二月の欠けら(ドロウ・ザ・ライン 第2章)

one minute life

第1話 三年五組

 区立葛西東小学校の三学期、東京オリンピックの年に竣工した鉄筋校舎の二階では、校舎と同い年の三年五組の生徒達が三時限目の算数の授業を受けていた。

 チョークの黒板を打つ音が細かに響いている。お世辞にも見やすいとは言えない数字や符号の羅列――五行目に達したところで担任教師の藤木が振り返った。窓際の、後ろから三列目の席に座る恭輔と目が合った。藤木は教壇を降りると、視線の先に足を進めた。

 恭輔の机の上にはクラスの皆と同じようにノートが開いている。しかし、藤木が背を向けている間、恭輔の手だけは動いていない。

「ちょっと見せて……」

 藤木はノートを斜めにして首の角度を合わせると、白くなった指先で文字を追う。ノートを元の位置に直し、教壇に戻って板書を再開する。そこに示される解き方や式は、恭輔が家で書いてきたものと同じである。恭輔はそれを見とどけると、赤鉛筆で手許のノートに〇を書き込む。――いつものことである。が、この日の恭輔は、いつもより窓の外を見ることが多かった。

 二月の初めだというのに春のような柔らかな日差しがとどいていた。……


 恭輔は三年五組のクラス委員である。この小学校では、三年以上の学年の各クラスに男女一名ずつクラス委員がいる。正式には「児童委員」というが、普段はクラス委員と呼ぶ。選出は前期と後期の二度ある。前期は三年の場合、入学して初めてのクラス替えの直後に、後期は夏休み明けに、投票が行われる。

 恭輔は前期もクラス委員に選ばれた。――

「三年なんだから、ちゃんとクラス委員に立候補するんだよ」

 始業式の朝、慶子は出掛けの恭輔に持ち物の確認でもするように言った。恭輔は児童委員のバッジを思い出した。茉莉子の左胸には、いつも桜の花を模ったエンジのバッジがのっていた。

「緋浦君」――藤木はいきなり恭輔を指名した。「前に出て、誰に何票入ったかを調べて発表してください。あと一人誰かに手伝ってもらって」

 藤木は投票にあたって立候補者を募らなかった。恭輔は二年生まで同じ一組だった英雄を記録係として指名した。恭輔が投票用紙に書かれた名前を読み上げ、英雄がそれを黒板に書き連ねていった。

 男子のうち、「正」の字が完成したのは恭輔だけだった。この結果、前期のクラス委員の男子は恭輔と決まった。女子は二年三組から来た池谷結子だった。少女漫画の主人公を思わせる、黒目の大きい整った顔立ちだったが、表情のないところが子供達に理想的な真面目さを感じさせていた。


 休み時間に入り、藤木は扉を開けて教室を出て行った。生徒達も三三五五、後に続いた。英雄も、恭輔に何か耳打ちをして出て行った。恭輔は用済みとなった投票用紙を教卓の上でまとめ始めた。すると、そこへ近づいて来る四人組があった。

「敏行も、昌巳も、雅弘も、皆、俺に入れたんだよ」

 三人を率いて来た須賀修一だった。色黒でえらの張った顔を突き出し、小さな点の瞳を中心に据えた細い目が吊り上がっている。

 恭輔はまだ消していない黒板に目をやった。須賀は「一」である。無造作にチョークを取ると、当たり前のように三画書き足した。

「ごめんね」振り返った恭輔がそう言うと、修一は「いいよ」と言って、先程とは打って変わった笑顔を見せた。色黒の口許にこぼれた白い歯が眩しく映った。

 修一を先頭に四人もまた教室を出て行った。一人残った恭輔は、黒板を拭きながら、「緋浦恭輔」ではなく、「オレ」と英雄に言った回数を思い返していた。同時に、英雄が耳打ちしていった一言が、その時の彼の勝ち誇った顔と一緒に思い出された。

 ――結局、須賀に入れたのは俺だけだったんだな。(つづく)

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