第3話「今日が終わるその前に」
夜。
暗く閑静な住宅街を目的もなく歩く。
一つひとつの家の窓からは、光が漏れていたり、テレビやラジオの音がしたりしている。なんだかそういうものを見たり聞いたりするたびに、自分はどうして今こうしているんだろうと考えてしまう。
ただ見たくないものを遠ざけて、現実を受け入れず、ひたすら逃げているだけなのではないだろうか。
「はぁ、もうよそう」
そういうのを考えたくないから家を出て来たんじゃないか。
優しく心地よい夜風が、私の火照った体を包み込む。
百合子は今、どうしているかな。
今頃はもう夢の中かな。
ポケットから携帯電話を取り出し、待ち受け画面を眺める。少し前、学校の近くを流れる川に沿って咲く桜をバックに、百合子と二人で撮った写真。写真に写るのがあまり好きではなかった私は、百合子になんて言われて仕方なく撮られたんだったっけ。思い出せない。
しばらく住宅街を歩くと、小さな公園が現れる。遊具はほとんどなく、ベンチがやたら多い公園だ。一体どんな人が利用するのかは不明だが、私みたいに居場所がない人が利用するのかも知れない。
道路沿いからは見えないところにあるベンチに腰掛ける。もしこの公園の前を人が通って、警察やらなにやらに連絡されると面倒だからだ。
私は再びポケットから携帯電話を取り出す。この待ち受け画面の私はすごく幸せそうな表情をしている。きっと今の私はその逆、すごく哀しい表情をしているに違いない。
百合子に電話しようかな。でも、こんな時間に電話なんて、迷惑じゃないだろうか。
私が迷っていると、突然電話が震えだし、軽快な音楽が流れる。液晶画面を見るとそこには『長内百合子』と表示されていた。残念ながら電話ではなくメールだ。
私はメールを開く。
『夜遅くにごめんね。今日は色々あったから本当は電話で話したいけど、もうこんな時間だし、比奈理ちゃんも迷惑だと思うので、メールにします。
今日のことを話すと長くなってしまうので、それはまた明日にしておきます。今伝えたいことはひとつです。私は比奈理ちゃんが過去にどんな人と付き合っていたとしても全然気にしないから。だって今比奈理ちゃんの隣にいるのは私だし、それに比奈理ちゃんが男の子にも女の子にももてるのは知っているので、比奈理ちゃんが初めて付き合った人が私じゃないのは少し残念だけど、そういうことも全然気にしないから。それだけです。
じゃあまた明日、いつもの待ち合わせ場所で』
百合子が夕方の一件をすごく気にしているのは痛いほど伝わったし、理解した。
別にさなえとはそういう関係になったことも、そういう関係として意識したこともないから、百合子も警戒しなくていいのに。逆にさなえが百合子に手を出さないか心配だ。
それと、もうひとつ分かったことがある。百合子はまだ起きているということだ。
私は自然な動作で携帯電話のアドレスから百合子の電話番号を呼び出し、コールする。
そこで私はどうして百合子が電話ではなくメールにしたかを思い出す。
私に迷惑がかかるからだ。
うっかりしていた。百合子のメールを読んだら、なんだか無性に声が聞きたくなってしまい。何も考えず電話してしまった。
一回、二回とコール音が左耳で鳴り響く。五回目のコール音で百合子が電話に出た。
「もしもし。比奈理ちゃん?」
少し眠たそうな声の百合子。
「ごめん。メール読んだら声が聞きたくなって。起こしてごめん、もう切るね」
「待って。切らないで。私も声が聞きたかったからいいの。それに、お布団に入っても全然眠れなかったから比奈理ちゃんから電話があって嬉しかった」
私のために我慢しているように感じたけれど、このまま切れば明日は朝から説教で始まりそうだったので、私は「……そう」とだけ言って、電話を切らなかった。
「あのね、今日のこと、私本当に全然気にしてないけど、一つだけ不満なことがあったの」
すごい気にしてる気がするが、まぁそれは突っ込まないことにする。
「あのね、今日喫茶店で会った幼馴染の子、さなえさんだっけ? その子が比奈理ちゃんのこと、比奈ちゃんって呼んでたよね?」
「うん。さなえには昔からそう呼ばれてた」
「じゃあ、私も比奈ちゃんて呼んで良いよね」
顔を見なくても、今百合子がどんな顔をしているか分かる。すこしむすっとしていて唇を尖らせているはずだ。
「それで、比奈ちゃんは私のことを百合ちゃんて呼びなさい」
いきなり比奈ちゃん呼びをしてきた上に、自分のお気に入りの呼ばれ方を押し付けてきた。
でも、一年も付き合ってきてお互いの呼び方が友人時代と同じなのは、少し変だとは感じていたし、百合ちゃんはちょっといただけないが、それで百合子が喜ぶなら私の恥ずかしさなんて些細な問題だ。
「比奈ちゃん」
「何?」
「そこは私の名前を呼んでよ」
不満そうに言う百合子。
何だって最初は恥ずかしさがあって、上手く出来ないものだ。
私は大きく息を吸い、覚悟を決める。
「……ゆり、ちゃん」
「聞こえなかったからもう一回ね」
何か言ったと分かってる時点で聞こえてるじゃないかと思ったけれど、恥ずかしさでそれどころではなかった。
私は半ばやけくそ気味で言う。
「ゆりちゃん」
「なんだか愛情がこもってない。もう一度」
「ゆりちゃん」
「もう少し甘い声で言ってほしいな」
「無茶言うな! これでも結構恥ずかしがってるんだぞ! これ以上はもう無理!」
「仕方ないなぁ。この続きはまた今度だね」
百合子の軽快な笑いが、電話の奥から聞こえてくる。この声が聞けただけでも良しとするか。
「私もそろそろ家に帰って寝るから、切るよ」
「うん。ちゃんとベッドで寝るんだよ」
「分かってるよ。ゆりこ……ゆりちゃんも、体冷やさないようにね」
そう言った後、百合子が電話を切るのを待ってから私も耳から電話を離す。
私は座っていたベンチから腰を浮かせ、公園の外へ出る。
さっきまでとなんら変わりない夜道なのに、不思議と明るく感じる。空を見上げれば星が瞬き月が輝いていた。けれどきっとそのせいではない。家路が憂鬱ではないのは、一体いつ振りだろうか。
ゆりちゃん、か。
口にするたびに、くすぐったくなるような感覚が私を襲う。けれどそれは不快ではなく、むしろ心地よい感覚だった。
「ゆりちゃん……」
私は一人呟く。
その呟きに胸が高揚する。
残念ながら今日はまだ眠れそうになかった。
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