8.森の守人
それを聞いた男は言葉を失った。
「なんだって……」
かすかに喉から搾り出す。
あの竜は何も言わなかった。すなわち、それは否定を表しているのではなかったのか。
もう手遅れなのか。なにもかも。
いや、手遅れにはさせない。最後まで諦めることはできない。喉笛を捉えられた獲物が、決死の反撃で逃げ切ることもあるのだ。
「ともかく――ここを出よう。もしかしたら、何か方法があるかもしれない。このまま君が不幸になっていくのを、俺は見ていられない」
女は力なくつぶやき、そして男の胸をそっと押す。それはかすかな抵抗だった。
「あなたは、少し思い違いをしているわ」
「何?」
「私は……幸せよ」
女は目に涙をにじませた。
「私ね。子供が産めないの。そういう体なの。でも、竜神さまが転生するために私を選んでくれたっていうことは、それは私の子なんじゃないのかしら? 私は死ぬことになっても、私は私の出来なかったことを果たせる。親や村の人たちには酷いことを言われたけど、もうそれもどうでもいいわ。私は私の子を産むの」
それは、諦めなのか。
男は動揺していた。てっきり彼女は自分の運命を憂いてばかりいると思い込んでいたのだ。しかし、そうではなかった。彼女は全てを諦め、受け入れようとしている。彼女は自分とは違っていた。
「本当か? じゃあ、どうして泣いている」
「嬉し涙よ。人は嬉しいときにも泣くの」
嘘だ、と思った。
彼女の言葉を信じたくなかったわけではない。それが人としての幸せではない、ということが男にもわかったからだ。
狼と竜に犠牲になる人生なんて。この森のために犠牲にされるなんて。それが本人にとって幸せなのだろうか。
否。そんなはずはない。
男は彼女の涙をそっとぬぐった。その頬は白く、柔らかかった。
「竜が……そこに宿っていたとしても。俺はそれを受け入れる。森を出よう。そして、ともに暮らそう」
苦し紛れにひねり出した言葉だった。竜の子を宿したまま森を出てどうなるかなんて、男にもわからなかった。彼女の身体から竜を追い出すことができるのだろうか。追い出す術があったとして、彼女はそれを望むのだろうか?
だが、男は彼女に惚れていたのだ。彼女に触れただけで、身体が熱くなった。もっと触れたい。もっと近づきたい。こんな衝動を抱えたのは初めてだった。
彼女はしばらく考えている風であった。
迷っているのだろうか。
男は焦れた。けれど、待つしかない。説得すべき言葉は全て言い尽くした。あとは、彼女が決断を下すだけだった。
「――わかった」
沈黙の後、女の口から出てきたのは肯定の言葉だった。
「わたしも、あなたと一緒にいたい」
男はほうっと息を吐いた。
「そうか。――よかった」
「え?」
「こんな気持ちになれるんだな」
男は独りごちた。彼女が不思議そうに見つめる中、気持ちを落ち着けるように手を握ったり、開いたりしていた。本当は叫び声を上げながら森を駆けるほどの衝動が胸を襲っていたがこらえる。
「俺は――君に触れたい」
そう言い、手を伸ばした。首元に手を伸ばし、その白い首筋に触れた。そして自然と耳、頬、唇へと触れていく。彼女は頬を赤らめたまま、少しくすぐったそうに瞬いた。
「あの……」
やがて耐えかねたように彼女が声を発すると、男はそのままその唇に食らいついた。誰からも教わっていないはずの行為。だが、まるでそうするのが自然とでも言うように。
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