長編・ホームセンター物語

鳥辺野九

プロローグ


 工具売り場はホームセンターの花形だ。


 銀色に輝くそれは、まるで今にも樹から落ちんばかりに熟れた果実のようで、そうっと樹を揺すれば鈴生りの銀色の果実がしゃらんしゃらんと澄んだ音を奏でそうだ。


 一人の男がその樹の前で足を止めた。ソケットレンチのコマと呼ばれるソケット群が男を迎える。男は商品棚を埋め尽くす大小様々なソケットのうち手近な一個を摘まみ取った。


 一点の曇りもない鏡面仕上げの小さなソケットに、苔むしたように無精髭が生えた男の顔が写り込む。また、用もないのにここに来てしまった。深いしわが刻まれた顔もついほころんでしまう。


 鏡面加工が施された工具はとにかく美しい。それも金属特有のソリッドな表面が見せる整った美とは異なり、どこか完熟した果実が持つ瑞々しい曲面美に似ている。とても透き通った湖面に口を寄せて思わずつるりと飲み込んでしまいそうな、華やかな甘い香りがする液体のように美しい。


『いらっしゃいませ。お客様はソケット、コマをお探しでしたか?』


「うわっ、びっくりした」


 男はびくっと身体を震わせて振り返った。いつの間にか、そこには一体のロボットが立っていた。


「やあ、君か。見つかっちゃったか」


 接客応対ロボットは小首を傾げる仕草を見せた。全高120センチメートルの淡いグリーンのボディで、脚部が大きな球体となっている。ちょうど少女がバランスボールに正座しているようなデザインだ。球体内部機構の回転によるジャイロ効果で器用にバランスを保ちながら自律走行して、ターゲット捕捉したお客様を追いかける仕様となっている。男もよくバランスボール少女に追いかけられたものだ。


『そちらのソケットは統一規格の物となっておりまして、どちらのメーカーのレンチにも適合します』


 バランスボール少女ロボットは男が持つソケットを指差すようにして、きりきりと手首をラチェットレンチのように回しながら言った。


「うん、知ってるよ。ソケットレンチコーナーは近くを通った時いつも見に来るんだ。いつ見ても美しいね」


『ありがとうございます。レンチ繋がりでメガネレンチ売り場も幾何学模様展示に自信がありますよ。ご案内いたしましょうか?』


「幾何学模様展示? それは興味あるな」


『でしょう? こちらです』


 男はバランスボール少女ロボットから一歩離れるようにして周囲を見回した。


 目の前にそびえる壁のような商品棚に、足元から頭上までびっしりと銀色に輝くソケットが大きさ順に陳列されている。鏡面仕上げのソケット群で埋め尽くされた壁。それだけでも美しく装飾された鏡のようなものなのに、それが右隣の商品棚も、左側の商品棚にもきっちりと等間隔で並んでいた。きらきらと美しい銀色の果実だらけだ。この一角すべてがソケットレンチのソケットを売っていた。


 少女の形をした接客応対ロボットは玉乗りの要領でボール状の脚部をころころと転がして通路を先に進む。


『メガネレンチ売り場は4ブロック先、80メートルほど歩いたエリアになります』


 男の目の届く範囲にはこの接客応対ロボット以外にロボットの姿はない。配線が剥き出しになった高い天井を見上げても店内監視ドローン、在庫管理ドローンなど飛行型ロボットもいない。先を行くこの接客応対ロボットと二人きりだ。


 あまり長くこの子と接触しているのはよくないな。男はもう一歩ロボットから遠ざかって思った。対話ログを残してしまうのも得策ではない。


『さあ、お客様。メガネレンチ売り場へ行きま……』


 バランスボールをくるりと回して少女型ロボットが振り返ると、そこにいるはずのお客様の姿はなかった。つい数秒前まで一緒にいたはずの男の姿は掻き消えていた。


 ポニーテールの髪型をした頭部を左右へ回して状況確認しても周囲に人の姿はない。接客応対ロボットはお客様の存在を完全にロストしてしまった。


 すぐさまマルチタスク処理の同期範囲にいた他の接客応対ロボットを招集し、オンラインで視覚情報を統合させる。半径100メートルに及ぶサーチ範囲を画像検索しても先程の男の姿は見られなかった。それどころか周囲200メートル範囲に誰一人として人間の姿はなかった。このエリアにはロボットしかいない。あのお客様は時間軸にして三十秒前にロボットの索敵範囲から完全に姿を消し去ってしまった。


 ポニーテールのバランスボール少女ロボットは三十五秒前まで男がいたソケットの商品棚の前までボールを転がした。


 見れば、商品棚の10ミリソケットの陳列が一個分空いていた。お客様はロストしてしまったが、無事に商品は売れたようだ。即座に在庫管理ドローンを呼んで商品の補充をしなければならない。


 四十秒後、ロボットは通常業務を優先させて、男の行方を探る事を放棄した。次のお客様を求めて店内の巡廻だ。


 するすると音も立てずにボールを転がし、接客応対ロボットはその場を立ち去った。


 そして、ソケットの商品棚がかすかに揺れてしゃらんと澄んだ音を奏でた。

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