浅田 計 01

 夏休みに入れば、楽しいイベントが待ってると思っていた。

「あっつぅ……」

 実際はどうだ。俺は駅から高校までの急な上り坂約一キロをタオル片手にだらだら歩いていた。道の脇に並ぶ街路樹ではひっきりなしにセミが騒ぎ、少し日陰になっているところがあれば羽虫がゆらゆら飛び回る。これは楽しいイベントなのか。そんなわけがない。むしろ辛い。

 真夏の日差しの下、ゆっくり歩けば歩くほど余計に辛いということには気づいているが、どうも頑張って登ろうという気になれない。夏休みの最中に学校に呼び出されれば、さもありなんというものだ。

「ワンゲル部なら余裕そうだな……」

 どうでもいいつぶやきを漏らす。見るでもなく見ていた足元で、ダンゴムシがアリに運ばれていた。


 補習に呼び出されたのは夏休みの始まる三日前、一学期の期末テストの結果が全て返ってきた日だ。テストの結果は悪くない。少なくとも俺にとっては。何せどの教科も平均点の前後で、赤点は一つもなかった。得意教科が無いという意味では悪い成績なのは確かだが、だからと言って補習に呼ばれる程ではない。

 しかし、そんな平均野郎の俺の名を、担任教師榊原さかきばらは補習対象者として呼んだのだった。


 教室にはすでに一人女子が来ていて、中列窓際の席に座っていた。俺が扉を開けたのに反応して肩を震わせ、前髪で上半分隠れた顔をこちらに向ける。俺は暑さで溶けかけの顔を微妙に動かして笑みらしきものを作ってから手近な席に着いた。

 顔は見た覚えがあるが、名前は分からない。他クラスの女子、それも見るからに目立たなそうな見た目なのだから、知らないのも無理ないだろう。きっと相手も俺のことなど知らないはずだ。

 それにしても、ギリギリに到着したつもりだったのだが、まさか今回の補習は二人だけなのか。たかだか補習なので無理にフレンドリーに接する必要はないとしても、内向的な女子と二人で授業など気まずくないわけがない。今ある席の距離感が、気まずさを象徴しているかのようだった。

 女子は窓の外、無駄に青い空を眺めている。初めに顔を合わせてからずっとだ。こちらに顔を向ける気はもう無いらしい。


「お、二人とも待たせたな。んじゃ補習始めるぞ……ってなんでそんなバラバラに座ってんの? 仲悪いのか?」

 待たせたなと言う割に、分針も動かないうちに榊原が教室に入ってきた。補習開始予定の二分前である。榊原は流石教師と言うべきか、教師だから当たり前と言うべきか、時間にシビアなほうらしかった。

 尚、俺も女子も席を移ることはしなかった。悪いも何も、仲そのものが無い。

「……まいっか、席は関係無いし。補習の内容は、分かってると思うが端末マニフェストの扱いについてな。毎年一年生は情報の授業でやることになってる。進路指導にも使うんで真面目にやるように」

 つまりここに来ていない一年は皆授業内で成功したってことか。この学校は学年七クラスで三百人弱いたはずだ。割合的に百五十分の一。まあ、今や日本の社会で必須アイテムとされているマニフェストを、まともに扱えない方が恥ずかしいってことか。さながら昔のパソコンのようである。

浅田あさだ、返事」

「いや、なんで俺だけなんすか」

「担任のクラスだから贔屓してるんだよ」

 堂々と言うな。

 女子の方を見ると、口元に手を当てて顔を気持ち俯かせていた。微妙に笑っているように見えなくもない。

「んじゃ端末渡すから起動、それから学籍番号でログインまで、はいやって」

 そう言って榊原は二人の生徒に端末を一つずつ渡し、自分も一つ持って操作し始めた。

 受け取った端末は学校の備品で、少し古い型だ。手に馴染む薄い長方形、表に大きな画面があり、裏は白の無地になっている。形だけなら一昔前のスマートフォンに近い。

 まずは指示通りに起動、明るい画面光とともにイズミ社のマークが現れる。それから共有端末用に表示されるログインフォームにタッチ入力で学籍番号とパスワードを入れ、ログインボタンに触れる。

 少しの間を置いて表示がホーム画面になり、ログインに成功したことが分かった。

「よし、ログインが済んだな。んじゃ早速実習。まずはイズムの『顕現』から。黒野くろの、やってみろ」

 榊原が女子の方を向き、名前を呼ぶ。女子の名前は黒野というらしい。見た目も苗字も魔女っぽいな。名前はまだ分からないけど。

 呼ばれた女子は端末を机の上に落としそうになりながら反応し、丁寧に両手で持ち直して額に近づけた。俺の座っている席からでは髪が邪魔で顔が見えない。何か祈るみたいにぎゅっと目を閉じていそうではある。


 ばさばさばさっ。


 慌ただしい音がして、黒野の机の上にが現れた。見た目は、端的に表せば鎖を纏った鳩。鎖は鳩の羽に絡みつくのではなく、土星の輪のように二重三重に交わって鳩の周りをゆっくりと回転しながら漂っている。

 なんとなく地球ゴマを思い出した。

 っていうか。

「え、なんでそんなすぐ出せんの? 補習組だろ?」

 つい口から漏れた言葉に、黒野と榊原が同時にこちらを向いた。問いには榊原が答える。

「何故って、黒野は授業を風邪で欠席しただけだからな。実質浅田だけだぞ、端末を扱えないのは」


 訂正、三百分の一だ。逃げ出さなかったのは褒められても良かったと思う。

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