第10話「海と空・前編」



 朝。

 いつもなら一日のうち、一番憂鬱な時間だが、しかし今日は違う。

 私はベッドからゆっくりと起き上がると、隣に眠る百合子を見る。無防備に眠る百合子は、言葉では言い表せないくらい美しくて、可憐だった。

 私はそんな百合子の頭を撫でる。さらさらした長い黒髪からは、私の髪の毛と同じ匂いがする。なんだか嬉しい。

「んん……あ、おはよう。比奈ちゃん」

「おはようゆりちゃん」

 百合子はまだ眠たそうな表情で起き上がると、目を擦りながらあたりを見渡す。多分眼鏡を探しているのだろう。私は窓際に置いてあった百合子の眼鏡を取り、渡す。

「ありがとう。これがないと朝は本当に何も見えなくて」

 百合子は恥ずかしそうにそう言って眼鏡をかける。

「んふふ。比奈ちゃん寝癖酷いよ」

 百合子は私の髪の毛を手櫛で整える。そんなに酷かっただろうか。

「百合子だって酷いよ」

 そう言って私は再び百合子の頭を撫でるように髪を整える。朝からのろけすぎだろうか。

「さて、今日はどうする? 比奈ちゃん」

「どうするって、なにを?」

「今日は一日中お休みだよ。お部屋にこもってないで、どこか外にデートしに行かない?」

 デート。まぁ言っても私たちは約一年も付き合っているので、デート自体は何回もしている。しかし、デートと言っても放課後にぶらぶらと街を歩いたり、行きつけの喫茶店でぐだぐだと話したりというのが多くて、遊園地だとか水族館だとかの定番スポットなどにはほとんど行ったことがない。映画になら何回か行ったが、あれは観ている最中百合子と話せないのであまり行きたくはない。

 そうか、デートか。

 今日は平日ということもあるし、きっとそういう定番スポットもあまり人がいないだろうし、ひとごみが苦手な私と百合子でも行けるのではないだろうか。

「私ね、水族館とプラネタリウムを観に行きたいの」

 両手を胸の前で重ね上目遣いで言われたら、断れるわけないじゃないか。

 私は朝から可愛い百合子を直視することができず、顔を背けながら「うん、いいよ」と呟く。

「じゃあ、早速準備しよう!」

 百合子はベッドから跳ねるように立ち上がると、着ていた服を脱ぎ始める。

 真っ白で透き通るようなその肌と、朝日を受けてキラキラと輝く黒髪は、とても幻想的で一種の芸術だった。

「どうしたの? 比奈ちゃん。ぼーっとしちゃって」

 不思議そうな顔で振り向く百合子。

「別に。朝だから動くのが面倒なだけ」

 百合子の後姿に見惚れていたなんて言えないので、朝のせいにしておく。

「面倒って、私とのデートが面倒ってこと?」

 不満そうな表情で私を見るが、そんな顔でも百合子は可愛い。私は笑いながら「違うよ」と言い、ベッドから立ち上がる。

「ゆりちゃんとのデートを面倒だなんて思わないよ。ただ私は毎朝こんなテンションだから気にしないで」

 それでも少し不満そうな百合子に、私は唇ではなくおでこにキスをする。

「これで許して」

 百合子は唇に指を当て、目を瞑りながら言う。

「もう一度。今度はこっちにしてくれたら許してあげる」

 私のお姫様はおでこでなく唇をご所望らしい。

「仕方ないなぁ」

 私は差し出された艶やかな唇に、自分の唇を重ねる。

 それは一瞬でありながらも、永遠とも感じるほどの時間。この瞬間だけは、何もかもを忘れられる。

 そう、何もかも。

 ゆっくりと唇を離し、百合子を見つめる。少しだけ上気した頬の百合子は、潤ませた瞳で私を見つめる。

 私はその表情に、少しだけ罪悪感を覚えた。











 どうして夏はこんなにも暑いのだろうか。

 私は外へ出た途端、太陽の熱気に負けて「暑い」を連呼する。そんな私を見て百合子は「私のこの白いワンピース見て涼んで」と笑顔で言うが、逆効果だった。興奮して更に暑さが増す。

 隣町にある水族館に着いた私たちは、水槽の中の魚を見る前にレストランに入っていた。

 もうすぐお昼の時間で、更に言えば起きた時間が遅かったので朝ご飯も食べていなかった私たちは、まずは腹ごしらえだという意見で一致したのだ。

「こういうところのレストランって、どうしてこんなに高いのかな?」

 百合子はメニュー表を見ながら不思議そうに訊いてくる。

「まぁ、維持費とか人件費とか色々かかるんじゃない。だから、こういうところである程度お金を落としてもらわないと困るんだと、私は思ってる」

 実際どうだか分からないけれど。

「ふーん。比奈ちゃんがそう思ってるなら私もそう思っておく」

 と言って再びメニューを睨む百合子。私はとっくに決まっているのに対して、百合子はデザートを付けるか付けないかで悩んでいるらしい。そんなに悩むならもう食べればいいのに。

「よし決めた! 今日は特別にデザート頼もう!」

 メニュー表をパタンと閉じて、百合子は決心が揺らがないうちに店員を呼ぶ。

「私ちょっとお手洗い行って来る」

 注文をさっさと済ませて席を立つ私。

「うん。行ってらっしゃい」

 メニュー表とのにらみ合いを再び始めた百合子。また何か悩んでいるらしい。

 私はそんな百合子の後姿を少しだけ見つめてから、お手洗いの方向へと歩いていく。






「はぁ。なんだかんだ言って人結構いるなぁ」

 私はさっき見た水族館の入り口を思い出す。

 平日にも関わらず結構な混雑具合で、中には同年代くらいの年齢の子もいた。もう夏休みに入っている学校でもあるのだろうか。

 この様子だとプラネタリウムの方も人が多そうだ。行って大丈夫だろうか。最悪プラネタリウムは夏休み入ってからでもいい気がする。無理に今日行かなくてもプラネタリウムは逃げないし。それとも実際に夜空で天体観測でもしたほうがいいのだろうか。それなら家にいてもできるし、何より遠出しなくても言い。百合子に相談してみるか。

 そんな風に私は手を洗いながらこれから行く場所のことなどを考えていると、突然後ろから声をかけられた。

「あなた、もしかして比奈理?」

 その声に私は顔を上げる。

 そして、鏡に映っていた相手の顔は、この世で一番会いたくない人物だった。

 私の中学のときの友人であり、私の元恋人の姉。その名前は……

「海乃」

 自分の名前を言われたその子は、酷く哀しい笑顔を私に向ける。

「私の名前を気安く呼ばないで。あなたは」

 何を言われるのかは、大体想像がついた。私は、哀しそうな海乃の瞳を直視できず視線を横に逸らす。

 そして海乃は冷たい表情で言い放つ。


「あなたは私の大事な妹を奪った人殺しなんだから」


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