三 木々が生え、
第19話
意識は、羽化しない。
良くない夢を見た記憶が、脳内で未だ分散し、心中を雨のように染めていく。それが一体どのような夢であったのか、印象以外の何物も残っていないのが、却って気分を悪くさせているのを自覚できる。
いっそ夢の中にいたほうが幸せだった可能性すら、思案される。
枕元でバイブレーションを起こすスマートフォンを落ち着かせる。爽やかな朝には程遠く、今日が終業式でなければ、適当な言い訳を見繕って休んでしまったかもしれない。半身を起こしたまま、しばらくぼんやりと空を睨んだ。
ようやくリビングに顔を出すと、母は珍しく朝から化粧をし、父は箸を片手に週刊誌を捲りテレビから鳴るクラシック音楽に耳を傾け、弟の姿は、なかった。どうやら未だ寝ているらしい。
「おはよう」
自分の声なのに、別人のものに思える異質な声音がそこにポツリと落ちる。
「おはよう……、って、酷い顔してるわよ」
母はパフで頬を叩くのを止め、こちらの顔を覗きこむように姿勢を傾ける。父は視線を上げたが、会話に参加しようとは思わなかったようだ。
「ちょっとね、なんか気分が悪い」
言いながら目頭を掻いた。
「熱は? 休む?」
「いや、いいよ」今度はその手で頭を掻く。「熱っぽさはない。今日で終わりだし」
「そう……」それから鏡に向き直り、「ごめんね、ご飯、自分でよそって。おかずは出てるから」
心配げな声音を寄越してくれる。
清々しさの欠片もない。
異様なだるさを覚える身体を、どうにか食卓へ落ち着かせる。熱っぽさはないが、熱を出すのだけが風邪ではない。平気とは言ったものの、病であれば楽かもしれないと考えてもいた。
「いただきます」
食欲は皆無だった。しかし詰めておかなければ空腹に苛まれるのは見えていて、得はない。
「あらこんな時間。ほら、お父さんもそろそろ支度しないと」ヘアアイロンの電源を入れながら、「あなたには休まれたら困れちゃう」
「大黒柱は大変だなあ。なあ?」
それでもどこか嬉しそうな顔をするのが不思議だった。
鈍重な頭では到底理解できない。
すっかりタイミングを失ったさなぎが、静かに時を待っている。
「本当に大丈夫か?」母と同じような視線で、眉間の辺りを指し示すと、「ここ、すごい皺だぞ」
トーンを低め、週刊誌を閉じた。
「平気。大丈夫。寝ぼけてるだけだよ」結局箸を持つことさえままならないまま、「それより父さんも早く支度しなよ。遅れるよ」
唸り声をひとつ、
「まあ、午後には帰れるんだもんな」
これ以上問答を続けるのがお互いにとって良くないと判断したらしい。
謝ってから箸を置き、溜息を漏らしてから、
「そういえば母さん、どこか出かけるの?」
声を投げると、
「言ってなかったっけ、夕方から同窓会があるの」でも、と続ける。「体調悪いなら行くのやめておこうか?」
「本当、大丈夫だから、行ってきなよ。何かあれば大志も居るし、あいつに頼るから」
「でも……」
「せっかくなんだから。母さん出かけることなんてほとんどないじゃん」
「うん……」
煮え切らない母との会話を断ち切るために、ようやく、腰を上げる。何かを言ったが、聞こえなかった振りをした。
洗面台で冷や水を顔に浴びたら、ようやく頭が冴え始める。方々へ散っていた記憶の残滓が溶けるように消えていく感触があった。悪い夢だったとしても、それは夢に違いない。ましてやそれは具体性さえ持たないのだから、今この現状には何一つ関係がない。
鏡に映る自分と向き合うと、ひとつ頬を叩いた。大丈夫。声にすれば、そのような気がしてくるから、人間は便利と言えた。
必要以上の心配を寄越されないよう、そこからはきびきびと支度を進める。制服に着替え、鞄に最低限の筆記用具があることを確認すると、
「行ってきます」
何かを言われる前にマンションを発つ。
今日もいつものように、気が付いたときには過ぎていくのだと信じた。
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