油断ならない勢力の抑えに割き、自身はコンスタンスを伴ってイェネス族の征討に向かった。

 恵まれた体格と誇り高い勇敢さを兼ね備えた獰猛なメッサリア人の戦士たちに帝国軍はかねてから苦戦していた。だが、個々人が優れた才を有する彼らは団結するということを知らない。数に勝る上、練度が高く統制の取れた帝国軍は、激闘の末にこれを鎮圧することに成功する。

 首謀者らを処刑して人質の数をさらに増やし、反乱を起こしたイェネス族及び他部族に再度の帝国への恭順を誓わせた矢先、メッサリア総督の陣営地に急使が駆け込んできた。

 ――皇帝が病に倒れたという知らせだった。

 行間から病が重篤であると読んだコンスタンスの父は即座に息子に帝都へ戻るよう指示した。有力な将軍の一人として皇帝の後継問題を真近くで注視する必要があったが、自身には職務があり動けない。そのため信頼できる目である息子を向かわせることにしたのである。

 こうして二十一歳になっていたコンスタンスは帝都へと帰還することとなった。

 四年前は柔らかさを残していた頬も引き締まり、荒んだ戦地を駆け日に焼けた体も強靭さを増している。立ち居振る舞いにも穏やかな自信が加わっていた。

 コンスタンスは父から預かった書簡を元老院へと届けると、貴族たちの邸宅がひしめき合う丘にある自邸へと戻った。出迎えた母の気のない挨拶を聞き流し、母よりも帰宅を喜ぶ奴隷たちに留守にしていた間の出来事を聞きつつ、休む暇もなく父の名代として病床の皇帝の見舞いへと赴く手筈を整える。

 そう、休んではいられない。やらねばならぬことは山のようにあった。

 細心の注意を払い、玉座がどこへ転がるか舌舐めずりをして待つ伏魔殿を泳ぎ回る最中、アレクシウスのことが頭を過らなかったといえば全くの嘘になる。しかし、コンスタンスは努めて皇子のことを考えないようにした。

 コンスタンスがもう一人の皇子に声をかけられたのは、病臥する皇帝の側を辞し、その病状や後継問題に対する貴族の動向などを父に伝えるべく、傍目には荘重に見えるよう苦心しつつ宮殿内を急いでいた時のことである。


「コンスタンス、久しいな」

「これは、ルキウス様」


 背後に従者奴隷を伴った有力な後継者候補は再会を祝すように闊達な笑顔を見せた。父皇帝によく似た精悍な顔をすぐに引き締め、彼はコンスタンスを中庭へと誘う。

 断るわけにもいかず、コンスタンスは従者の中でも目端が利く者をそれとなく自邸へ走らせる。メッサリアへ早馬を飛ばす準備のためだ。

 当たり障りのない時節の挨拶に始まり、メッサリアでの総督及びコンスタンスの活躍を称えると、ルキウスはお前だから単刀直入に言うのだと前置いてこう切り出した。


「悲しいことだが、父上はおそらく長くない。ご自身でもそれはお分かりになっているはずだ。……数日の内にわたしは後継者に指名されるだろう」


 おぼろげに皇子の言いたいことを察したコンスタンスは、不用意なことは言うまいと顰めた眉を上げるにとどめる。


「わたしはね、過信するつもりはないのだ。成人しているとはいえ、元老院の連中おとなたちに比べれば、羽も生え揃わぬ若輩だ。ゆえに彼らはわたしを侮り、意のままにしようとするだろう。だが、わたしは国家の父、尊厳者となるのだ。彼らを肥えさせるための傀儡になどならん。わたしが父として守るのは帝国の市民だ。わたしの手を取れ、コンスタンス。お前はわたしの友人の中でも一等優秀だ。彼らと戦うための力を貸してくれ。いずれ然るべき官職を用意しよう。それに妹をお前に添わせてもいい」


 若く、名誉心に富み、理想に燃える者にとって、確かに皇子の申し出には心惹かれるものがある。さらに一族にとっても悪い話ではないだろう。

 さて、どう答えたものか。

 ――とはいっても、コンスタンスに決定権などない。全ては家長たる父が決めることだ。

 この賢明な皇子もメッサリア目指してひた走るであろう早馬のことは百も承知している。コンスタンスに提案するという体を取っているが、実のところは彼を通してメッサリアにいる書簡の受取人に言っているのである。

 ルキウスが父皇帝の指名を受けたとしても、市民は元より軍人からの人気も高い総督の支持を取りつけることの重要性は、些かも揺るがなかった。自らの地位を盤石にするための御守は幾つあっても困ることはない。


「無論、今すぐに返答せよとは言わない。だが、良い返事を期待している」


 微笑みかけるルキウスには一切の淀みがなかった。悠々と大空を舞う鷲の如くに伸びやかで恐れを知らない。身に流れる正統な血のなせる業だろう。

 なんと眩いお方か。

 自身には眩し過ぎる。コンスタンスは怖気づき、思わず後ずさりするような心持になった。そんなコンスタンスを押し止める力を持つ涼やかな声が響く。


「兄上は我が従兄弟殿と何を話しておいでです?」

「アレクシウス、ここしばらく臥せっていたと聞いたが、体の方はもう良いのか?」

「ええ、ご心配をおかけしました。それに、父上の大事に不甲斐ないことを言ってもいられませんしね」


 咄嗟に振り返ることができなかったのは、例の一件が後を引いていたからかもしれない。それとも波打つ懐かしさの茨に絡め取られたというべきか。


「無事戻ったか、コンスタンス」

「お久しぶりです」


 ぎこちなく向き直った先には、柱に寄りかかる見慣れた姿があった。胸をつかれる思いがしたのは、アレクシウスの目元の険が色濃くなったからだろう。

 彼もとうとう成人し、トガを身につけている。トガの重なり合うひだのおかげで身体の華奢さが目立たなくなった。それでもうら若き太陽神というより月の女神という風情なのは、コンスタンスがよく知るその気性のせいだ。


「従兄弟同士積もる話もあるだろう。わたしはこれで失礼する。アレクシウス、体をいとえよ。コンスタンス、またな」

「ありがとうございます、兄上」


 颯爽と去っていくルキウスの堂々とした背中を恭しく見送るとコンスタンスは無性に落ち着かない気分になった。アレクシウスは無言でこちらを見ている。真っ直ぐに見つめてくる鴨羽色の目に耐え切れなくなってコンスタンスは視線を逸らす。


「……遠乗りに行かないか」

 あまりにも不自然な沈黙が続き、業を煮やしたらしい。乗馬が得意ではないはずの皇子が思いもよらぬ提案をしてきたので、コンスタンスは頷くことしかできなかった。




「随分と御上手になられましたね」


 皇子は思った以上に巧みに馬を乗りこなしていた。離れていた間に彼が成長していたことを実感してコンスタンスは嬉しく思う。

 メッサリアの荒ぶる風とは違う穏やかな風を受けていると、妙なしこりを感じて縮こまっていた気分はいつの間にかほぐれていた。

 従者を引き連れてのんびりと駒を進めた二人は帝都の郊外に来ている。水源の山から流れ出て帝都の中を通り海へ旅立つ川のほとりだ。

 すぐ側には川を横切る街道にかかる橋があった。古に帝国の心臓部近くまで侵入した蛮族を辛くも撃退した記念に作られたものである。石造りの拱橋の両端には終始の境界の神である双面神が彫られており、文字通りここが境であることを示していた。


「幼い頃、わたしの前にお乗せしていたのが嘘のようです。ほら、覚えておいでですか? 確かまだアレクシウス様が五、六歳で――」


 口数が増えてきたコンスタンスとは対照的にアレクシウスは先程から一言も喋らない。あまつさえ馬から降りると橋に向かってふらふら歩き始めた。引き止めようにも、ものを知らぬ子どもの頃とは違い、おいそれと身体に触れることは憚られる。コンスタンスは馬を従者たちに任せ、つかず離れずの距離を保ちながら慌てて後を追った。彼が嫌がるだろうと思い、従者たちには離れて待つようにと目顔で伝える。


「お待ち下さい。いったいどうされたのですか?」

「そなたは!」

「ア、アレクシウス様?」


 橋の真ん中辺りまで来た時、アレクシウスは急に振り返った。


「その口の利き方はなんなのだ!」

「これは失礼致しました。生来の不調法者の上、蛮地に長くおりましたので、知らず礼を失していたようです。どうかお許し下さい」

「違う! そうではない!」


 いつもは血の気が失せたように白い頬に赤みが差し、怒りで目の色がさらに深くなっている。コンスタンスは唐突に皇子がアレキア人の血を引いていることを思い出した。実際のところコンスタンスにもその血は流れているのだが、自身は父の血が強かったらしく黒髪に黒褐色の目という平均的な帝国人の容姿だ。


「そなたはいったいどうしてしまったのだ!? わたしの知っているコンスタンスはどこへ行ってしまったのか! いつからそのような目をするように!? あれらと同じ値踏みする目! 己がためになるかどうか小賢しく計る呪わしいあの目! わたしを置き去りにしてまで向かったメッサリアとは、人の魂を食らう魑魅魍魎の巣窟なのか? であったならば、なんと恐ろしいところなのだ! 神々よ、あれほど祈りを、数多の供物を奉げたのにお守り下さらなかったのか! わたしのコンスタンスを返せ! 返してくれ!」


 アレクシウスの高い叫びに瞠目する。

 ここへ来る前、コンスタンスはメッサリアへと向かわせる早馬をひとまず止めていた。この時期だ。アレクシウスも後継候補の一人として見る気持ちが確かにあった。早馬を止めたのもまだ書簡に書き加える必要があると判じたからに他ならない。認めたくはないが、長き別離の後の再会の喜びよりもそれが勝っていたのだろうか。


「どうして壁を作るのだ! 隔てるための取り繕った言葉など反吐が出る! どうしてわたしを遠ざけようと!? わたしを他の者と同じように、その他大勢のように扱うなど許さぬ! 帝国広しといえども、わたしたちほど仲のいい『兄弟』は、いないのだろう!?」


 肩で息をするアレクシウスの体がぐらりと傾ぐ。立て続けに大声を出したからか、眩暈に襲われたらしい皇子は扶壁に手をつくが、その手が滑って弾みで川面へと投げ出された。

 咄嗟に腕を伸ばす。しかし、遅かった。コンスタンスの手は空しく宙を掴む。


「アレクシウス!」


 水音を聞く間もなくトガを脱ぎ捨てると、コンスタンスはアレクシウスを追って川に飛び込んだ。泡を食った従者が何事か叫んでいるが聞こえない。コンスタンスの意識は全てアレクシウスに向かっていた。

 着水の体勢が悪かったのだろう。アレクシウスは力なく流されていく。コンスタンスは必死に水を掻いた。

 あと少し、もう少し。アレクシウスに辿り着くのを邪魔するかの如くまとわりつく水の抵抗を振り切り、コンスタンスはやっとのことで川底に引きずり込まれそうな彼の体をとらえる。水を吸って重い枷のようになったトガをもたつきながらも脱がせ、コンスタンスはアレクシウスを抱えて対岸に向うべく力を振り絞った。

 万が一、力尽きた時のためにせめてアレクシウスだけでも押し上げようと足掻いているうち、どうにか岸に辿り着く。

 なんという僥倖だ。コンスタンスは神々に感謝した。戻ったら幸運の女神の神殿には特に上等な供物を奉げようと決めて乾いた大地に這い上がる。

 アレクシウスをそっと横たえて辺りを見渡せば、橋からは大分流されていることが分かったが、心配はしていない。いずれ従者らが探しにやって来るだろう。それよりもアレクシウスの無事を確認することが先だ。

 横たわるアレクシウスの口元に耳を近づける。息をしていないように思えた。

 震える指先を御し、コンスタンスが縋る思いで治癒の女神に祈った時、皇帝の図書館で目にした書物のことを思い出す。

 それは帝国の南東部に位置する属州ダエアの歴史書で、ダエアの歴代の王と預言者たちについて書かれたものだ。

『――預言者は哀れな母の嘆きに応えて死せる子どもの上に身を伏せ、其の額に右の手を置き、頤に左の人差し指を添え、口に生命の息吹を吹き込んだ。しばらくの後に七度不浄の気を吐き出し、少年の体は温かさを取り戻した』

 コンスタンスは、アレクシウスの白い顔に貼りつく葡萄酒色の髪を掻き上げてやる。そして、書物の通りに手を添え、躊躇いがちに顔を傾けた。

 近づく彼の顔。音なく触れ合う唇。唇のひやりとした感触。脳裏にこだまするアレクシウスの声――わたしのコンスタンス。

 既に冥府へと下っているのではないかという怯えを殺し、幾度か息吹を吹き込む。コンスタンスは強い感情が奥底から込み上げてくるのを感じた。彼を救うためだというのにどこか後ろめたい。それを誤魔化すように治癒の女神へと一心に祈る。

 お願いだ、この手から奪い給うな。

 祈りが通じたか、アレクシウスが何度か咳き込んで水を吐き出した。意識こそ戻っていないものの呼吸を始める。

 安堵したコンスタンスはアレクシウスの隣に崩れ落ちた。真近くに皇子の美しい顔がある。目を閉じていると目元の色濃い険が目立たない。安らかな寝顔そのものだ。

 ふっと意識が遠のきかけてコンスタンスは首を振った。ともすれば薄れゆく意識を止めるため、親指の付け根に噛みつく。うっすらと血がにじみ、痛みで覚醒した。

 初夏の足音が近づいているとはいえ水温は低めだ。冷えた体を温めなくてはいけないが、火を起こす術がない。コンスタンスは、せめて助けが来るまで体温を分け合うつもりでアレクシウスの体を抱き寄せる。


「……アレクシウス?」


 違和感にコンスタンスが戸惑っているとアレクシウスが目を開いた。


「……こ……こは? いったい……何が」


 そこで唐突に状況を把握したらしく皇子は跳ね起きる。後を追うように身を起こしたコンスタンスの戸惑いを目にし、彼は見る見るうちに青ざめていく。


「見たのか!?」

「アレクシウス、おれは」

「見たのかと聞いている! 答えよ!」


 コンスタンスは否定すべきか迷った。見てはいないが、彼が隠したいと思っているであろうことについては、分かってしまっていたのだから。

 ――アレクシウスの胸には、柔らかなふくらみがあった。


「……そうか、見たのか。ならば、もう隠す必要はないな」


 アレクシウスは沈黙を肯定と取ったのか、引き攣れた笑みを浮かべて濡れたトゥニカを脱ぎ捨てた。

 白日の下に傷一つない裸体がさらされる。血の気が失せた白さの肌、まろみを帯びた華奢な四肢、股ぐらの男の印と相反するように存在する小ぶりな乳房。グラエキアにそんな話が伝わっていなかったか。男であり、女であるそんな存在の話が。

 狼狽したコンスタンスが思わず視線を逸らすとアレクシウスは自嘲を強めた。


「……醜いか? あの森の泉の水を浴びたこの身、辱められた少年の呪いに冒されたこの身が」


 違う。違うのだ。醜いなどと思ったわけではない。

 自分で思う以上に強い否定だった。しかし、言葉が喉に貼りついたように出てこない。コンスタンスはもどかしく首を横に振る。

 いっこうに逞しくならないほっそりとした体、変わらぬ高い声、月に一度は体調を崩して床に伏せる――思い当たる節はあった。

 だが、まさか、そんな。混乱する頭の中を上手く落ち着かせることができない。


「ああ、なんと呪わしい体だろう。男でもなく女でもない。子を産ませることも産むこともできぬ。わたしは何なのだ。わたしは何のために生まれてきたのか。……あの忌々しい老いぼれが言ったように自分を殺して隠者よろしく末期の時まで過ごさねばならぬのか」


 弾かれたようにコンスタンスはアレクシウスを見た。やはりあの高名なグラエキア人の教師を殺したのか。

 痛ましげな眼差しを非難されたと取ったのか、アレクシウスはコンスタンスに背を向けた。あらゆる言葉を拒絶する背中だった。

 下手な言葉は慰めというより刃となるだろう。コンスタンスは皇子が脱ぎ捨てたトゥニカを拾い上げた。出来得る限り水を絞って雪を思わせる肩に着せかける。

 アレクシウスが冷たさに身を震わせたが、人の目に触れさせたくない。心ない者の放つ舌禍の矢に傷つかせたくはなかった。


「本当は、そなたには、そなたにだけは知られたくなかった。我が身の秘密を知れば、誰も彼も離れていく。当然だ。摂理に背く得体の知れないものの側に誰が好き好んで侍ろうか……きっとそなたも兄上の元へ行ってしまうのだろう?」


 振り向いたアレクシウスの目に凶暴な光が閃く。


「……行かせるものか! あの日、言ったな! 一人では抱えきれぬこの重みを、わたしの傍らで共に背負うと! 生涯かけてと!」

「ア、アレクシウス」

「違えるな! 違えることは許さぬ!」


 少年を無理矢理自分のものにした泉の精の如き抱擁だ。トゥニカがアレクシウスの肩から落ちた。仄暗い情念に圧倒されたコンスタンスはアレクシウス諸共草むらへと仰向けに倒れ込む。

 そらが、見えた。

 恒久の大地の伴侶がうねる運命を嘆いて陰りを帯びている。見上げる首筋に皇子の囁きが降ってきた。


「何人たりとも奪わせはしない。わたしは――」


 呪うように紡がれる甘い声の毒が全身に回って身動きが取れない。柔らかな両手がコンスタンスの頬を包んだ。険のある美貌が泣き笑いに歪む。

 恐ろしい囁きは二つの唇の間に掻き消えた。



 ほどなくして皇帝は没した。没する直前に皇帝が指名した後継者は、ルキウスである。

 皇帝の死を確信し始めた頃から妾妃ユリアは密かに策を講じていた。属州アレキア出身の淫婦はアレクシウスを帝位に就けるため、裕福な実家の溢れんばかりの富を用いて元老院議員や軍団を買収していったのである。

 コンスタンスは腹の底に重石を沈めたような心持ちで事の成り行きを見守った。

 何故なら自身の報告でメッサリア総督はアレクシウスへの忠誠を誓ったのだ。正統な後継者の包囲網は既に完成しつつあった。

 ユリアに買収された者の中には、皇帝の身辺を守る近衛軍団の兵士もいた。

 神君の月の十三日、十二人の兵士を背後に引き連れた男が劇場を訪れたルキウスを呼び止めた。男は以前に親族を処罰されたことでルキウスに深い恨みを抱いていた。処罰の理由は正当なものだったが男には関係なかったのだろう。

 男がルキウスに何と声をかけたのかは分からない。だが、それが平和的な意図からくるものでなかったことだけは確かだ。

 ――全身に三十もの傷を受け、光は世から消え去った。

 この一件は私怨という体を取ってはいたが、誰の差し金によるものかは明白である。

 こうしてアレクシウスは皇帝となった。

 ルキウスの死は思った以上にコンスタンスを悲しませた。ルキウスの身を刺し貫いた剣の刃を研いだのは、いわばコンスタンスのようなものだ。

 コンスタンスは波が逆巻く濁流に放りだされたという気分を拭えないまま、体制を固めることを急務とする皇帝から近衛軍団長官の一人に任じられることとなった。

 即位後の数年、年若い皇帝は意外なほどにまともな内政を行ったので、世を知らぬ若輩に何ができると高をくくっていた元老院も密かに舌を巻いた。外政に関しては従来の対外拡張方針から現状維持方針を採ったので各軍団は少なからず落胆したが、それも一時のことで、国内が安定した暁には再度版図拡大へ向けて突き進むだろうという皇帝の演説によって気を取り直した。

 ここまでは末長い治世への幸先良い滑り出しに思えたが、東方の毒花が大人しくしているはずはなかった。皇帝の母という揺るぎない立場を手中にした奸婦ユリアは妾妃であった時には多少なりともこらえていたと自負する欲望を大っぴらにし始めたのである。

 それは母子の間に軋轢を生んだ。元々内に在ったものが大きな産声を上げたのだ。

 皇帝の側近く仕えるコンスタンスはつぶさに見ていた。皇帝としての賢明な判断と、母の止まることを知らぬ欲望がせめぎ合い、結果として抗しきれない彼が疲弊していくのを。

 驚いたことに皇帝は悪辣な母への愛情を捨て切れていなかったのである。人を意のままにすることを愛するユリアは、皇帝が折れて彼女の願いを叶えると、さも嬉しそうな顔をした。幼い日の皇帝が欲しくとも与えられなかった優しい言葉、優しい態度を惜しげもなく振る舞った。野心のためにあらゆる体に跨った姦婦にしてみれば容易いことだ。

 より一層性質が悪いのは、愛情と自身の身体に関する皇帝の負い目が判然とし難いほどに絡まり合っているということだった。

 目元に幾分か小皺が目立つが今もなお艶やかな皇帝の母は、事あるごとに皇帝の負い目をそれとは分からぬように刺激した。自身への愛情を盾に選ばざるを得ない選択を迫った。苦悩する皇帝の青ざめた顔に向けられるユリアの微笑は慈母の如くで見る者を混乱させる。

 あまりの仕打ちにコンスタンスが激しかけた際も皇帝は目顔で制するのみであった。

 コンスタンスが出来たことといえば、職務の合間に皇帝の傍らに寄り添い、話し相手となることくらいだ。内にこもりがちな皇帝の心中を吐露できる相手が必要だとコンスタンスは考えていた。そして、それは自身をおいて他にない。

 束の間、秘密を共有する二人は穏やかな時間を共に過ごした。思えばこの時間が人生最大の幸福だったのかもしれない。

 しかし、ある一点に向かって収束していくうねりは二人を放っておいてはくれなかった。メッサリア総督が戦死したという一報が帝都にもたらされたのだ。

 コンスタンスは尊敬する父を失い、目の前が真っ暗になった。これで自身を愛してくれる肉親はいなくなったという悲しみが全身を駆け廻る。

 コンスタンスの悲しみをよく理解している皇帝は後任のメッサリア総督としてコンスタンスを指名した。

 皇帝は、いつかのように置き去りにすることを躊躇するコンスタンスを最短で平定せよと笑って送り出す。

 ――彼の精一杯の強がりであることは分かっていた。

 父の仇を討ち何としても早く帰らねば。強い決意とともに二十四歳となったコンスタンスは総督として再度メッサリアの地を踏んだ。

 従順ならざる北メッサリアの諸部族は地の利を活かして抵抗し続けており、戦況は一進一退を繰り返していた。

 コンスタンスが南メッサリアに入って一月ほど経った頃、その年の不作の影響で各地に分散していた冬営地のひとつが襲撃を受けた。直ちに帝国軍は堅牢な守りを敷いたため、襲撃で生じた被害はわずかで済んだのだが、とある問題が発生したのである。

 帝国に友好的であった部族の襲撃に動揺する帝国軍であったが、襲撃の首謀者であるセルヴェ族の族長は、捕らえられた際に襲撃についてこう釈明した。

 曰く、帝国に対する攻撃は本意ではなかった。近頃ハサディア人による圧迫が著しくセルヴェ族は人質を取られ、無理矢理従わされていたのだと。

 冬営地を預かる総督代理は訝しんだが、次いで聞き捨てならぬことを耳にして仰天した。

 セルヴェ族の族長は、分散しているために手薄になった冬営地に近々ハサディア人が大挙して攻撃を仕掛けるつもりであることを告げた。

 ハサディア人らがこの冬営地に達するまで数日もない。一刻も早く近隣の冬営地へと合流して防備を固めるべきである。その際、これまでの恩義に誓ってセルヴェ族の領内の通行の自由と安全を約束すると族長は述べ立てた。

 本来ならば、総督であるコンスタンスに報告すべきであったのだろうが、急を要すること、新任の総督の経験の浅さと若さに対する不安が総督代理の目を曇らせた。

 総督代理は独断で自身が守る冬営地を引き払い、最寄りの冬営地へ移動を始めた。ところが深い森を往く最中、敵の待ち伏せに遭遇することになる。それに気づいた時には、背後をも突かれており、荷物の重さで足が鈍っていた帝国軍は大混乱に陥った。

 結果としてこの総督代理が率いていた軍団はあえなく壊滅する。総督代理は戦死し、逃げのびた数人が命からがら近くの冬営地に駆け込んだ。そこから送られた急使によってコンスタンスは奸計による一個軍団の壊滅を知ることになる。

 帝国軍を嵌めたセルヴェ族は帝国軍相手の勝利に慢心することはなかった。馬を飛ばして近隣諸部族に対し「反帝国」を叫んで回ったのである。これに呼応する形で前総督の代に屈服せしめたイェネス族などが三度帝国に抗うべく起ち、コンスタンスの親戚であるマニウスが守る冬営地を新たに包囲した。

 父が成し遂げたことを若輩の自分に対する評価が台無しにした。敵からも、味方からも与えられた思わぬ侮辱にコンスタンスは頬を紅潮させた。

 コンスタンスをさらに激しく憤怒させたのは、同胞の血で染まった鷲の軍団旗だ。誇り高き帝国軍の象徴が穢された。それは、皇帝に対する辱めに等しい。

 何人たりとも皇帝の威光に泥を塗ることは許さぬ。

 コンスタンスは本営の防衛を信頼する総督代理に任せ、攻撃を受けながらも何とか持ち堪えるマニウスの元へ、他の冬営地を引き払い合流した援軍三個軍団を伴って駆けつける。

 イェネス族らが帝国軍の予想を超える行軍速度に驚いているところへ、態勢を整える暇も与えずコンスタンスの巧みな激励によって意気軒昂な帝国軍が襲いかかる。

 報復は凄惨を極めた。終わった後には草木も残らぬほどの一方的な殺戮――総督代理の一人が戦況を帝都へと書き送った書簡にはそう記されていた。

 それでも治まらぬ猛追にセルヴェ族を筆頭とする部族連合はとうとう降伏したが、コンスタンスは金輪際反抗などせぬように徹底的に彼らを打ちのめした。後腐れを失くしたともいう。

 歴戦の猛者があれほど手こずった北メッサリアは、拍子抜けするほどあっさりと若干二十五歳の青年の執念の前に落ちた。

 同年、コンスタンスは抱えきれぬほどの名誉と富を手土産に帝都に凱旋する。

 戦勝の報告のために全知全能神の神殿へ向かう四頭立ての戦車の上には、月桂冠を頭上に戴き、緋色の外套も華々しい軍装のコンスタンスの姿があった。時折熱狂する群衆に悠然と手を振る姿は軍神を思わせて眩しい。

 現皇帝の即位後、穏当路線を歩み続けていた帝国は、民衆にとっては平和そのものであったが、悪く言えばぬるま湯につかったようなものだった。刺激が欲しいとは、贅沢な人の悩みである。そこへ雄々しい青年がもたらした鮮烈な勝利は人々を心地よく酔わせたのだ。コンスタンスに対する民衆の人気は弥が上にも高まり、生ける軍神と褒めそやす声は帝都中に響いた。

 そんな中、凱旋将軍となったコンスタンスに冷えた視線を送る者がいた。東方の毒花ユリアである。

 コンスタンスの人気がいずれ皇帝に比肩しうるのではと危惧した奸婦は、自身の立場を危うくするかもしれない芽を排除すべく動いた。

 我が子に姉の子を殺させるよう命じたのである。

 コンスタンスがそれに気づいたのは、凱旋から数ヶ月後、例の月に一度の障りで床に伏している皇帝を見舞った帰りのことだ。なんでも今日はとりわけひどい気分らしく皇帝に目通りは叶わなかったのだが、後を追いかけてきた女奴隷が皇帝からの内密の書簡を預かったと言い、人払いをした宮殿の一室へとコンスタンスを誘った。

 ルキウスの一件もあって警戒したコンスタンスは、護身用に隠し持っている短剣プギオに手を置きながら小部屋に足を踏み入れ、そこで思いもよらぬものを目にして硬直した。


「時間がない。余計な口を叩かぬように」


 先手を打つように素早く言ったのは、変装した皇帝だ。誰にも見咎められず移動するためだろう。簡素なストラをまとい、パルラを被いている。パルラの合間から金の髪の鬘、うっすらと化粧した顔が見えた。

 コンスタンスは固まったまま、有り体に言えば見惚れていたのだ。眼前の皇帝――アレクシウスは、黙ってさえいれば愛と美の女神を思わせる絶世の美女だったのだから。

 黙っていよと命じたにも関わらず、何かを察したらしいアレクシウスは頬を染めると声を荒げた。


「このような時に何を考えているのだ、そなたは!」

「な、何も言ってない!」

「そなたの考えていることなど、その目で分かる!」


 そんな無茶なと抗議しかけたコンスタンスはアレクシウスを胸元に抱き寄せ、自身は扉に向かい合うように体を反転させると、何事か言いかけた彼の唇を塞ぐ。

 扉の向こうで微かな言い争いが聞こえ、間をおかずして扉が勢いよく開け放たれた。扉の前で番をしていた女奴隷の手を捻り上げ、ずかずかと室内に踏み込んできたのは、近衛軍団の兵士たちだった。彼らは入ってくるなり先程のコンスタンスと同様に硬直した。

 扉に背を向けるアレクシウスの腰をとらえ、細い顎を指ですくい上げつつ、そんな彼らにじろりと一瞥をくれる。朴念仁と呆れられることの方が多いコンスタンスだが、精一杯の艶っぽい雰囲気を醸し出した、つもりだ。

 目論見通り、上官の濡れ場に踏み込んでしまったと誤解した軍団兵たちは平謝りし、女奴隷を解放すると気まり悪げにそそくさと去っていった。

 ふうと吐息を落とすと、もの言いたげにこちらを見上げるアレクシウスと目が合う。コンスタンスはアレクシウスの体を抱き込んだままだったということを思い出し、その華奢な体から慌てて手を離して謝罪した。

 だというのに未だアレクシウスはもの言いたげにコンスタンスを見つめている。

 コンスタンスがどうすることも出来ずにいるとようやくアレクシウスは視線を外した。


「……そなたに危機が迫っている」


 囁かれた言葉にコンスタンスは反射的に短剣プギオを掴む。

 別段アレクシウスを害するつもりはなかったのだが、彼は暗く陰った目でそれを見つめた。怯えているというわけではなく落ち着いた風ではあるけれども、どことなく死地へ赴く兵士の顔をしているように思えた。


「こんな恰好をしたのも、それを知らせるためだ。この呪わしい身も意外なところで役に立つ。まさか皇帝が女装するなど思いもつくまい」

「アレクシウス、やめろ。そのような言い方をするな。呪わしくなどない」

「……むしろ女であればいっそ楽だったのかもしれぬ。そうすれば、そなたを危機に陥らせることもなかったろうに」


 途端に胸の内が千々に乱れた。ある種の願望が脳内を過る。それは、叶うことのない夢のような光景だ。

 コンスタンスはあえて考えないようにした。見果てぬ夢など悲し過ぎる。

 代わりにアレクシウスが何を考えているのか分かるという目で話の続きを促した。

 危機とは何なのか。誰が自分を狙っているのか。自分の運命はどうなるのか。半ば答えが予想できて予想できない、そんな問いだった。

 それには答えず悲嘆と諦めとある種の強い意志がない交ぜになった声でアレクシウスは言った。


「よいか……どのようなことが起きようとも、わたしが再びここに来るまで、外に出てはならぬ」


 ――錠が落ちる。

 皇帝が小部屋を出て行って一昼夜、女奴隷が密やかに食事を届けてくるのを除けば、誰もコンスタンスの元を訪れることはない。

 ただ扉の向こうからは並々ならぬ緊張感が伝わってくる。押し潰されそうな静けさやどよめきのような大気のざわめき、切りつける刃のような尖った空気が入れ替わり蔓延する中、コンスタンスはまんじりともせず待ち続けた。

 そして、扉は開く。

 血に濡れたアレクシウスが一人で姿を見せた時、コンスタンスは神々を呪った。

 覚束ぬ足取りで小部屋の中へと歩を進めたアレクシウスはグラディウスを取り落とす。床に転がった血塗れの剣を追うように倒れ込む体を駆け寄ったコンスタンスが抱き締めた。顔面蒼白のアレクシウスは、その両目からはらはらと涙をこぼす。

 コンスタンスはすべてを理解した。事は起き、終わったのだと。


「……そなたのためだ。そなたのためにわたしは――!」

「……分かっている。分かっているから」


 そなたのためだと虚ろに繰り返すアレクシウスの体をコンスタンスはいつまでも抱いていた。謝罪など薄っぺらい、この運命を嘆きながら。

 母殺し。これからアレクシウスに一生ついて回る汚名であった。



 傾き始めた太陽を元に戻す術はない。

 悪名高き毒婦は誅された。しかし、彼女が撒き散らした汚穢は既に広がり確実に帝国を、彼女の息子を蝕んでいたのだ。

 中でも宮殿の一画にコンスタンスを匿っていたのが世間には幽閉と取られ、反皇帝の気運が高まっていた。

 軍団、特にメッサリアの冬営地でマニウスの指揮下にあった一個軍団の生き残りたちはその急先鋒であった。

 あの時、援軍に駆けつけたコンスタンスはイェネス族らを退けた後、マニウスを始めとする冬営地内の満身創痍の兵士たち一人一人の名を呼び、激賞した。そして、凱旋後は彼らの労苦に目一杯報いたのである。奸計によって壊滅した軍団についても追悼するなどして彼らを失った戦友らの心を安らげた。それ以降、マニウス指揮下の一個軍団はコンスタンスに心酔していた。

 軍団が不満をくすぶらせることになった背景には、国内は既に安定しているにも関わらず皇帝が一向に対外拡張路線への回帰を果たさないということがあったのも確かである。

 奸婦の死からそう間をおかずして皇帝への忠誠を投げ捨てた軍団は怒りに任せて宮殿に押し掛けた。

 自身の預かり知らぬところで反乱の旗頭に祭り上げられていたコンスタンスが気づいた時には既に手遅れだった。

 動き出した運命の歯車を止めることほど難しいことはない。

 皇帝を殺せ。宮殿を取り囲んで声高に叫ぶ兵士たちの顔は狂おしく赤く染まっている。一旦火がついた狂気は熱病のように伝染していく。

 これはいけない。最早言葉では止められぬ。

 コンスタンスは何としてでも皇帝を逃がさねばと、帝国の男として備えているべき荘重さをかなぐり捨てて走った。

 あの幼き日に二人駆けた時のことを思い出す。今もまた世界という暗闇が嘲笑しながらのしかかって来ている。

 ――そうはさせるか。

 コンスタンスは皇帝個人の礼拝堂に息を切らして駆け込む。

 青ざめながらも頽れることなく毅然と佇む皇帝が振り返った。その手にはグラディウスが握られている。


「アレクシウス! 早まるな!」

「……コンスタンスか」


 皇帝はコンスタンスの姿を認めると少し肩の力を抜いたが、グラディウスは手放さない。


「早まるな。おれが道を開く。逃げのびよ。逃げのびて態勢を立て直せ。命じてくれれば、その間に鎮めてみせよう。ただ鎮めるだけでは足りぬというのなら、見せしめに屍の山を幾らでも」

「もうよい。よいのだ、コンスタンス」


 自らの母を亡きものにする前に見せたのと同じ表情をして皇帝は頭を振った。


「己の欲で道理をねじ曲げた報いだ。母上も、わたしも」

「おまえがいったい何をしたというのだ、アレクシウス」

「……兄上からそなたを奪った」

「それは!」

「愛されたい一心で、母上を――欲に塗れたあの淫婦を好きにさせてしまった。国家の父として止めねばならなかったのに」


 皇帝は、ふと自嘲するようにうっすらと笑んだ。


「所詮、半分は女ということだろう。尊厳者の光輝を汚した罪は重い」

「アレクシウス!」


 コンスタンスは悲鳴に近い声でただ彼の名を呼ぶことしかできない。


「コンスタンス、願いをひとつ聞いてくれないか?」

「……おれがおまえの願いを叶えなかったことがあるのか?」

「そうだな、その通りだ」


 あどけない子どものように頷いて皇帝はグラディウスを差し出した。

 あまりにも自然な仕草だったのでコンスタンスはそれを受け取ってしまった。心なしかいつもより増したように感じるグラディウスの重みがずっしりと手にかかる。

 次いでグラディウスよりもなお重く鋭い言葉がコンスタンスの胸に突き刺さった。


「殺してくれ」

「な、何を言っている?」

「仮に今日逃げのびたとして同様のことがきっとまたいつか起きる。一度くすぶりだした火種はなかなか消えることはない。すぐに飛び火し、呆れるほど大きくなるものだ。もしその時にそなたが近くにいなかったら? どうせ死ぬのなら、今そなたの手にかかって死にたい」


 それまではどこか他人事だった皇帝の言葉に強い思いがこもる。


「それに、この醜い体を、あの呪われた泉の水を浴びた身を暴かれるという辱めなど、耐えられぬ。そなたなら守り通してくれるだろう?」


 拒否の言葉が口をつく直前にぴたりと止まった。

 もし彼の肌が心ない者たちのぎらつく目に晒されたとしたら?

 想像してコンスタンスはぞっとした。芯から込み上げる怖気に身を震わせる。断固として許せない。

 誰にも穢させぬ。辱めさせぬ。

 ――他の誰かに殺されるくらいならいっそ自分が。

 皇帝はコンスタンスの目の色が変わったのを見てとったのだろう。満足そうな顔になった。どことなく陶酔しているようにも見える。


「ああ、やっぱりそなたはわたしの願いを叶えてくれるのだな」


 コンスタンスは思い出した。初めて皇帝の、アレクシウスの裸体を見たときのことを。

 傷一つない、血の気が失せた白さの肌、まろみを帯びた華奢な四肢、股ぐらの男の印と相反するように存在する小ぶりな乳房。

 誰にも穢させぬ。辱めさせぬ。そう、己にさえ。

 そして、喉に言葉が貼りついて出てこなかった理由にようやく思い至る。

 抑えきれぬこの情動を。浅ましいこの思いを。恥じたからだ。

 最期のアレクシウスは確かに微笑んでいた。


 人には抗うことができない奔流。それに巻き込まれ続けてきた者の嘆きは深い。



 皇帝を殺せ。

 その声は日に日に高くなるばかり。宮殿の奥深くこもる皇帝の耳にも届くほどだ。

 帝国市民の声は皇帝の耳に届いてはいた。しかし、物憂げに女を、男を組み伏せ、豪奢に耽溺する彼はすべてに関心を失ってしまったようであった。

 萎えることなくこの地上に己が足でしっかりと立つための根拠を失った彼は、いったいどこへ向かうのか。自身にすら分からないのだろう。

 皇帝の代わりに権力を振りかざすことに躍起になっているのはその母親である。彼女は自身の妹が乗り移ったかのように権力欲の権化となり果てていた。

 そんな母を止めることもせず、皇帝は言われるがまま粛清を繰り返し、はたまた意に反する動きを見せた都市を滅ぼした。母への愛ではない。そのような幻想はとうにない。

 彼の身の内に巣食うものの発露にちょうどよかったのだ。彼の手からかけがえのない存在を奪い去ったものに対する行きつく先も見えず、当て所なく彷徨う恐ろしい報復――常人には理解できぬ妄執だった。

 大地に花開く血の海、噎せ返る死のにおい、天突く嘆きの声、深淵から這い上がってくる憤り――それらを意に介することなく皇帝は佇む。

 すらりと背の高い立ち姿に紫地の帝衣がよく似合った。濃厚な退廃の空気をまとってさえいなければ、国家の父たる光輝に満ちた尊厳者そのものだ。

 在りし日には日に焼けていた肌もいつの間にか雪のように白くなった。それはアレキア人の血が彼の身に確かに流れていることを思い出させる。それがためか、皇帝は身の周りをアレキア出身の者で固めることを好んだ。

 ただどれほど周囲に人がいようとも彼は一人だった。好んでそう仕向けている風でもあった。

 皇帝の黒褐色の目は、冬のメッサリアのように陰ったまま久しく晴れていない。久しくどころか、永遠に晴れることはないのではないかと思わせる暗い陰りだ。

 生きながら腐り落ちていくような彼の日々にようやく終焉が訪れた。

 宮殿の中庭で、近頃特に気に入りだったアレキア人の女奴隷の接吻を受けると、それを合図に潜んでいた刺客に斬りつけられて皇帝は地に倒れ伏した。

 ろくな抵抗もしなかったのは、皇帝がこの日を待ち望んでいたからかもしれなかった。

 ――薄れる意識の中、あの険のある美貌が、穏やかに笑んでいる。少女のような唇がかすかに動いた。

 懐かしさに震える。それは、恋しさとよく似ていた。

 この感情を何と呼べばいいのか。口にすればたやすく砕けてしまいそうに繊細な……玻璃の如きこの気持ちを。

 が何といったのかわかったとき、鈍い衝撃が首に伝わった。

 最期の瞬間、唇に柔らかなものが触れた気がした。


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嘆きのウラヌス 七木へんり @h-nanaki

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