バイクカバーに潜む者

@wirako

第1話

「ねえ、今日はもう帰ろ?」

 突然、後部座席に座る由美ゆみが、ヘルメット越しのくぐもった声でそんなことを言った。

「何言ってんだよ、さっき乗ったばっかりだろ」

 慧介けいすけは風を切る心地良い音を耳にしながら、バイクをさらに加速させた。

「そもそも、『暑いからバイクに乗って涼みたい~』って誘ってきたのは由美の方だろ」

 だから慧介は、言われた通りにバイクで由美の自宅まで迎えに行き、二人で東京の外れに伸びる深夜の国道を走っているのだ。


 由美は少しわがままな女だった。

 デートの約束をすれば三度に一度はドタキャンをし、電話は睡魔に襲われるほど長い。行きたいとせがまれた中華料理店に連れて行けば「やっぱりファミレスが良かった」と食べた後にぼやき出す。慧介にとっては面倒な恋人だった。

 それでも波長が合うのか、一緒にいると楽しい気分になる。しかも料理が得意で、新作の創作料理が出来上がると――慧介の予定は考慮せずにだが――真っ先に食べさせてくれる。美味しい、と褒めた時の由美は、まるで主人に頭を撫でられた子犬のようにとろけた表情をする。その瞬間がたまらなく愛おしい。日頃のわがままも許してやろうと思えてしまう。

 だが、慧介も今回ばかりは譲りたくなかった。せっかく買ったばかりの愛車に由美を乗せてデートしているのだから、まだまだこのツーリングを楽しみたかった。今夜の約束をした時、由美よりむしろ慧介の方が楽しみにしていたのだ。


 慧介がバイクに憧れるようになったきっかけは、仮面ライダーだった。

 当時小学生にも満たなかった慧介の子供心は、ライダーたちが必殺技で敵をばったばったと倒していくシーンに大きく魅了された。

 中でもライダーのカーチェイスに慧介は色めき立った。彼らの足となって、群がる敵をき倒し、逃げる敵をそのスピードで追いつめ、時には追っ手を華麗にくライダーバイクの姿は慧介の心に深く根付いた。

 それから慧介はトミカにもはまり出した。小遣いが貯まると四輪車には目もくれずに二輪車ばかりを購入し、エンジンの音を口真似しながら、勉強机の上を縦横無尽に走らせていた。それが中学生まで続いた。

 高校時代はサッカー部で忙しく、バイク熱は冷めかけていたのだが、偶然本屋で目にしたバイク専門雑誌に心のエンジンが再稼働し、この蒸し暑い大学一年の夏に、今までのバイト代をはたいて念願のオートバイを購入したのだった。

 風を受け流すフォルムは流麗かつスポーティで、カラーは高級感の漂うワインレッド。単気筒たんきとうからほとばしる重低音は、うなる度に周囲の空気のみならず慧介の魂をも熱く振動させる。その雄姿は、子供の頃から思い描いていた仮面ライダーのバイクを彷彿ほうふつとさせるものだった。


 そんなお気に入りの愛車に乗ってまだ二十分も経っていない。ようやく鬱陶うっとうしい熱気を振り切れそうだという時に由美が自分勝手を言うものだから、慧介はカチンときた。バイクにかける情熱は由美に対するそれにも負けていない。

 普段はこちらがわがままを聞いてやっているのだから、今日は俺に付き合ってくれ。そんなことを由美に伝えたのだが、由美の声色は否定的だった。

「あたしだってまだ降りたくないよ。汗引いてないし、それに慧介がバイク乗ってるとこ好きだもん。でも……」

「どうした?」

 数分前までは元気だったのに、今の由美の声には覇気がない。もしかしたら体調が悪くなったのかもしれないと、慧介は心配になった。

 ところが、由美は意外なことを言い出した。

「誰かに追いかけられてるような気がして……」

「何言ってんだよ。ここ走ってるの、俺たちだけじゃん」

 深夜というだけあって、辺りは不気味なほど静かだ。対向車はほとんど見かけないし、ミラーに目を向けても街灯が映っては遠ざかり、映っては遠ざかりを繰り返すだけ。人の気配を感じるのは、この国道沿いに店を構える飲食店くらいなものだ。

「もしかしたら、幽霊かも」

「はあ? 幽霊?」

 本人曰く、霊感があるらしい。近所のF駅に行くと線路からいやな視線を感じる、奇妙な人影に出くわす路地では昔殺人事件が起きていた……など、これまでにも慧介は由美の心霊体験を聞かされていた。だが、慧介にはそういった感性はこれっぽっちもなく、また信じてもいなかった。

「そんなもん、気のせいだろ」

「……ううん、気のせいじゃない。だって……うん、やっぱりさっきより近付いてきてる」

 慧介は再びミラーを見やった。今さっき通り過ぎた交差点から一台の黒い乗用車が現れたが、すぐにハンバーガー店のドライブスルーに入っていった。やはり怪しい影は見られない。

「なんもいねーじゃん」

「でも、なんかヤバイよ。だってあたし、霊感弱いんだよ?」

「は?」

 霊感が弱いからなんだというのか。慧介の頭上に疑問符が浮かんだ。

「霊感が弱いあたしがかなり気配を感じてるんだから、それくらいヤバイ奴なんだよ。だからお願い慧介、もう帰ろうよぉ」

 後半は涙声となっていた。

「仕方ねえなあ」

 こんな状態の由美を乗せて走っても楽しくはないと、しぶしぶ慧介は了承した。そのまま由美の自宅がある住宅街へ向かう。あと二キロメートルほど国道を走って、古本屋の広告看板を左に曲がればすぐだ。

「慧介、もっとスピード出して。追い付かれちゃうよ」

「心配すんな。幽霊が襲ってきても俺が突き放してやる」

 ぎゅっと腕を回して豊かな胸を押し付けてくる由美を背に、慧介はちょっと粋がった。そしてさらにアクセルをかける。

「……ダメ、来る。こっち来てる! 慧介、もっと急いで!」

「おい、無茶言うなよ」

 ただでさえ法定速度ギリギリで走行してるのに、と反論しかけたが、由美の切羽詰まった声に、自然と冷や汗が出ていた。

 もう一度ミラーを覗いてみる。結果は同じだ。それなのに、腕から伝わる由美の震えは一向に止まる気配がなく、彼女は何度も何度も後ろを振り返る。

 尋常じんじょうではない由美の怯えに慧介もまた、得も言われぬ不安に駆られ出した。

 その時、

「きゃっ!」

「うおっ!」

 急に由美の体重が後ろに傾き、彼女の腕が腹に絡んでいた慧介も同時に後ろへ引っ張られた。

「ば、バカ野郎! 危ねえだろ!」

「ち、違うの! ぐいって、今、誰かに服を掴まれたの!」

 ぞくりと慧介の背筋に悪寒が走った。由美がふざけてやったことではないのなら、自分たちの背後には本当に……。

 気付けば、慧介は法定速度を無視して直線を爆走していた。体の熱気はとっくに冷めていた。

 目にも止まらぬ速さで周囲の景色がはるか後方へ消えていく。なにもかもを引き離し、追い抜いていく。

 もうこれで大丈夫だろ……。

 ほっと一息ついた慧介はスピードを緩めた。

 その際、ミラーにちらりとなにかが映った気がした。




 曇天模様の翌日、由美は急に体調を崩して大学の講義を休んだ。放課後に慧介はバイクを飛ばしてお見舞いに行ったのだが、由美は会話をするのも億劫おっくうなほどひどい具合らしく、コンビニで買ったプリンやヨーグルトを玄関先で手渡した途端、すぐさま門前払いされた。

 由美によると、どうやら霊のさわりだと言う。慧介は半信半疑だったが、帰り際にくどいくらい、バイクの運転は気を付けて、と念を押された。

 そのせいで帰りはやたらと背後を気にしてしまい、危うくトラックと衝突しそうになった。

 これも幽霊の仕業なのか……?

 首を振って慧介は否定した。偶然だ。よそ見をしていたのだから、轢かれそうになってもおかしな話ではない。

 自宅マンションに戻ってきた慧介は自転車兼バイク用駐輪場に愛車を停め、小走りでエントランスホールに向かった。


 慧介は自分の部屋から見える景色が嫌いだった。

 東京の外れにひっそりとたたずむ十階建てマンションの303号室。その南側に慧介の部屋があるのだが、ベランダから見えるのはすぐ下の駐輪場と金網の向こう側に建つ一軒家の並びだけ。なんの面白味もないどころか、対面する一軒家からこちらの室内が丸見えで落ち着かないことこの上ない。

 しかし、最近は……愛車を買ってからは、この景色も悪くないと思いはじめていた。

 なぜなら、ベランダを出ればすぐ真下に自分のバイクが見えるからだ。もちろん雨よけ風よけのためにバイクカバーはかけてあるため、洗練されたフォルムも、美しく映える赤色もまったく見えないのだが、それでも「そこに俺のバイクがある」というだけで慧介は興奮してしまう。頬ずりしたい衝動に駆られてしまうのだ。

 そんな訳で、今日も慧介は就寝前に愛車の姿を一目見ておこうと、ベランダの鍵に手を伸ばした。

「お、雨か」

 今日の深夜から明日の朝方まで強風を伴った雨が降る、とテレビで予報されていたのを慧介は思い出した。窓外を見ると、深夜も風も雨も的中している。

 バイクカバーはちゃんとかけたよな?

 記憶が確かなら、タイヤもあますことなくバイクカバーに包んだはずだ。さらに、バイクカバーに備わっているストッパーも忘れずにかけた。だが、もし不手際があったらせっかくの高い買い物が、新品の愛車が汚れてしまう。

 慧介は慌ててベランダに出て、濡れるのも構わず首を外に出した。

 良かった、ちゃんとカバーかけてあるじゃん。

 駐輪場灯の白い光によってほのかに照らされた愛車には、しっかりとグレーのバイクカバーがかけてあった。慧介はほっと胸を撫で下ろす。

 でも、バイクの方にも屋根とか灯りも欲しいよなあ。

 慧介から見てマンションの駐輪場は、左側と奥側が金網、手前側はマンションによって「コ」の字の左右反転の形に囲まれており、出入り口はマンションのエントランスホールに近い右側にある。

 その敷地の中で、自転車置き場は全体の左側にあり、真上にはトタン屋根が設置されていて、雨よけの役割を果たしてくれる。

 一方バイク置き場は自転車置き場のすぐそばにあるのだが、屋根がなく、駐輪場灯も自転車置き場の側にしかないので、夜は足元が心もとない。実際、自分の工具入れを蹴っ飛ばしてしまうことも二、三度あった。

 管理費とかでどうにかなんねえかなあ。

 心中でぼやきながら、慧介は雨風に耐える愛車の健気な姿を見守っていた。

 ん……?

 慧介はかすかな違和感を覚えた。駐輪場には慧介のバイクの右隣に黒いバイクカバーのかかったバイクが一台停められているのだが、見比べると奇妙さが一層浮き立つ。

 変な動き方してないか?

 黒いバイクカバーの方は強風にあおられ、右から左へと波打つようにはためいている。

 だが、慧介のバイクカバーは風向きと関係ない方へも、もこもことしわができていて明らかに不自然だった。まるで、バイクカバーの中でなにかが動き回っているかのように見える。

 もしかして、車上荒らしか!

 三日前から東京都内で車上荒らしが多発していると、つい数分前に見たニュース番組で言っていたのを慧介は思い出した。奴らは車とカバーの間に潜り込み、姿を隠しつつ犯行に及ぶこともあるらしい。

 深夜、強風、雨。こんな時にわざわざ駐輪場を気にする物好きはいないだろう。だからこそ車上荒らしはこのマンションの敷地に足を踏み入れ、今まさに犯行に手を染めているのではないだろうか。いや、そうに違いない。

 ふざけやがって!

 慧介は怒鳴り付けてやろうと口を開いたが、すんでのところで思い直した。

 俺がとっ捕まえてやる!

 今叫べばこれ以上薄汚い手で愛車を汚されてしまうのは防げる。だが逃げられてしまったら、この途方もない激昂げっこうをどこに発散させれば良いのか。

 はらわたが煮えくり返るのを懸命にこらえ、慧介はそっとベランダから室内に戻り、窓を閉めた。すぐさま弾かれたように駆け出し、玄関で金属バットを手にしてドアを乱暴に開け放つ。護身用に、と母が三年前に買って以来、ほこりを被ったままだったバットを使う日が来るとは思いもしなかった。

 寝間着のまま二段飛ばしで階段を降り、あっという間に一階に辿り着いた。廊下を走り、エントランスホールから出て駐輪場に向かう。

 ここまでの道のりで怪しい人影や不審な物音はなかった。車上荒らしはまだ駐輪場にいるはずだ。

 雨と風を気にも留めずに、慧介はマンションの陰から駐輪場を覗き込んだ。

 ……いた。

 ベランダで見た時よりもくっきりと、バイクカバーの不自然な動きが伝わってくる。車上荒らしは確かにそこにいる。

 慧介はバットを握り直し、そろり、そろりと近付いた。

 バサバサ、ガサガサ……

 不規則に動くバイクカバーのこすれる音が響き渡り、その動きに応じて、雨風の音も息づくように変化する。駐輪場灯の光が逆光となっているのも相まって、なんとも気味が悪い。

 こ、こ、この野郎……!

 今の今までは勇み足でやってきたというのに、肝心の仇敵きゅうてきを前にして、慧介は腰が引けてしまった。いかんせん、慧介は殴り合いの喧嘩けんかさえしたことがなく、このような事態もはじめての経験だった。

 それでも、好き放題にされている愛車を見ているうちに、慧介の心に沸々とたぎる怒りが再燃してきた。

「お、おいてめえ!」

 声は上ずってしまったが、声量は申し分なかった。

「俺のバイクに手ぇ出しやがって。調子に乗んなよ!」

 バイクカバーの裏に潜む車上荒らしの動きが止まった。ヘッドライト、エンジン、リアタイヤ……様々な部位の辺りが内側から盛り上がっているが、一体どのような姿勢で隠れているのだろうか。慧介には想像すら出来なかった。

「おい、今すぐ出てこい。そしたらバットで殴るのだけは勘弁してやる」

 本当は人をバットで殴るなんて勇気はなく、単に脅し目的で持ってきたに過ぎないのだが、もちろんそのことは伏せておいた。ただ、相手が誰であろうが思い切り拳で殴ってやらないと気が済みそうにない。

「早くしろ。怪我してえのか?」

 コン、コン、コンと金属バットでアスファルトを強めに叩いた。

 ここまで脅せば素直に出てくるだろ。

 慧介は緊張しながらも、外に出てくる車上荒らしを今か今かと待ち構えた。

 だが、慧介の予想は大きく外れた。ぺたぺたぺたぺた……と車体に脂ぎった肌が張りつく時に発するような不快音と共に、今まで以上にバイクカバー全体がわしゃわしゃとうごめき出したのだ。

「うわわっ!」

 激しさを増す反応に慧介は仰天した。しかしパニックに陥る脳裏で、ある一つの可能性に思い当たった。

 車上荒らしは一人じゃない……?

 たとえ体格の良い大人が潜んでいるのだとしても、バイクカバー全体を……前部も後部も側面も、あらゆる場所にまんべんなく体を滑り込ませ、輪郭をぼこぼこと変化させるのは不可能だろう。ならば、前部に一人、後部にもう一人潜んでいると考えられるのではないか。二人程度なら中にも入れるのかもしれない。

 いや、違う……。

 逆光で分かりづらいが、よく見ると不自然に形が変化した部分には小さな突起がたくさん浮いている。

 指だ……。

 数多の手、手、手。二人の人間では到底足りない分のそれらが激しく動き回り、何度も指でバイクカバーを押しやっているのだ。

 まるで不定形の生物が激しく身悶みもだえているかのような光景に、慧介は吐き気を覚えた。

 なんだよ、なんなんだよこれ!

 ぞくっと慧介の肌が一斉に粟立った。

 幽霊……。

 由美の言葉が脳内に駆け巡った。

 幽霊。かなりヤバイ奴。追い付かれる。霊の障り。

 怖気付いた慧介は後ずさった。これ以上関わるのはまずい。今すぐ逃げた方が――

 慧介が背を向けかけたその時、風でめくれたバイクカバーの下から、愛車のリアタイヤが目に留まった。

 慧介の胸に愛車との思い出が去来した。

 手に入れた時の達成感。由美に褒めてもらった時の満足感。はじめて道路を走った時の高揚感。そして毎日が輝いて見える充実感。

 まだまだ短い付き合いだが、バイクからはたくさんの幸福をもらった。慧介にとっては既に、かけがえのないパートナーなのだ。

 俺の、俺のバイクに好き勝手しやがって……!

 身の毛もよだつ恐怖より、大切なパートナーを蹂躙じゅうりんされていることへの怒りが勝った。

「俺のバイクを返しやがれ――!」

 慧介はバットを背中まで振り上げ、力の限り怨敵おんてきに打ち付けた。同時に、バイクカバーがまとっていた雨粒が音を立てて弾けた。

 次の瞬間、慧介はとっさにバットから手を離していた。

 これまでの人生で味わったことのない、気味が悪いほど柔らかな、それでいて身がぎっしり詰まっているものを叩いたような感覚が両手に残ったのだ。慧介はいても立ってもいられなくなり、無我夢中でてのひらをかきむしった。

 が、足元に映る影を見て、首を上げた慧介の身は凍り付いた。

 バイクカバーが、突起まみれの奇怪なオブジェのごとく静止していたのだ。

 慧介は声が出せなかった。おびただしい数の羽虫がっているのかと錯覚するくらい掌がむずがゆいのに、指の一本も動かせない。雨音と風音だけが空虚に鳴り響く中、慧介もまた恐怖で塗り固められたオブジェとなっていた。

 ざりっ

 なにかがこすれる音がした。

 ざりざりざりっ

 バイクカバーから聞こえる。

 ひっ、と慧介は息を呑んだ。バイクカバーの突起が、上下に、左右に、小刻みに震えている。内部からバイクカバーを突き破ろうとしているのだと慧介は瞬間的に悟った。

 ざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりっ――

 段々とその震えが、かきむしりが大きくなり、ついに、

 びりっ

 座席の付近に、小さな暗黒の裂け目が生まれた。

 慧介の目はそこに釘付けとなった。この後なにが起きるのか、相手は何者なのか、自分はどうなってしまうのか。硬直する体に反比例して、思考は赤信号を灯らせながら急速に回転していた。

 びりびりびりっ

 裂け目が縦に開いた。駐輪場灯が満足に届かないこの場所でも、その光景をわずかながら視認できた。そして、裂け目を広げたのは、輪郭だけが辛うじて判別できる、三本の細い――指。

 びりびりびりっ びりびりびりっ びりびりびりっ

 エンジン、リアタイヤ、フロントタイヤの辺りからも絶望の音色が奏でられ、慧介の両耳を支配した。

 たった今開けられた三ヶ所の穴からも、闇に紛れて、線虫を思わせる細い指がうじゃうじゃと這い出てきた。

 突然、慧介の視界が下降した。腰が抜けてアスファルトに座り込んでしまったのだ。足にも力が入らない。呼吸が苦しい。息が上手く吸えない。

 最初に開いた座席の裂け目が瘤状こぶじょうに盛り上がった。そのままバイクカバーを突き破って産まれ出でたのは、暗黒の影をまとった、細い腕。

 腕はなにかを求めているらしく、しきりに虚空を掴んでは放している。

 俺を狙ってるんだ……!

 あの腕は先刻の恨みを晴らそうと、自分を捕らえようとしているに違いない。慧介は直感した。

 びりびりびりっ びりびりびりっ

 リアタイヤとフロントタイヤ側の裂け目からも腕が飛び出した。最初の腕と同様に、慧介を探し求めてアスファルトを執拗しつようにまさぐっている。

 びりびりびりっ びりびりびりっ

 またバイクカバーが引き裂かれる二つの音と、なにかがアスファルトに触れる音。今度は慧介の死角から二本の腕が出現したようだ。

 逃げないと、逃げないと……!

 なるべく音を立てずに、慧介は座り込んだまま後ろに下がる。相手はこちらの居場所に気付いていない様子だ。つまり、今が絶好のチャンス。

 ずりっ……

 慧介が後ろに下がる。

 ずりっ……

 また下がる。

 ずりっ……ずりっ……

 背後を確認する。もうすぐ駐輪場を抜けられる。

 ずりっ……ずりっ……ずりっ……ずりっ……

 あと少し、もう少し。

 びりっ

 エンジン付近の裂け目が広がった。

 そこから見えたのは――目玉。

 暗がりなのに、はっきりと、一つの眼球が、そこにあった。

 見られた。居場所を知られた。それはすなわち――

 黒い腕の輪郭がこちらを向いた。そして、ゆっくり、まっすぐ、確実に慧介へと伸びてきた。

 伸びる。伸びる。伸びる。

 座席の裂け目から産まれた腕は空中を辿って。タイヤの裂け目から生えた腕は地を這って。死角の裂け目から生じた腕はバイクの下を潜り抜けて。

 ああ、これは夢だ。夢なんだ。

 あまりの異様さに、異常さに、恐ろしさに、慧介は体だけでなく思考も止めてしまった。

 座席からの腕がすぐそこまで迫っている。それを諦念の表情で慧介は眺めていた。

 だが地を這う腕が、さっき放り投げたバットをかすめ、カランと高い音が響くのを合図に、慧介は一気に現実へと引き戻された。

「うわあああああ!」

 脱兎だっとのごとく慧介は走り出し、駐輪場からの脱出に成功した。

 愛車のことなど考える余裕もなかった。




 数日後、慧介は愛車を売却した。

 車体全体に付いた無数の指紋と、ずたずたに引き裂かれたバイクカバーを見て引き取り業者は顔をしかめたが、見た目を良くして売却価格を少しでも上げよう、などとは考えなかった。もう車体に触るのもごめんだった。


 一ヶ月後、すっかり回復した由美との水族館デートの帰りに、バイクとトラックの衝突事故を目撃した。

 バイクに乗っていた男はトラックに衝突する直前、非常に不可解な運転をしていた。それはまるで、誰かに衣服を掴まれ、必死に抵抗しているように映った。

 トラックに弾き飛ばされたバイクはアスファルトを滑り、慧介のすぐそばで止まった。

 由美は悲鳴を上げて飛び退すさったが、見覚えのある車体に慧介は茫然ぼうぜんと立ち尽くすことしかできなかった。

 コバルトブルーで上塗りされた車体の表面から、じわりと指のあとにじんだ。

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