第8話「ミザリー先生のお部屋 前編」

 甘く優しい、紅茶の香り。

 オレンジのランプが、落ち着いたコーラルピンク色の部屋を暖かく照らす。

 窓の外はもう薄暗くなってきていて、まるで木枯らしの季節に戻ったかのような北風がかすかに吹いていた。

 ここはミザリー先生の研究室、兼、私室だ。
 この学園では、教師が研究室に住んでいることが多い。

 学園のバザールには様々な店が競ってかまえられていて、学園内だけでも十分に生活できる。事実、かつらの先生はここ何年も学園の外に出ていない。
 この学園に根城をかまえているのは教師のみならず、生徒も部屋を借りて住んでいることがある。しかしそれができる生徒はよっぽどの金持ちか、名の残るような功績を残して、表彰としてもらったご褒美、どうしても必要な理由のある者に限られた。


 アヤタカを含めたそれ以外の生徒は、どこか学園の外の寮や下宿に入る者もいるが、憩いの場として許された場所に入り浸っていることがほとんどだった。眠る文化を持っている者のためにはベッドの部屋がある。基本的にアヤタカたちにとって家や部屋は少なくても五十体くらいで共有するものであり、自分の部屋というものは高級品、もしくはお城のように扱われていた。

 





 アヤタカはその部屋にあるソファで、独りぽつんと座っている。ソファのカバーのレースに指を入れたり、花の刺繍を糸の向きに沿って爪でなぞったりする癖が無意識にあるアヤタカも、今日の彼はそんなことをしない。

 ミザリー先生の部屋は、彼女そのもののように優しく甘い部屋だった。紅茶を淹れているミザリー先生のことを、アヤタカはそわそわしながら待っている。胸の鼓動も明らかに普段より速くなっていた。


 アヤタカに顔色は無い。


 自分は何かしたのだろうか。心当たりが無いわけでは無いけれども、それなら自分だけ呼び出されるのは不公平だ。いや、ミザリー先生の授業じゃなくてシラース先生の授業の方かもしれない。先生の顔面に泥だんごぶつけちゃったからなあ……。

 叱られるのだろうか。叱られるのかもしれない。


 やだやだ怖いと心臓を鳴らすアヤタカは、最後の悪あがきに言い訳を用意する。違うんです、あっちが先にやってきたんです。だめだ、誰かのせいにした方がまずくなる気がする。いいや大丈夫、ミザリー先生はどこか気負ってはいたけれども怒ってる様子はなかっただろ、ちゃんと怒らずに叱ってくれる。いや、そうであってもやっぱり叱られたくないっていうのが精霊体の心ってやつだ。ん、ミザリー先生は、気負っていた? もしかしたら、怒られるよりはるかに悪いことが待ってるんじゃ。『あなたはもう何回も問題を起こした。だからこんなこと言いたくないけれども、私はあなたに退学を伝えなくてはならないわ。』やらかしたかもしれない、故郷の皆に顔向けできない。もう故郷には帰れないかもしれない。

 ミザリー先生が奥の部屋から戻ってくる気配がした。

 執行だ。アヤタカは自分の中で、ここから追放されサラシビトとして暗い森、寂しい辺境の集落に追いやられ、差別されながら独り生きていく自分が見えた気がした。

 頭に浮かんでいたどことも知れない情景に、アヤタカは自分と全く関係ない誰かの人生を追行したような気分になった。

 「サイオウくん。アップルティー、飲める?」

 目の前にアンティーク柄のティーカップと、そこに注がれた飴色の紅茶が差し出される。

 「あ、はい。多分。」

 アヤタカは、粗相のないよう慎重にティーカップを受け取った。とりあえずひと口だけつけると、甘い果物の香りが口にふわっと広がる。

 アヤタカが体を ぴこんと小さく動かす。

 「美味しい! ……です」

 紅茶からリンゴの甘い味がする。アヤタカがもうひと口飲んで、ミザリー先生は微笑んだ。

 彼女もまた、優雅な動作でティーカップを口に運んでいる。

 アヤタカはその間にティーカップを机に置き、膝に手を乗せ「まて」の状態でミザリー先生を じぃっと見つめていた。

 彼女はそのつぶらな瞳を見て、まるで利口な愛玩動物だわ、と心の中でつぶやいた。そうしてアヤタカを犬扱いする精霊体がまた一体増えた。

 彼女はそっとティーカップを机の上に置き、深呼吸をして背筋を伸ばした。それにつられて、アヤタカも思わず姿勢を正す。

――とうとう来る!

 アヤタカは心の中で自分に向けて合掌した。

 「ごめんねっ!」

 ぱんっと良い音を立てて、ミザリー先生がアヤタカに向けて合掌した。

 アヤタカはぽかん、と鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。

 そうして「えっ?」と尚も鳩のように首を前にひょこっと出した。

 「あなた……入学式で校長先生に名前を間違えられたでしょう?」

 アヤタカは一瞬にして、目の前に花畑が広がったような気がした。

――やった! 怒られるわけじゃなかった!

 肩の力がすっかり抜けたアヤタカを見て、ミザリー先生は「すっかり肩を落としてしまって」と心の中で呟いた。

 言いたくないけれども乗りかかった船。ミザリー先生は覚悟を決めた。

 「それがきっかけでいじめられてしまったのでしょう。」

 ミザリー先生は言葉の除草剤を隠し持っていたらしい。不意打ちで食らった除草剤に、アヤタカの花畑は大半が死滅した。

 「呼び名だってサイオウくん、アヤタカって呼ばれてるって。集団で居場所がなくて居心地が悪そうだったし、髪を燃やされたり泥だんごをぶつけられたりしたことも教員の噂で聞いたわ。」

 アヤタカの花畑が、みるみるうちに荒廃していく。

 「いじめは待っていたって何も解決しないわ。いつか馴染める、そう考えて我慢するよりも、何か行動を起こしたほうがいい。先生はそう思っているわ。」

 アヤタカは今度こそ本当に、しおしおと肩を落とした。それを見たミザリー先生が跳ねるように、向かいのソファから立ち上がる。そのまま小走りで駆け寄って、うなだれるアヤタカのそばに膝をついた。

 ミザリー先生は眉を下げて、よしよしと慰めてくれる。

――いじめられているように見えるほど、おれ、周りに馴染めてなかったのか……

 田舎から独り出てきたアヤタカは、故郷が一緒という仲間意識がどれだけ強いものなのか。入学初日から悪い意味で目の当たりにした気分になっていた。

 周りは同郷らしい相手と固まっている。でもそれは最初だからで、そのうち分解と再構築が始まり、結果的にこの状況は時間が解決するだろう。そう思っていたのに。

 でもきっとおれより何年も長くここに居る先生の言うことなんだから、そうなんだろう。この状況は何も変わらないのか、そうだったのか。アヤタカは更にうなだれた。

 「…………。」

 それでも、少しだけでいいから抵抗したかった。

 先生に口答えをするなんて、あり得ない愚行。泥棒の始まり。そう思いながらも、アヤタカは引き絞るような声で言い返した。

 「……だとしても先生、まだ入学二日目ですよ。いくらなんでもその判断は早すぎるんじゃないですか。」

 いや、よく分かりませんけど……ごめんなさい、と、アヤタカは小さな声で付け足した。

 今度はもっとひどいこと言われるんじゃないだろうか。アヤタカは身構えながら、彼女の次の言葉を待った。

 彼女の次の言葉を待った。

 待った。

 「…………。」

 いつまでたってもミザリー先生の言葉が返ってこない。

 部屋中が時計の微かなはずの音でいっぱいになる。

 ん? と思って、ミザリー先生の方を向く。顔を上げる勇気はないため、目だけをぐりりと動かして。

 目を戻す。

 アヤタカからどっと冷や汗が溢れ出した。

 彼女の顔を見た瞬間、アヤタカの心の中は『言うんじゃなかった』の言葉でいっぱいになった。

 静かな空間でちっ、ちっ、と時計が責めるように音を立てる。

 秒で時計が舌打ちを続ける中、先に口を開いたのはミザリー先生。

 「やだ……そうよね! いくらなんでも早すぎたわ。それに誰だって嫌よね。いじめられてるなんて誤解をされたら。私、まだまだ未熟だから、焦りすぎちゃったのかもしれないわ。本当にごめんね。」

 彼女の、これまでと同じ明るい声が時計を制す。 アヤタカが再度顔を上げると、 ミザリー先生は恥ずかしそうにはにかんでいた。

 笑顔なのに、心の中は寒いままだ。アヤタカはミザリー先生を見るとそう思った。

――だっておれ、さっきの先生の顔、忘れられない。

 それなのに明るい顔で明るい声を出していると、それに伴って心も上向いていく。

 アヤタカはそれに少しほっとした反面、目が当てられなくもあった。

 「本当にごめんねサイオウ君。そうだ、お詫びに美味しいお菓子を出すわね。待ってて!」

 ぱっと立ち上がって、ささっとキッチンに消えてしまった。

 泣いているのではないか。そう思ってアヤタカがキッチンに耳をすませるも、聞こえてくるのはかちゃかちゃという可愛らしい音だけだった。

 時計がやれやれとため息をつくように、時間のくぎりを伝えるオルゴールを鳴らした。


 壁に白いタイルの貼られた台所。戸棚にはお菓子の入った瓶がたくさんある。どれもミザリー先生が作った、手作りのクッキーやスコーンだった。

 小さな花が描かれた、白い壁のタイルを背景に、瓶を抱えたミザリー先生が佇んでいる。きれいにマニキュアが塗られた指に、きゅっと力が入る。


 「良かった……。」


 微かに漏れた言葉がアヤタカに届かぬよう、彼女の声はオルゴールの中に身をひそめた。

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