シュレディンガーの猫・その他短編

そうる

シュレディンガーの猫

 日曜の午後、少し遅めの昼食を作るために玉ねぎを切っていると突然、家の電話が鳴った。


「もしもし」


「あー、こちらはシュレディンガーの猫だけれども」


「はい?」


「シュレディンガーの猫。知らない? 量子力学の」


「物理の教科書に載ってたやつですか? あの、箱に入ってて」


 僕は高校の頃のおぼつかない記憶を辿りながら返事をした。正直、理系科目については高校のかなり早い時期に諦めていたのであまり真面目に勉強してはいなかった。


「そうそう。2分の1の確率で死んでしまうやつ」


「いや、それは知ってますけど」


「猫が生きているか死んでいるかは観測者が箱を開けて確認するまでは確定しない。すなわち量子力学的に言うと、箱を開けるまで猫は生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせの状態なわけだ」


「はぁ」


「で、僕は今その箱の中から電話をしているんだけれども、どう思う?」


「どうって言われても悪質ないたずら電話かな、としか」


「適当に番号を押したんだ。猫の手でそんなに器用に番号を押せるわけがないからね。本当はもっとかわいい女子高生なんかが出てくれることを期待してたんだけど」


 そう言うとシュレディンガーの猫は少し間を置いた。おそらくジョークのつもりだったのだろう。


「でも、外に電話とかしたらまずいんじゃないですか? その、実験的に」


 少し気まずい気持ちになった僕は受話器のコードをいじりながら、ついどうでもいい質問をしてしまった。


「ははは、その心配は無用だよ。この箱はかなりしっかりした防音構造になってるからね、この中で僕が多少大きな声を出したところで観測者には聞こえないさ。さらにいうとここには大きなリクライニングチェアとJBLのオーディオセットがあってね、さっきまでそこに寝転んでモーツァルトを聞いていたよ」


「でも、電話をしているということはそこから電波かなにかが出てるわけですよね」


 そう言うと、シュレディンガーの猫は少し不機嫌な声になって


「そんなことは知らないよ。この携帯電話は観測者が箱に入る前に僕に持たせたものなんだから。おそらく、彼らがうまいことやってるんだろ。そんなことより、君は不確定な存在になった自分というものを想像してみたことはある?」


「わかりませんね」


 僕はキッチンの方に向き直り、切りかけの玉ねぎを眺めながらそう返事をした。


「僕もわからないよ。実際のところ、今、僕はその不確定な存在になってるわけなんだけどね。箱に入る前と後でまったく何かが変わった気がしないんだ。もうちょっとなにかあると期待していたんでね、少々がっかりしてる。ねぇ、君から見て何か変わったところとか感じない? ああ、見てといっても電話越しじゃ見えないんだけどね、ふふふ」


 見も知らぬ人間にこんな電話をかけてくる時点で十分変わってるよ。そう言いかけたが、その一方でシュレディンガーの猫のことを少しかわいそうに思う気持ちも出てきてしまい、僕はぐっと言葉を飲み込んだ。彼の言葉が本当ならば彼はもうすぐ死んでしまうかもしれないのだ。


「でも、やっぱりおかしいんじゃないですかね。少なくとも僕は今、あなたが生きて僕に電話をしているということを観測してる。つまり、あなたはまだ生きているということは観測者によって確定されているんじゃないですか?」


 僕の反応が意外だったのか、シュレディンガーの猫は急に口をつぐみ、しばらくしてからおもむろにこう切り出した。


「ふむ、君は一人暮らしかね? 今、そこに誰かいる?」


「妻と二人で住んでいます。妻は朝から買い物に出ていてもうすぐ帰ってくると思います。僕は今、妻と自分のための昼食を作っているところだったのだけど」


 僕がそう答えると、シュレディンガーの猫は静かな口調でこう言った。


「では、今、君の存在を確定させる観測者はそこには存在しないわけだ。おめでとう、君も僕と同じ不確定な存在の仲間入りだ。君は不確定な存在である僕の電話に応えてしまったことで自らの存在を不確定化させてしまったわけだ」


「妻はもうすぐ帰ってきますよ。ちょっと駅前のスーパーに行っただけなんだ。昼食は家で食べるって言っていたし、だから僕は妻の分の昼食を一緒に作ってるんだから」


「しかし、果たしてその君の奥さんというのは本当に確定した存在なんだろうかねぇ」


 シュレディンガーの猫はその口調に酷薄な笑みを忍ばせていた。


「馬鹿馬鹿しい。だったら今すぐ隣の家の山田さんのところのチャイムを鳴らして挨拶してきてもいいですよ。山田さんとは2年前に引っ越ししてきて以来、懇意にしているんだ。この前も帰省の際に買ったお土産をうちに届けてくれたし」


 僕はそう答えながら自分が無意味な反論をしていることを自覚していた。彼の詭弁に則って話を進めるならば彼と僕に関わった人間は全て不確定な存在になってしまう。そして不確定な存在になってしまった人間に関わった人間も不確定な存在に、それではすぐに世界の全てが不確定になってしまうじゃないか。そんなことは意味のない妄想だ。


「もう切りますよ。僕は妻が帰ってくる前に昼食を作ってしまわないといけないんだ。あなたと言葉遊びをしている暇なんてないんですよ」


「言葉遊びかどうかはすぐに分かることさ。今は、えっと、2時ちょうどか。そろそろだな。予定では観測者は2時になったらこの箱の蓋を開けて僕の生死を確定させることになっている。まぁ、多少遅れることは世の常だけどね。もしそこで僕の死が確定してしまったら、僕と話していた君もこの世の中から消失してしまうかもしれないね。でも、まぁそんなことは実はどうでもいいんだ」


 僕が苛立ちを顕にするとシュレディンガーの猫は大事な用件を思い出したのか急に真面目ぶって話し始めた。


「僕は一週間前からこの箱の中に入ってる。その間にいろいろと考えたんだ。不確定な存在である自分について、そして箱の外側に存在する世界について。たまにモーツァルトを聞きながらね。君はグールドのモーツァルトは好きかい? おっとすまない、話が脱線するのは僕の悪い癖なんだ。まぁそうやっていろいろと考えて、最後に行き着いたのは観測者についてのことだった。この実験の観測者というのは僕の飼主の夫でね。高名な物理学者らしいんだが詳しいことは分からない。なんせ所詮は猫だからね。僕がまだ生れたばかりで大学のキャンパスをふらふらと彷徨っていたところを夫に弁当を届けに来た飼主に拾われたんだ。彼女は夫とは一回りほど歳が離れているようだったが、見た目が若く見えることも相まって並んで歩いている様はまるで父親と娘のようだった。夫妻には良くしてもらったよ。夫は動物があまり得意ではないようだったけど虐待されるようなことはなかった。飼主は夫に会いに大学に行くときはいつも僕を連れて行ってくれて大学内の広い芝生の上で僕を遊ばせてくれた。そうして10年くらいが経ったとき、不意に飼主が家からいなくなったんだ。突然のことで何が起きたのかも分からなかった。しばらくして夫もあまり家に帰ってこなくなった。僕の食事は毎日来るハウスキーパーが用意してくれたけどね。僕自身、近所をいろいろと聞きまわって情報を集めてみたが残念ながら誰も何も知らなかった。というより、誰も飼主がいなくなっていることにすら気づいてないようだった。そうして3年が経とうかというとき、僕は観測者である夫にこの箱の中に入れられたというわけさ。初めは何が起こったのかわからなかったけどね。箱の中の様子を調べているとだいたいのことは検討がついた。夫妻に飼われていた頃から家にあった本をこっそりと盗み読みしていたからね。そうしていろいろと考えて気づいたんだが、もしかして観測者がしようとしてい」


 不意に電話が切れた。


 僕はしばらく受話器を耳元に当てたまま立ちつくしていたが、ふっと溜息をつくとキッチンに戻って玉ねぎを切り、その他の材料とあわせて焼き飯を作って2人分の皿に入れた。


 30分ほどしても妻が戻ってこないので、妻の皿にラップをかけ自分の分を食べ始めた。自分でも気づかなかったがよほど腹がへっていたようで作った焼き飯はすぐに平らげてしまった。食べ終わった食器を流し台に運んでしまうとダイニングテーブルに座って読みかけだったディケンズの二都物語を読み始めた。妻の帰りが遅いのがやや気にかかったが、おそらく帰り道の途中で知り合いにあって立ち話をしているのだろう。特に珍しいことでもない。


 しばらくすると玄関の方からカチャリと鍵を開ける音とただいまという声がした。妻が帰ってきたのだ。


 廊下を小気味良く歩く足音とスーパーの袋がシャラシャラと擦れる音がする。共働きのため妻はいつも一週間分の食料を週末にまとめ買いしている。始めの頃は一緒に行って荷物持ちをしていたのだが、買い物のときは一人でゆっくりと集中して品選びがしたいという妻の希望で、最近は妻が一人で買い物に行き、その間に僕が家の掃除と洗濯、昼食の用意をするのが習慣になっていた。


 おかえり。


 本に熱中していた僕は聴こえるかどうかわからないくらいの声でそう応えると手に持っていた文庫本をダイニングテーブルに置き、作り置いておいた焼き飯の皿を電子レンジで温めるため手に取った。作ったときには温かったはずの皿からはひんやりとした感触が伝わってきた。


「ごめんなさい。マンションの入り口で山田さんの奥さんとばったりあっちゃって」


 ダイニングテーブルの向こう側にある電子レンジに向かっていると、妻の声とともにダイニングルームのとびらが勢い良く開













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