第2話 初夜
かの陛下がまだイプティオスの御名を継がれる前は、王の17人のご子息のうちの一人として、ナバル王子の名で呼ばれ、金色の都プージャータムの南のお屋敷に住まわれていたことは、広く誰もが知る所でございます。
それは王子が成人する前の年のことだったと聞いております。
その夏は例年にないほど暑く、王子は日々ご友人をお屋敷に呼ばれては、酒を酌み交わし、管楽を掻き鳴らし、歌を歌い、詩を吟じて、眠れぬ夜を楽しい宴に変えて過ごしておりました。
されど連日の宴にもいよいよ飽きがやって参ります。秋はまだ遠く、苛立つような暑さが続くとある日の夕刻、王子は宦官の一人にお命じなさいました。
「今宵はお前が奴隷女から誰か一人特に麗しい娘を選び、晩には我が寝所に参じて伽をするよう申しつけよ」
王子も男子にしてその最も壮健なる頃合いでしたので、日頃の鬱憤をどこかにぶつければ気も晴れるとお考えになられたのでした。また、敢えてご自身でお相手を選ばぬことで、その期待も沈む日とは裏腹に次第に高まり、燃え盛ってゆくのでした。
ところが晩になって、王子がご寝所に入られますと、床の傍らには一人の幼子が竪琴を抱えて控えておりました。齢十にも満たぬであろうその娘は、王子がやって参りますと平伏し、面を上げません。
妙齢の美女が控えているとばかり思っておられました王子は大変驚かれ、すぐさま宦官を呼び付け、問われました。
「お前は世の夜伽相手に、かような幼子を選ぶのか?」
と。宦官もこれに驚き、答えました。
「いいえ、御主に誓って違いまする。私が選びましたるは、”黒曜”の呼び名を持ちます、それはそれは艶やかな黒肌と機知に富んだ巧みな話術を具えた娘にございます。かような娘は、私は存じませぬ」
「ならば早う、その娘を連れて参れ」
王子は事の運びの悪し様に幾分気落ちなされながら、宦官に命じました。この時になってようやく、娘が声を上げました。
「恐れながら申し上げます、王子殿下。我が姉、黒曜のは此度の拝命、心より光栄に思っております。そのことは天神地祇に誓って間違いございません。されど折悪しく、姉は連日の酷暑に弱り果て、今はお役目を果たすことも叶いませぬ。されば妹である私めが、代わりにお役目を果たさんと、こうして参った次第にございます」
これを聞いて王子は事の次第に得心されましたが、かと言って幼子と閨を共にする訳にもまいりません。
「あい、分かった。されど今宵の務めはお前には務まらぬ。お前はとくと下がって、誰か別の者を呼べ」
王子はそう命じられましたが、娘は下がりません。
「恐れながら王子殿下、どうかそのお役目はこの私めに下さりますように」
幼さゆえか、頑なな娘に、王子は言葉を柔らかくしてこう申されました。
「黒曜のが今宵の伽を出来ぬのは致し方あるまい。ましてやお前にはその荷は重く、負わせることは出来ぬ。いずれにしてもそれはお前たち姉妹が責を負うべき咎ではあるまい。さりとてわざわざその役を欲すとあらば、相応の理由があろう。その訳を話してみせよ」
娘は改めて王子を仰ぎ、その理由を語りました。
「あぁ、聡明なる王子殿下。殿下の仰せの通り、信賞必罰は偉大なる御主の法典にも記されてございます。なればこそ、私は今宵のお役目を賜らずにはいられないのです。
我らが姉妹は3年前より殿下にお仕えしておりますが、大変よくして頂いております。私めなども水汲みに洗濯と、出来ることは限られておりますが、餓えることもなく、また、鞭打たれることもなく、心安くお仕えさせて頂いております。このように平安に暮らせることに姉妹共々、偉大なる御主と王子殿下には日々感謝を捧げております。この度、姉が倒れ伏した折には、滋養のある物をと、特別に肝入りの粥まで賜りました。何故、このご恩に報いずにいられましょうか」
「奴隷人足も全て等しく我が財産である。それを雑に扱い、徒に擦り減らすは、愚の骨頂なり。なればお前に背負えぬ荷を背負わすことも、利に合わぬ」
「然り。されどこの度のように、働きもないうちから恩を賜るのも理に適いませぬ。これをよしとすれば、秩序は綻び、やがては道理も破れるでしょう。それを免れるには、今からでもそれに見合う働きが必要かと存じます」
それを聞いた王子は、それももっともであるとして、宦官に二つ三つ、必要なことを申し付けて下がらせました。
然る後に、娘に向かってこう、問われました。
「ところでお前は今宵の務め、何を為すか知っておるのか?」
それといいますのも、王子はとうにそのようなことを致す気は失せて、王子のご子息もすっかりと萎えておられたからでございます。
「暑さと退屈を紛らせて、殿下の眠れぬ夜をお慰めすることと、心得ております」
と、娘が答えるのをお聞きになると、王子はお腹を抱えて大層お笑いになられました。ひとしきりお笑いになられました後で、王子はまたお訊ねになりました。
「して、その為にお前には何が出来るというのか?」
「はい。竪琴が弾けましてございます」
「ではそれを聞かせてみよ」
そこで娘は背筋を伸ばし、竪琴を構えると、その低きから高きまでを一息に掻き鳴らして、曲を奏で始めました。
されど、娘の琴線を爪弾く手は小さく、幼き身なれば技も拙く、調はいとたどたどしく、とても聞くに堪えるものではございません。
始めのうちは王子も耳を傾けておられましたが、終には耐えかねて手を打ってこれを止めさせました。それから娘を手元に召しまして、その竪琴を取り上げました。
「これはとても聞くに堪えられぬ。一体誰に習ったのか?」
と、王子がお訊ねになりますと、娘は、
「いいえ、誰にも習ってはおりません。ただ、時折姉が奏でておりましたのを見て、聞いて、覚えました」
と、答えました。
御前で見様見真似の竪琴を「弾ける」と言って憚らない娘の不敵さに王子は苦笑されました。されどまた、娘は誰にも教わらずして竪琴を奏でてみせるのですから、その才は十分にあるだろうと、心の内で感心もなさるのでした。
そのようでございましたので、王子は娘をそのお膝の上に乗せ、娘ごと竪琴を抱えますと、手ずからお手本を示されたのでした。
その晩は随分と遅くまで琴の音が絶えずあったと言います。時折滞ることもあれど調べは清く、聴く者の心を安くし、夜のしじまさえもが眠りに就いたかの如くあったそうでございます。
さて、我が君よ。その蕩ける乳酪の如き眼もいと愛しゅうございますが、どうぞご無理はなさらぬように。
折しも話の区切りも良い所。続きはまた次の晩に……
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