虚業少年と天才少女

冷泉 小鳥

第1話

 放課後。現代社会研究会の部室は、今日もまた閑散としていた。


 現代社会研究会。部員数は、2年生5人。うち3人は幽霊部員であり、部室を訪れることはほとんどない。


 夕日が差し込む教室。「天才少女」望月 紅葉は教室のカーテンを閉め、明かりを点けた。


「私は太陽が嫌いだ。太陽なんて、滅びてしまえばいいのに」

「そうかい?太陽は素晴らしいよ。何しろ、太陽さえあれば太陽光発電ができるし、光合成もできる。そして、太陽光発電も光合成も、何らかの形で僕の利益に貢献してくれる」


 「虚業少年」渋谷 信義は、部室に持ち込まれたソファの上で、足を伸ばして寝転びながら、部室に転がされた文庫本を読んでいた。ちなみに、現代社会研究会は信義の手によって作られた部活であり、部員や顧問は概ね信義の手腕によって集められた。元々、現代社会研究会は、家庭の事情で家に早く帰りたくない信義の自己利益のためだけに作られたものだったが、その過程で、たまたま誘われた紅葉と意気投合したため、現代社会研究会は内実を持った部活動となった。


「……渋谷君。君はまだ、太陽光パネルの販売の仕事を続けているのかい?」

「ああ、売れ行きは順調だよ。最近のエコロジーブーム、脱原発の流れに加え、なんと補助金制度まであるのだから、これが売れないはずがない。少なくとも、文学全集を売り歩くよりは楽で利幅の大きい仕事さ」


 信義の成績は、お世辞にも良いとは言えない。教科にもよるが、せいぜい上の下~中の下程度。赤点は取らないが、特筆するべきほどでもない。しかし、それは信義が愚かであったり、怠惰であったりすることを意味するのではない。


 信義の関心は、専らビジネス方面に集中していた。学校の勉強に力を入れるのではなく、より早く多額の金を稼ぐこと!両親の支援が期待できない信義は、もし大学に行きたいのであれば高校生の時点から大金を用意しておく必要があった。


「でも、うちの高校はバイト禁止だろう?勝手に働いたらダメじゃないか。渋谷君のことだから、どうせ教師に許可なんて取ってないだろう?」


「大丈夫だよ。校則には『労働禁止』とは書かれているけれど、僕の『仕事』は契約上は自営業だから、何の問題もない。実家が自営業の子が、実家を手伝って収入を得るようなものさ」


 紅葉の父は哲学者で、紅葉の母は物理学者だった。両親ともに忙しく、不在の日も多かったが、紅葉の両親は教育に金を惜しんだりはしなかった。


「でも……」

「うん、紅葉ちゃんの言いたいことは分かるよ。でも、僕は学校の勉強は大嫌いなんだ。なるほど、確かに学校の勉強は、一部の人にとっては役に立つかもしれないね。でも、僕の人生において学校の勉強が役に立つとは思わないし、役立てたいとも思わないね。そういえば、誰か偉い人が『三角関数は役に立たない』と言っていたけれど、これは正しい発言だね」


「渋谷君。君がもし望むのなら、『三角関数が役に立った例』を100個ほど並べてあげても構わないよ。まあ、君が言いたいのは、そういう意味ではないのだろうけど」


「まあ、確かに、三角関数が役に立つこともあることは認めよう。僕も、シューティングゲームを制作した時には、三角関数によくお世話になった。でもね、僕がシューティングゲームを制作していた頃には、学校のカリキュラムはまだ三角関数にまで進んでいなかった。それでも、実際に三角関数を役立てながら制作するのには、何の困難もなかった。『学校で三角関数をもっと真面目に学んでおけばよかった!』みたいな後悔を抱くことも、当然なかったよ」


 信義の発言を聞いて、紅葉はため息を吐いた。

「渋谷君。君は自分の才能をいつも過小評価しているね?確かに、実地訓練だけで三角関数をすぐに習得できる君のような人材ばかりなら、わざわざ高校の教科書で三角関数を教える必要はないかもしれない。しかし、普通に学校で教育を受けている一般生徒たちは違う。彼らは、予め高校教育を受け、予習・授業・復習、そして確認と報酬のためのテストという形式を守って初めて、三角関数のような抽象的な概念を理解することができる。そして、このように知識を積み上げていくことで、学生の大半は、複雑に入り組んだ抽象的な概念すらも自由に操作できるようになる。理論と実験――現代科学を支えるこの2つの中心概念を学校教育を通して結びつけることで、文明社会は維持されている」


「紅葉ちゃん。何か誤解しているようだね?僕が言いたいのは、学校教育は死んだ学問を売るに過ぎない、くだらない場所だということさ。率直に言って、学校で授業を聞いている暇があるなら、アルバイトをして「社会経験」を積む方が大切だろうね。つい先ほど紅葉ちゃんが熱弁していたような『文明社会』はSF小説の中にしか存在しない。実際に存在するのは、コンビニであり、ショッピングモールであり、ジャンクフードだ。そして、これらの物を利用するために必要な『学校教育』というのは、せいぜい小学生レベルだ。恐らくは、中学校で学んだ知識ですらあまりに日常生活から遊離しすぎていて、役に立たない。それに、小学校とは自明の事柄を無駄に時間をかけて教え込もうとする、知性に敵対する施設に過ぎない。例えば、小学校で教えられる算数は、まともな人間であれば3日でマスターできる程度に簡単なものだ。実際、僕は2日で小学校レベルの算数はマスターして、ついでに粗雑な微分法も開発したよ。まあ、無限小をめぐる問題は、当時の僕が持っていた概念だけでは解決不可能なものだったのだから、少々粗雑でも許してもらえるだろうね。当時の僕が犯していた過ちは、例えて言うなら『無限角形は円に等しい』と語るような愚かさだ。もっとも、この態度は、小学生算数の教科書で頻繁に繰り返される馬鹿げた比喩よりは有益だし、このような粗雑な微分法でも実用上問題が発生することはほとんどない」


 信義はペットボトルの蓋を開け、ミネラルウォーターを飲み始めた。

「渋谷君。ところで、そのミネラルウォーターは君の売り物かい?」

「もちろん」

 信義は太陽光パネルの他に、様々な物を売り歩いていたが、その内の一つにミネラルウォーターが含まれていた。水源から湧き出す実質無料の天然水にスピリチュアル的な価値を付与して、訪問販売にて売り歩くビジネスは、虚業を好む信義に適したものだった。


「ところで、渋谷君。そのミネラルウォーター、ネット上の疑似科学一覧に載せられていたけれど、本当に売っても大丈夫な商品なのかい?実は怪しげなマルチ商法に引っかかったりしてないよね?」


「このミネラルウォーターは水素水とは違って、、初めから科学性を装う意欲に乏しいから、非科学的な価値は帯びているけれど、、疑似科学とは呼べないね。水素水が疑似科学だと証明してくれる頭のおかしい人々はネット上に溢れてるけど、彼らの普段の(誤った)発言の数々を見たことがあるかい?彼らを信頼してはいけないよ。本当に水素水が疑似科学かどうかは怪しいものだね。それに、もし本当に疑似科学であっても、客に売れるのであればそれでいいのさ。僕たちは資本主義社会の中で生きているのであって、科学主義社会の中で生きているのではないからね。そんなに科学が好きなら、あの『科学的社会主義』の社会で暮らせばいいのではないかね?おっと、ごめん。もうソ連は崩壊していたね。最近はマルクス主義史観の研究で忙しかったから、既にソ連は存在しないことを、つい失念してしまったよ」


「渋谷君。普通の小学生は微分法を自分で開発したりしないものだよ?」

「そうかい?小学校算数は色々な部分が欠けている。僕はただ、その空白を自力で埋めただけさ」


「私の場合は、母がいつも、寝物語として数学の素晴らしさについて語ってくれたからね。小学校の算数を見ても、渋谷君みたいな感情を抱くことはなかったよ」

「ところで、紅葉ちゃんは何日で小学校の算数を終わらせたのかい?」


「うーん、1年くらいかな?あいにく母は完璧主義者でね、算数を集合論から始めるような人だったから、1+1=2が出てくるまでが大変だったよ」

「その発想は間違いだね。1+1=2を定義するために、わざわざ集合論や論理学を持ち出してくる必要はない。1+1=2はそれ自体完全な式であって、集合論や論理学によって『基礎づける』必要はない。そもそも、算数や数学は『基礎づけ』をいささかも必要としない、独立した学問分野だ」


「そうだね、渋谷君。私も君の意見に賛成だ。『数学の危機』の時代はもう終わった」

「いや、紅葉ちゃん、『数学の危機』は形を変えてまだ続いているよ。現在においては、『純粋数学』と『応用数学』の乖離が深刻化している。そう、紅葉ちゃんが大好きで、いつも口癖のようにつぶやいている『理論と実験』を融合させることは、特に現代では困難になってきている。その理由は簡単で、数学は進歩するけれど、数学を学ぶ側の人間、特に毎年毎年一定量入荷される理系学生の品質は向上しないからだ」


「渋谷君。私はもう慣れたけど、他人を物扱いして、物のように呼ぶのはやめた方がいいと思うよ。その発言は誰の得にもならない」


「そうだね。紅葉ちゃんはある意味では正しい。でも、それはできないよ。僕は唯物論者だからね」


「うーん……。私も唯物論者で無神論者だけど、どうやら渋谷君とは『唯物論者』に込めている意味が違うようだね」

「紅葉ちゃん。いつも言ってるけど、僕は無神論者じゃない。無神論と唯物論を同一視するのは現代人の悪癖だよ。現代人は、物質的には確かに豊かになったかもしれないけれど、精神面ではむしろ退化しているね。抽象的な概念の操作に関しても同じだ。現在では、『数学は論理的思考を養う』と宣伝されている。これは酷い誤りだ。数学は論理的思考などいささかも必要としない営みだ。確かに、『数学は論理的思考を養う』というのはプラスイメージだけれど、この主張は非科学的なものだ。要するに、やっていることは、僕が売り歩いていて、今飲んでいるスピリチュアル性を帯びたミネラルウォーターと同じさ。科学の中枢とされる数学においても非科学的な概念は頻繁に用いられている。それがいいことだとは思わないけれど、非科学的なものを数学から排除可能だとは思わないね。ましてや、日常生活に疑似科学や非科学的なものが浸透していくことは自然なことであるし、場合によっては望ましいことでもある。『科学的な子育て』の方法なんて存在しない。少なくとも、それに従っていれば必ず健康で優秀な子供が生産できるような、工場の生産ラインのように精緻な科学的な子育ての方法は存在しない。だから、子育てにおいては、オカルトめいた様々な子育て法が鎬を削り合っている。それらの方法は限定的な経験に依拠していて、成功することも失敗することもあるけれど、それなりに機能している。でも、これを『科学』と呼ぶことはできない。もしこの方式に名前を付けるなら……そうだね、『世間知』とでも呼ぼうか?それとも『常識』?」


 そのとき、チャイムが2人の会話を遮った。下校時間だった。

「おお、もう終わりか。時の流れは早いね。授業時間はあんなに苦痛なのに、放課後の部活動、学校生活における数少ない幸せな時間はすぐに終わってしまう」

「渋谷君、君はずっと居眠りしていたじゃないか……」

「学校の机に突っ伏して居眠りしていると、後で身体の節々が痛み始めるものさ。ほとんど居眠りしたことがない紅葉ちゃんには、分からないだろうけどね……」


「そんな経験が人生に必要だとは思わないよ。はい、これが今日の授業ノートのコピー」

「ありがとう。わざわざ起きて授業を聞いているより、紅葉ちゃんの授業ノートを読んだ方が分かりやすくて、効率よく点が取れるから助かるよ。それじゃあ、僕はもう行くね。これから仕事なんだ。今日は消火器を特別価格で売る予定さ。ちょうどいいことに、最近地震も起こったし、火事のニュースも流れた。防災意識が高まっているから、普段売れない高級消火器でも、きっと売れるだろう」


「そうか。私は自宅で勉強だ。いや、今日はよく晴れていたから、久しぶりに天体観測でもしようかな?母の友人が天文学者でね、時折家に訪問しては、楽しそうに天文学の素晴らしさについて語ってくれたよ」

「そうかい?僕は天文学は大嫌いだから、天体観測には絶対に誘わないでくれ。僕は夜空の星の数を数えたり、星座を勝手に作り上げたり、星の運行を計算したりするようなつまらない物事には関心を持てないんだ。僕の中の天文学は、天球に貼り付いた星々と月と太陽、まあ、要するに天動説のイメージで固定されている。それで生活に困ったこともない。かつて、人は『天の時計』あるいは『天の地図』として天文学を学ぼうとした。その当時はまだ、天文学は日常生活に根付いた学問として繁栄していた。しかし、今では『天の時計』より正確な時計があり、『天の地図』より有用な電子地図がある。もう人々は、時間や現在位置を知りたいときに、空を眺めたりしない。その代わりに、スマホを操作して、知りたい情報を速やかに知る。それが進歩というものさ」


 そう言い残して、信義は荷物をまとめ、立ち上がった。

「さようなら。今日も僕の話に付き合ってくれてありがとう。僕のつまらない話に耳を傾けてくれて、それに加えてコメントまで付け加えてくれるのは紅葉ちゃんだけだよ」

 そして、言葉を返せずにいた紅葉を無視するように、早足で信義は去っていった。


 一人取り残された紅葉は、再びカーテンを開けた。今日は新月の日で、月なき夜空に星々が煌めいていた。紅葉は一瞬星座をイメージしようとして、それを諦めた。紅葉は星々たちを、この天球に貼り付けられた星々たちをそのまま受け入れてみることにした。

(たまには、彼の見ている世界らしきものを体感してみるのも、悪くない経験だね)


 その日、紅葉は珍しく、楽しげに下手な口笛を吹きながら帰宅した。

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虚業少年と天才少女 冷泉 小鳥 @reisenkotori

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