Blow of wolf-狼の一撃-
河野 る宇
*前編-出会い
通勤ラッシュの時刻はとうに過ぎ、喧騒から解き放たれるこの時間──微かに揺れる葉のこすれる音は窓ガラスに遮られ、男の耳には届かない。
都心からほど遠い場所にあるマンションは分譲だろうか、内装は男の趣味に合わせて改装されているようにも思える。
バターのたっぷり塗られた安いトーストに歯をたてる。乱暴に噛みちぎり、手にあるものを夢中になって見つめた。
三十歳を少し過ぎた男は赤茶色の短めの髪をかきあげ、同じ色の瞳で思案するように小さく唸る。
鋭い眼差しと整った面持ち、百八十五センチの長身に鍛えている事を窺わせるがっしりとした筋肉が、ただの飾りではない男の強さを示していた。
防音設備の整えられたマンションの最上階、見た目では解らないが部屋にあるもののほとんどは防火性に優れている。
精密工具で五センチほどの四角い箱をいじる。透明のプラスティックで出来た箱の中には小さな金属の部品が詰め込まれていて赤と青のコードが二本、箱から出ていた。時折、精密眼鏡を装着し正しく配置されているかを確認している。
冷めたコーヒーを口に含み、置き時計に目を移す。気がつけば十時をとうにまわっていた。
男は今日は休みなのか、背伸びをするとリビングに冷たいコーヒーを持って移動し、LEDテレビをつけて革張りのソファに腰を落とした。
ようやくくつろぎ始めた男の耳に呼び鈴が鳴り、鬱陶しそうに眉を寄せて立ち上がる。
「なんだ」
ぶっきらぼうに言い放ち扉を開くと、十代の少年が男を怖々と見上げた。学校に行く途中だったのか紺のブレザーにスポーツバッグを抱えている。
「あんたが
「だったらなんだ」
喉の奥から舌打ちして不機嫌である事を隠さずに軽く睨みつけた。その威圧的な態度に少年は若干、たじろいだがすぐに目を吊り上げて踏み留まる。
思ってるより根性があるじゃないかと薄く笑い、少年が口を開くのを待った。
「あんた、傭兵だって話だけど……ホントに?」
「あ? それがどうした」
勇気ある冷やかしなのかとさらに険しい表情を見せる。しかし、
「なんだこりゃ」
少年が意を決して差し出した封筒に顔をしかめた。
「お願いだ。姉ちゃんを助けてくれよ!」
「女に興味はない」
「えっ!?」
なに言ってんのこいつ!? 助けてくれの第一声がそれってなんかおかしくない!? 少年は一瞬、唖然とした。それでもなんとか我に返り話を続ける。
「みんなオレの言うこと信じてくれないんだよ」
姉ちゃんは行方不明じゃない、あいつが連れてったんだ。
どうもきな臭い話になってきた。泉は面倒そうに再び舌打ちすると少年を見下ろす。
「名前は」
「白石
「女じゃねえ、お前のだ」
「あ、
名乗った少年に入るようにあごで示し、雅史はおずおずと靴を脱いで男の背中を追った。
「歳は」
ソファに促されジュースと同時に尋ねられる。革張りの落ち着いた色をしたソファは座り心地が良く、雅史は羨ましさを感じた。
「十六です」
聞きながら泉は缶ビールを持って斜め左にあるソファに腰を落とした。
「とりあえず話せ」
タブをあげ缶ビールを傾ける。
「え、えと」
酒飲みながら聞くとかマジありえねえ、やっぱり止めようかな。そう考えたが、ふとリビングテーブルの上にあるものに目が留まった。
「黙っとけよ」
男は見ていた物を隠すでもなく、肘掛けに肘を乗せて言い放つ。
「はあ」
あれ多分、拳銃の弾だよな……雅史はテレビや映画ではよく見た金属の物体に視線を外した。
無造作に置かれた細長い金属は鈍い輝きを放ち雅史の興味をそそる。それを察したのか男は一つ手にして少年に投げ渡した。
「あ──っと。姉ちゃんは男運が悪いっていうか、悪そうな奴がタイプっていうかさ」
三センチほどの冷たい塊を手の中で遊ばせながら独り言のように語り始めた。
「今までは暴走族みたいな奴らだったから特に気にしてなかったんだけど」
ある日、蒼白な顔で帰ってきた姉に雅史は彼女の部屋を訪れ尋ねてみた。彼女は、
「あいつ、ヤバイよ。なんであんなもの持ってんのよ」
ぶつぶつとつぶやき、それが何なのかまでは教えてくれなかったが、それから次の日に彼女は家に戻らなかった。
それから二日経っても姉からの連絡はなく連絡もつけられず、両親はとうとう警察に捜索願を出した。
姉が残した言葉から考えるに、「あんなもの」はどう軽く見積もってもあれしか思い浮かばない。
「でも、母さんたちは姉ちゃんがそんな奴と付き合ってたなんて知らないし、姉ちゃんがそんな奴と付き合う訳ないって」
オレが言ったこと全然信じてくれなくて。でも早くなんとかしないと姉ちゃんが危ないと思って──!
「前から近くに傭兵が住んでるって噂で聞いてたから、調べて」
「まあ黙ってても勝手に知られるわな」
どうしても隠しておけない時と場合がある。そこから情報が自然と流れてしまうのは防ぎようがない。
泉は足を組み、落ち着かずに
「お前の知っていることを全部話せ」
少年から事細かに姉や彼氏のことを聞き、姉の写メを携帯端末に送らせる。それを確認し、どこかの番号をタップした。
「──ベリルか、悪いがそっちの情報屋に頼みたいことがある。ああ、日本のだ」
それを興味津々に見つめる少年の視線を意に介さず、ベリルと呼ばれる相手にひと通りの説明をして通話を切る。
泉は少年を見やると手を差し出して「返せ」と目で合図した。
「お前は家に帰れ」
「え、でも」
しぶしぶカートリッジを返して立ち上がる。
「息子まで挙動不審になったら誰が両親を支えるんだ」
睨みつけながら玄関に行けと示す。
言葉遣いとは真逆にえらくいいこと言うなと眉を寄せつつ少年はバッグを抱えて玄関に向かった。
「何かあったらこっちから連絡してやる」
追い立てるように手を振る。
「本当だな、頼んだからな!」
扉が閉じられる寸前まで少年は声を張り上げた。
「あ~はいはい」
面倒そうに返事をし、震えている端末をスライドした。
「どうだ? ──あん?」
<その集団自体はさしたるものではない。しかし、薬を買っていた先に問題がある>
良く通る声が泉の耳に伝わる。その声は、泉にとって何度聞いても足りないくらいに心地よい。
「そいつらがいる場所は解ったのか」
<埠頭にある倉庫。番号は──>
「助かった。サンクス」
通話を止め、リビングテーブルに置かれている封筒を手にする。中身を確認すると小さく舌打ちした。
「まったく、桁が一つ足りねえよ」
お前には払えないからと突き返したものだ。三枚の一万円札は、何かを買いたくて貯めたものかもしれない。
それなりに苦労した経験を思い出すように泉は眉を寄せる。
「軽くひねってくるか」
口の端を吊り上げて指の関節をパキパキと鳴らした。
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