83「ニール・オブライエン」

 キーンは立ち上がり、封筒の入った木箱を鞄の中にしまった。ああやって毎日持ち歩いていたのかもしれない、彼は慈しむように木箱を見つめていた。


「すまん、嬢ちゃん、ほったらかして」


 彼の謝罪にヨムギは「いや、別に」と頭を掻いた。男の僕が人目も憚らずに涙を流していたせいで文句も言えないのだろう。彼女の視線を感じ、僕は目元を拭った。ゆっくりと息を吐き、身を起こす。

 久しぶりに泣いたからか、目の奥がすっきりしている。涙と一緒に何か黒いものが身体の外へと出て行ったような気がした。

 キーンは席へと戻る前に台所にある水差しとグラスを三つ、手に取った。縁がぶつかり、高い音が鳴る。彼は椅子に座り、水を注いだグラスを僕とヨムギの方に差し出した。


「ただの水で悪いな」

「いえ、……ありがとうございます」

「色々聞きたいことと伝えたいことがあるんだが……とりあえず、自己紹介からするか。さっきも言ったけど、俺はキーン。嬢ちゃんは? ニールとはどういう関係だ?」

「……ヨムギ。こいつとは仲間というか家族というか」


 ヨムギが淀ませた語尾に、キーンは唸る。あらぬ誤解をされても面倒なのですぐに補足を加えた。


「あの後、傭兵団の頭領に拾われて仕事を手伝っていたんです。彼女はその人の娘みたいなもので……寝食をともにしていたので家族みたいな関係だったんです」

「なるほどな」

「あの、キーンさんはどうしてバンザッタに? カンパルツォ伯爵の護衛はどうしたんですか?」

「ああ、さて……どこから話したものかな」

「なあ、一ついいか?」


 ヨムギは耐えきれなくなったのか、いやに大きい声で口を挟んだ。顎に手を当てて話し始めようとしていたキーンが驚いたように背筋を正す。


「どうした、嬢ちゃん」

「嬢ちゃんじゃない、ヨムギだ」と彼女は不服そうに言い返し、続ける。「さっきから聞いてて分からなかったんだが……『ニール』ってなんだ?」


 あ、と声を上げそうになった。

 そういえば傭兵団のみんなに僕の本名を明かしたことがなかった。彼らの間では僕はただの「レプリカ」でしかない。

 キーンは唖然とした表情で「そこからかよ」と言いたげに眉を上げている。ヨムギもこちらをじろじろと見ていて、茶化す気配のない真剣な眼差しがおかしくなり、噴き出すのをなんとか堪えた。


「ニールって言うのは僕の名前だよ、ヨムギ」

「……名前? お前の名前は『レプリカ』だろう?」

「そうなんだけど、なんていうか」


 僕は少し考えてから、微笑む。自分からこの名前を告げるのはいつぶりだろうか。


「僕の本当の名前はニール・オブライエンっていうんだ。ニール=レプリカ・オブライエン。好きなように呼んでくれて構わないよ」


 ヨムギは、ふうん、と唸る。

 これまで本名を教えていなかったことに腹を立てている様子ではない。彼女はニール、レプリカとまるで比較するように、ゆっくりと繰り返した。

 キーンはそれを見て、大きな嘆息を僕に浴びせる。


「ニール、お前、もしかして何も教えてないのか?」

「僕に関することは、ほとんど」

「ひどいやつだな、家族って言われてるくらいの付き合いなのに」

「認めます。だから……初めから順番に話しますか」

「そうした方がよさそうだ、付き合ってやるよ」

「仕事はいいんですか?」

「構やしねえよ、元々今日は非番だったんだ。文句を言われても聞く耳は持たねえ」


 促され、僕は自分のことを語り始める。

 初めから、とは言ったが、別の世界から来たことを明かしても彼女は理解できないだろう。バンザッタへ辿りついてからを起点にした。ところどころ掻い摘まみながら、僕はこの三年間を振り返ることにする。

 およそ三年前、職業斡旋所の手伝いをしながら依頼をこなす日々を送っていた僕は「水渡り」に関するいざこざを経て領主カンパルツォの護衛となった。そこで出会ったのがラ・ウォルホル戦役を圧倒的な勝利へと導いたアシュタヤという少女だ。


「アシュタヤ」とヨムギは咀嚼するように発音した。「聞いたことがあるな」


 説明するのは恥ずかしかったが、隠すのも卑怯に思えたため、正直に答える。


「たぶん、馬小屋じゃないかな。ほら、ハルイスカのそばで戦ったとき、きみが探しにきた」

「ああ……なんだ、お前、女の名前を呼んでたのか、恥ずかしいやつだな」

「……続けようか」


 アシュタヤの護衛をしながら収穫祭を楽しんでいたとき、事件が起きた。貴族オルウェダが放った刺客による襲撃だ。そのときは何とか逃げることができたが、翌日、僕は再び襲われ、アシュタヤとともに連れ去られた。それを実行したのがギルデンスだった。

 ギルデンスは僕たちに恐ろしい計画を明かした。彼が求めているのはこの国を二分する大きな戦争、その発端の一つとして彼は僕にオルウェダの殺害を指示した。燃えさかる屋敷の中、結局、僕はオルウェダを殺すことができなかった。醜い呪いの言葉を吐く太った貴族はアシュタヤによって殺されることになる。

 僕を守るため、だった。


「なるほど……だからお前はディータにあんなことを言ったのか」

「ああ、僕はギルデンスを野放しにしておくことはできない。どんな方法を用いたかは分からないけれど、僕がお世話になった人の国が滅んだのにもあいつが関わっているみたいなんだ。あいつを放っておいたらこの国も同じように消えてなくなるかもしれない」


 ヨムギはその予想に関する感想を述べなかった。国がなくなる――しかも一人の男の謀略によって、だ――、そのことを実感として理解できなかったのだろう。

 だが、不可能ではない。

 この国には貴族同士の対立、という土壌がある。ギルデンスは実直な農夫のようにその土を耕し、水や肥料を与えている。萌芽した憎しみの芽はやがてこの国を覆うほどに大きく成長していき、そして誰しもが他者の憎しみから己の身を守ろうとする。それこそがギルデンスの狙いであることも知らずに、だ。対立意識は民衆の間にも広がり、いつしか飽和する。時間はかかっても止める者がいなければいずれ現実になるのは間違いがない。

 机の下で拳を握り、話を進めようとしたところでキーンに遮られた。彼は言葉を選ぶような間を取り、躊躇いがちに口を開いた。


「なあ、ニール、一つ質問があるんだが」

「なんですか?」

「順番は前後しちまうけど……お前の、その、人を殺せないってのは――」


 胸に痛みが走る。

 僕の頭に取り付けられている刑罰装置はワームホールを通過する際、破損していた。それを知ったのはフーラァタを殺したときだ。


「僕も……知らなかったんです。ずっとそう言い聞かされてたし、実際に人を殺して二度と起き上がれなかった人がいるのも聞いたことがあって……でも、試すことなんてできませんし」

「まあ、それはそうだろうな……」


 僕はその後を話し始める。

 メイトリンを出発し、そこでジオールと再会し、セムークへと旅は続いた。セムークの北にある公認盗賊の森でパルタの胸を貫き、僕は自分が犯した罪に耐えきれず逃げ出した。そこからはキーンが知らず、ヨムギの知っている話になる。

 僕は傭兵団と過ごした二年半を語り続けた。語り終える頃には橙の太陽が部屋の中に暗い影を落としていた。

 黙って耳を傾けていたキーンが、そこで息を吐き、立ち上がる。


「そうか、ありがとな、ニール。お前も色々あったんだな」

「いえ、僕は……」

「そろそろ腹減っただろ。近場に人が寄りつかない飯屋あるから、そこで俺の話をしようか。ヨムギちゃんもおいで、奢ってやるよ」

「いいけど、そこは美味いのか?」

「言ったろ、人が寄りつかないって」


 キーンは「準備をしてくる、ちょっと待ってろ」と言って一度宿舎を出て行った。暗い室内に僕とヨムギが取り残される。しばらくの間、沈黙が貼りついていたが、それを破ったのはやはり彼女だった。


「……こうしてお前の話を詳しく聞くのは初めてだな」

「言いたくなかったんだ。……謝った方がいいかな」

「別にいい。人生を語るやつもいれば、語らないやつもいる」

「ヨムギは……まあ、想像がつくかな」

「ああ」彼女は誇らしげに認めた。「おれの人生はオヤジたちとずっと一緒だった。……だった、んだ。お前が来たせいで色々変わったけどな」

「謝った方がいい?」

「別にいい」


 ヨムギはグラスの中の水を飲み干し、立ち上がる。じっと座っていることが辛かったからか大きく伸びをした。彼女は僕を一瞥し、それから、顔を顰めてうろうろと歩き始めた。ときおり立ち止まり、僕の顔を見て、開きかけた口を閉じて歩行を再開させる。その奇行を三度繰り返し、外への扉の前に立ったとき、彼女はようやく声を発した。


「すごい、疑問があるんだが」

「どれくらいすごいの?」

「茶化すな」


 ヨムギは苛立たしげに足を踏み鳴らす。硬い音が響き、僕は居住まいを正した。


「なんでしょう」

「その、おれはこれからお前を何て呼べばいいんだ?」

「え?」

「いや、お前の名前は、ええと、『ニール』、なんだろう?」

「ああ、別にレプリカでいいよ。そっちの方が慣れてるでしょ」


 そう言ったものの彼女はどこか恥ずかしそうな顔をして腕組みをした。


「お前はどっちの方がいいんだ? ニールとレプリカ」

「どっちがいい、って言われてもなあ。ずっとレプリカ、って呼ばれてたし……まあ、でも、正直に話せばあまりその名前は好きではないかな。いい意味の言葉じゃないんだ」

「そうか」


 そして、ヨムギはまるで表情を隠すように僕に背を向け、言った。少しだけ早口の、聞き取りづらい声だった。


「ずっとレプリカ、って言いづらいと思ってたんだ。リカはともかく、レプはどうなんだ」

「どうなんだ、って僕に言われても」


 僕が肩を竦めると同時に玄関の扉が叩かれた。キーンが扉を開きながら「待たせたな」と告げた。扉の隙間から飛び込んできた斜陽がヨムギの顔に当たる。彼女は少しだけ嬉しそうな顔をして僕を促した。


「ほら、行くぞ、ニール」


 そっちの方が言いづらそうじゃないか、と呆れたが胸の内側に留めておくことにする。


     〇


 キーンに連れられて行った店は軍部地区の端にあった。

 バンザッタに駐留している軍人の多くは軍部地区に居住している。軍には食堂があり、軍人たちは普段そこで食事しているのだが、その味に飽きることもあるそうだ。

 だからといって、商業地区に行くのは面倒だ。そう考える横着者のために営業している料理店らしい。商業地区にまで足をのばすのではないか、と危惧していただけに心の中で安堵の欠片がふわりと舞った。


 店の中は薄暗く、老いた店主も愛想がなかった。「いらっしゃい」の一言も言わず、グラスを磨いている。店内にいる客は二組の、軍人と思しき体格のよい男たちだけだ。両方が二人組で、キーンとは顔見知りであるのか、手を挙げて挨拶をしてきた。

 キーンはそれに答えてから、一度店内を見回し、彼らから離れた一席に座った。入り口の正面にU字型のカウンターがあり、その右に軍人たち、左に僕らがいる形になる。


「な、人、いないだろ」

「これから来るんじゃないんですか? まだ少し早いですよね」

「今、ペルドールの問題でみんな緊縮してるんだよ。それでなくとも、他の店に流れるだろうな」

「そんなにまずいのか」


 ヨムギは不安を露わにしそう訊ねた。それに答えたのはキーンではなく、店主だ。


「まずかねえよ」


 よほどその噂を直接耳にしているのか、店主の声色には苛立ちもなかった。彼は無表情のまま厨房へと入っていった。その姿を目にした陽気な軍人たちは食事を頬張った口で囃し立てる。


「ここには女がいない、目つきの悪いジジイしかいない」

「来るのは俺たちみたいな欲のない美しいやつらばっかりだ」

「お前らのどこが欲のない人間なんだ」背もたれに肘をかけたキーンも応戦する。「来るのはお前らみたいな男色家だろ、しかも揃って趣味が悪い」

「うるせえぞ、出戻り、違うって言ってんだろ」


 そのやりとりに奥に座っていた軍人二人が豪快な笑い声を上げた。戻ってきた店主は「静かにしろ」と怒鳴って料理をカウンターに置く。待ってました、と言わんばかりに彼らはカウンターへ向かい、スープだろうか、深い器を持ってテーブルへと帰って行った。

 キーンは彼らから視線をこちらに戻し、肩を竦める。


「こういう店だ。献立もないから適当に頼め。食材だけはそこの木の板に書いてある」


 キーンが指さした先、カウンターの奥の壁には木の板がかけられていた。そこには鶏、だとか、魚、だとか、あまりに大雑把な食材の名前が書かれており、笑いそうになってしまう。こだわりなのか気分なのか判断できないし、それが軍人にとってわかりやすいのかわかりにくいのかも判然としなかった。


「ヨムギちゃんは何食いたい?」

「肉」

「ニールは?」

「ずっと内陸にいたから、久しぶりに魚を食べようかな」


 よし、とキーンは頷いて、カウンターに向かい、注文をした。自分の酒瓶を置いてあるのか、戸棚にあった酒とグラスを持って戻ってくる。


「久しぶりの再会だ。飲むだろ?」

「再会じゃないけど、おれは飲む」

「ヨムギちゃんはノリがいいな」

「僕は……」


 別に今まで意識的に禁酒していたわけではない。「乾杯」の言葉を口にしたくも聞きたくもなかっただけだ。

 ただ、今、酒を飲んでもいいものか、迷う。一杯だけ、と控えたところで自制心は大して機能しないだろう。二杯、三杯、と酒が進んでいくのは未来予知がなくとも予測できた。

 僕は酒癖がいい方では、ない。酔っ払って店で夜を明かしたこともある。そうでなくてもアルコールは理性を叩きのめして感情の堤防を決壊させるものだ。そうなれば、僕が情けない姿を見せることになるのは明らかだった。


「……今日は、遠慮しておきます。悪い酔い方をしそうだから」

 それを聞いたヨムギが唇を尖らせる。「お前はいつも酒を飲まないな」

 一方で、キーンは僕の気持ちを汲んだように眉を上げた。「そうか、次の機会にするか」

「よほど酒が弱いみたいだな、ニールは……。キーン、だったな、飲み比べでもするか?」

「お、生意気だな、ヨムギちゃんは」とキーンは悪戯っぽく笑ってから、「でも」と言った。「でも、その前に俺の話をしておこう。ニールが俺たちの元を去ってからの話だ」


 彼がそう言うのと同時にカウンターに皿が載せられる。「できたぞ、持って行け」と顎で示した店主はすぐに厨房へと戻っていった。


「じゃあ、食いながらでいいから聞いてくれ」


 皿を両手に戻ってきたキーンは僕の知らない物語を語り始める。

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