透明な結び目
時野マモ
第1話 異星1
濃い霧に包まれた大地に風が吹き、その白く厚いベールもしだいに開かれて、見渡す限りの緩やかな丘の続く景色が次第に見え始めるならば、僕の心からも同じように白く厚い何物かが消えて行き、隠れていた太陽が現れて照らす草原の、麗らかさの中、——風が薫る。
季節は初夏の頃のようであった。日に照らされれば少し暑いが、爽やかな風が吹き、ちょうど良い涼しさ、気持ちよい気候。そんな季節に僕は包まれ、何処まで広がる草原に立っていた。
草原は風に揺れた。波打ち、更に、光りを浴びて輝いた。美しく何処までも広がる、大地には、花が舞った。あちらこちらで咲き乱れる花が、風にのり、飛び、舞い踊った。
色彩が舞った。それは、色の作る世界。白い霧の中から現れる光彩だった。
大地は、世界は、今、色であり、それを勿体ぶるかのように隠しているベールは今にも完全に剥がされようとしていた。
風が幕を開けるのだった。この草原の、天国のような光景が僕の目の前に現れるのだった。
僕は、それに見蕩れ、そのまましばらくぼうっとしてしまっていた。輝く緑、花の赤、鮮やかな色彩の中に埋まると、捕らえ所の無い不思議な感覚が、自分の中に満ちあふれるのだった。心の中にモクモクと様々な色が涌き出して、それらは混ざり合い、複雑な模様を作るのだった。それらは、言葉にすると壊れてしまいそうなくらい、脆弱だがとても大切な意思。
僕は、心の奥遠くにある、小さく微かに見えるだけそれを、その曖昧にしか捕らえられない意思を、何とかして心の表面に引き上げようと、奥底へ、心の奥底へと懸命に手を伸ばすのだが、思いは、その淡い色調は、手を伸ばせば伸ばす程、まるで逃げているかのように、暗い暗い無意識の大海の中へと沈んで行くのだった。
届かない思い。それはとても大切なこと、つかむのを諦めては行けないもののようには思えたのだけれど、何度も繰り返し、手を伸ばし、その内に、何秒か、何年か、何万年か、どれくらいそうやっていたのかは定かではないが、自分がなぜこんな事をしようと思っているのかも定かではなくなるような、瞬間であり永久でもあるような時が流れた後……
僕は忘れるのだった。手を伸ばすのを止めるのであった。自分がしようと思っていた事を。その意味を。思いを。——少し強い風が吹き、その冷たい清涼な感覚にハッと我に返るなら、瞬く間に、世界の果てまでも飛び去ってしまうのだった。
そう、言うならば、思えば、激しい恋心のような、ときめく感情が、何処かへと、霧とともに、風にのって飛んで行き……
ならば——僕は形を得るのだった。
色の世界の中に輪郭を得て、形を受胎するのだった。
僕は、この世界へ、今、現れる、——在った。
そして、目の前を見るのだった。緑の草原が、光る。青い空が澄み渡り、高い。
僕は、この景色に、止めども無く溢れる崇高な気持ちを抑えきれずに、ドキドキとするのだった。次第に落ち着き、段々とはっきりして行く意識の中で、霧が完全に晴れるにつれて、それに合わせるかのように、次第に、更にはっきりと見えて来る世界に魅了されていくのだった。
美しく、豊穣にあふれ、包み込むように僕を受け入れてくれる世界。優しく、静やかな世界を見るのだった。
僕の意識は、しだいに、この世界をしっかりと捉え、認識して、ますますそれに惹かれて行き始めていたのだった。
そして……
——僕は目の前にあるものに気付くのだった。
それは、巨人であった。丘の上に横たわっている人形の生物の巨体であった。全く身動きもせずに横たわる巨体であった。それは、草に囲まれて埃をかぶり、周りに同化していて、一瞬、まるで景色の一部ででもあるかのように見えるのだが、——それは間違いなく巨人であった。岩や何かの形と見間違えたのではない。僕は、確かめるため近づき、その腕に触れば、——ほのかに暖かい。
押し付けた手のひらには、血液の流れる微かな振動も感じられた。微かに膨らみ、上下する胸元。吹く風とは微かに違うリズムで揺れる産毛。耳をすまして良く聴けば、ひどく長く小さな呼吸の音。自律して動く生命がそこにあるのだった。
その姿は、こんな大きな人間がいるわけが無いと言う点を除けば、人間そのものであった。まるで全ての人間を混ぜ合わせ平均化したかのような、特徴もない容貌であった。しかしあまりに巨大なその身体はただの人間であるわけはなかった。その体はあまりにも大きく、圧倒される。その大きさは? あれ……どれくらいだろう?
僕は、巨人の大きさを推し量ろうと少し後ずさって、不思議に思った。——妙な、めまいのような感覚に捉えられた。
巨人はとてつもなく大きい事は直ぐに分かるのだが、この巨人の大きさを、測ろうと、その姿を目の中に収めようとすると、巨人は、いきなり、どこまでも大きくなって測れない、——見当がつけれないのだった。
どのくらいの大きさなのだろう? あえてそんな事を思わなければ、巨人は僕の目の前に、圧倒的な量感をもってただそこに在るだけであった。なんとなく、象なのか、クジラなのかそういった巨大動物達を目にしたときのような大きさであった。巨大で圧倒されるが、少し後ろに下がったなら、十分に視界に収まるのだろうと思う。だが、いざ、その大きさを知ろうと思うと、その瞬間、大きさは果てしなくなってしまうのだった。僕が後ろに下がれば、下がるだけ巨人は大きくなってしまうのだった。
不条理な、不可思議な話であった。しかし、同時に、何故か、なんとなく、そんなものなのかとも思った。巨人はそんなもの、ここはそんな場所なのかと思った。そう思えば何も問題がなかった。
そうなるべくして、そうなっている。在り得るべくして在る。ひたすらに循環する肯定を僕はいつまでも続ける事ができた。なので僕はそうした。いつまでも言葉を繰り返した。飽きもせず。繰り返し、すると、それは実に面白かった。心地良く、達成感のある行為だった。だから、僕の顔には思わず微笑が浮かんでしまうのだった。
そのうちに、止めなくては行けないと言うのは分かっていた。この同語反復は、全くもって、正しい、確実な感覚を僕に与えてくれたけれど。ひたすらに繰り返し、何処にも進まない。これは、どこかで止めるべきであった。でも、僕には、そのきっかけがつかめないで、ずっとそうやって言葉を繰り返す。いったいつまでそうやっていたのか分からないくらい、繰り返していたのだが……。
しかし——。
影であった。
それがきっかけであった。
巨人の横に、高い白い石造りの塔が聳えたっていた。細く、輝き、空の明るさに紛れて僕はそれに気付かなかったのだけれど、太陽が裏側に回り、影となり、その下になった事で、僕はその存在に気付いたのだった。
それはこの調和の中に、捕らえ所無く広がる草原の光景の中にアクセントを与えていた。それを、その塔を見ていると、世界はそれにより二つに分けられているように思えたのだった。空が、大地が、右と左に分かれていたのだった。
それが、なにもかもが一つで、完全と思えたこの世界に、それは不穏な視点を与えていた。それは世界を二つに分けた。すると、二つの世界は拮抗しながらも、どちらかに倒れ込み、流れ込みそうな不安定さを持ってしまっていた。
そうなったならば、——あっという間だった。僕は同語反復を越える感情を得た。満足が繰り返しだけでは満足ができなくなった。すると、直ぐに、いても立ってもいられなくなった。ただぼおっとここで立っている事を、あっという間に、あまりに退屈に思い始めてしまっていたのだった。
なので、僕は歩き出した。ここは何処なのか、そう言えば、そもそも、自分が何物かも分からなかった。でも不安はなかった。何か、大きな、安心ができる、調和のようなもの、自分も分かち合い難く結びついている全体を感じていた。自分が動く事がそれを作り出すよう不思議な確信があった。僕は、その確信を胸に、僕は自信満々に野を歩き出した。
何処か決まった方向へと向かうつもりでは無かった。何か目的を持って回りを探検してみようとか思っているわけではなかった。動かなければ始まらない。その衝動により動き始めただけであった。でも、動き始めれば、その意味は分かった。この完全な調和が満ちる世界では、僕が動き出さなければ、何もかもが、究極の平衡に達している。なので歩き出さなければならない。作り出さなければならない。僕の内なる声がそう伝えていた。
僕が歩き出すにつれて、僕が見るにつれて、何かが動き出しているような気がした。何かが始まるような気がした。何かが動きだし、現れるような気がした。それが、僕が乱した世界の結果であった。それが、何故か、絶対の確信を持って、確実に起きるような気がした。
僕は何か世界の創造に立ち会っているのだった。心の奥から、そんな声が聞こえた。それは神託のようであった。論理も、理屈も、無いが、その示すところは絶対であった。不思議であった。その誇大妄想のような、奇妙な確信は、歩けば歩く程に確かに感じられる。
そして……。
気付けば僕のまわりには、美しい人々が歩いていた。人々は、まるで妖精か何かのように儚げで、か細く、優しげな表情で、楽しそうに歩いていた。僕は世界を得た。その原初の人々がそこにいた。そんな気がした。原初の罪を持たぬ、純朴な人々がそこにいた。それを、また、僕は心の声で知る。逆らいようもなく、反論もできない宣言が僕になされる。
声は、更に、その人々の中に入るようにと僕に即す。それは、言われなくても、僕の方からやってみたい事であったが、楽しげに集団で回り、踊る、その輪の中にズカズカとは言って行く事は躊躇されたのだが……。
それは余計な心配だった。人々は、僕を見つけると、踊りを止め、満面の笑みで、近づいて来た。
そして、僕の方も、見も知らぬ集団が近づいて来ると言うのに、それは全く不安にはならなかった。この世界へ感じる印象と、この人達に感じる印象は、全く同じ。穏やかな、静やかな、物腰。この人達に対して、僕は全く危険も、不安も感じなかった。
それはやはり、直感的なものであったが、ゆえに絶対的なものであった。なので僕はそれを信じた。僕はこの人達を一目見て、信用した。好意をもったのだった。それが、相手にも伝わったのか、僕が彼らを受け入れる気持ちになっている事が分かったのか、人々は近づくと、口々に、僕に向かって何か話しかけて来た。言葉の意味は分からない、しかし僕を歓迎しているだろう雰囲気は伝わって来た。
人々は僕に、一緒に来るように誘っているように見えた。指差して、自分達の向かう方向をさして、手招きして来た。
もちろん、僕に断る理由はなかった。人々の指差す方、それはあの巨人の横たわる丘、その横に聳える、細く高い石造りの塔を目指して、僕は、人々と一緒に、いつの間にか夕暮れとなった真っ赤な空の下、草原を歩き出したのだった。
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