ついに彼女は羽化を迎える
枕木きのこ
一 蝶は土に還り、
第1話
意識は蝶になった。
部屋中を不規則に羽ばたき、世界の裏側に何かを起こしてしまいそうな予感を孕ませ、素知らぬ顔でふよふよと漂う。身体だけが地上に取り残され、起き抜けのその鈍重さに、辟易とする。
どこかへ行ってしまいたい。
スヌーズ機能で再度バイブレーションを起こすスマートフォンを落ち着かせる。五分前にも鳴っているはずだし、そもそもの設定は三十分も前だったが、いずれも、気が付かなかった。どうもすでに勘違いし、自己が夏休みへと移行し始めている。
寝巻き姿でリビングに顔を出すと、母は忙しなげにあちこちを行き来し、父は新聞で顔を隠したままニュースの音を聞き、弟はちょうど朝ごはんを終えたところらしく手を合わせていた。
「おはよう」
自分の声なのに、別人のものに思える異質な声音がそこにポツリと落ちる。母は一瞥し、父は新聞を波立たせ、弟は振り返った。
「お前随分余裕だな」そうして席を立ち、「行ってきます」
誰にともなく声を投げる。
死んだ蝶は、今の時刻を改める。
だが、依然、鉛の身体は、それを認識できなかった。食卓へつき、いつから出されていたかもわからないパンを前に、
「いただきます」
手を合わせる。
「食べるのはいいけど」何がそんなに忙しいのか、ひとりだけ早回しされているような動作のまま、「遅刻は好ましくないわ」
「今日行けば休みになるんだから、最後くらいちゃんとしなさいな」
母のメインに父が投げやりなおかずを添える。
眠いし、おなかが空いていた。
土に還った思考は地割れを起こし、どちらを取るべきか、耽る。
「ここ」新聞から片手を外し、鼻の頭を指し示すと、「すごい皺だぞ」
暢気な調子でデザートまでくれる。
「わかったわかった、食べずに行きます」ついたばかりにも関わらず腰を上げ、洗面台へ向かいながら、「どうせ昼には帰るしね」
その背中に、
「そういえば私、昼から友達とランチに行くから、自分で用意してね」
時間がなさそうにしている答えをぶつけられ、父が、
「聞いてないぞ?」
説明を求めたところで、両耳を押さえた。気が滅入る。
冷や水を顔に浴びたら、ようやく冴え始める。割れた地盤に水が染み入り、新たな木々を生み、そしてまた、夜にはさなぎが準備を始める。
鏡に映る自分と向き合うと、いかにも寝起きそのもののままではあったが、なるべく、前向きに考えることが大事なのだ。
いそいそと支度を終えると、鞄の中身もろくに確認しないまま、
「行ってきます」
家を発つ。二人の耳には、届いていたかどうか、判然としないが、それは、大事なことではない。
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