アウト・ドアーズ

@fugi3

プロローグ 降祀乃山奇談

米CIAの密命を受けて駐日している日系4世のアメリカ人、ジェームス山下が上司のバレンタイン局長に呼び出されたのは任期明けも近い在任五年目の春のことである。この極東の島国からアメリカ本土への復帰を目論むジェームスの前に立ち塞がったのは『アウト・ドアーズ』という名の合成麻薬であった。

その白い錠剤を呑んだ者は、皆一様に観覧車の幻覚を見るという。クスリを呑むと急速に体が浮き上がり、身の回りの現実の光景がブラインドカーテンのように亀裂が入って消滅し、その向こうに夕陽に照らされた広大な草原が出現する。

自分はいつの間にか古びた観覧車に腰掛けており、草を波立たせている風に吹かれている。観覧車は軋みながらもゆっくりと回転していて、錆び付き、風防の割れたゴンドラが、ギシギシと揺れながら茜色に染まった夕焼け空に向かって昇ってゆく。上昇するにつれて体内に痺れるような快感が満ち溢れ安らぎと多幸感に包まれながら下降し始める。もっと乗っていたいと思うが、観覧車が一回転すると幻覚から醒める。

時間にして僅か十五分のショートトリップから目覚めた後は、日ごろのストレスが綺麗さっぱり消えてすがすがしい余韻だけが残っている。副作用も報告されず安全極まりない癒し系ライトドラッグとして認識されていたこのクスリに、思わぬトラップが仕掛けられていたことが判明したのはブームになって半年後であった。

トリップの終了までおとなしく観覧車に座っていれば何事も起らないのだが、使用を重ねるうちに眼下に広がる草原へ飛び降りてみたいという願望が芽生えるのだという。風になびく草の波が自分を手招いているように見えるらしい。

誘惑に負けて草原に飛び降りるとどうなるか、観覧車から身を投げ出したとたんに自分の体は空中で静止し、その後スローモーションのようにゆっくりと下降してゆく。

頭上に広がる茜色の空には四角い窓のような空間がポッカリと口を開け、その中に今まで生活を営んできた現実世界が覗いており、妻や子供の顔も垣間見える。

その時に初めて現実世界から異世界へ飛び降りてしまったのだと悟る。空中でもがいてみても後の祭り、体はゆっくりと、だが確実に下へ下へと落ちてゆく。脂汗を流して見上げる現実世界の窓にロングドレスをまとった髪の長い、半透明の女性が顔を出す。

女性は驚愕に目を見開き、窓から身を乗り出して懸命に手を差し伸べてくる。自分も力の限り手を伸ばす。が、あと一歩のところで届かない。女性が涙を流している、サヨナラと唇が動く。その時初めて、この女性は自分の守護霊だったのだと気づく。

守護霊から別れを告げられるとは、何という取り返しのつかないことをしてしまったのか。悔恨に胸をかきむしりながら下へと視線を移すと、そこには古代ローマの甲冑を着けた十メートルもある巨大な兵士の石像が、手の平をこちらに伸ばして待ち受けている。

ああ、これは罠だった。自分はこの兵士に捕らえられもう二度と現実世界に戻ることはできないのだ……絶望と恐怖に叫び声を上げながら我に返ると、実際に部屋の窓から飛び降りようとしている。

この飛び降り事件の陰に『アウト・ドアーズ』というクスリが関係していることは、ジャンキーの噂により麻薬取締局の知ることとなった。どうやらこのクスリを使用して幻の観覧車から飛び降りた者は、現実の世界でも飛び降りてしまうらしい。

だが当局はこのクスリを摘発するだけの興味は示さず、使用者への厳重注意のみにとどまった。

多少の依存性はあるものの禁断症状や違法成分なども発見されず、そもそも今回の事故にしても、観覧車から飛び降りないよう注意すれば何の問題も起らないのだ。

他のハードドラッグに追われてていた当局は、『アウト・ドアーズ』を黙殺することにしたのだが、間もなく事態は一変した。

こともあろうに、合衆国大統領の子息が、このクスリを使用してあの世に旅立ってしまったのだ。激怒した大統領は、ディーラー一味の首を取ってくるよう厳命を下した。CIAが調査に乗り出し、クスリの流出もとが日本であることを突き止めた。

CIA極東支局から、『アウト・ドアーズ』の密売経路の割り出し及び、製造元の破壊を命じられたジェームス山下は、知り合いのヤクザを通じて密売ルートを調べたが、アンダーグラウンドのマーケットでは流通しておらずバイヤーたちも噂に聞くだけで、実物は見たこともないという返事だった。それが事実だとすると『アウト・ドアーズ』は一般の闇市場とはまったく別の、特殊なルートによってアメリカまで流出していることになる。

ルートを探るのに躍起になっているジェームスのもとに、東洋太平洋支局のバレンタイン局長が、重要情報を手にして来日したのは、春まだ浅き三月の終わりであった。

そのバレンタイン局長が指定した落ち合い場所は、なぜか千葉県は房総半島の外れだった。東京から特急で一時間半、さらにローカル線に乗り換え三十分の長旅を終えたジェームスは『おろし野』という小さな駅に降り立った。

改札をくぐるジェームスのビヤ樽のような巨体に、年老いた駅員が脅えたような視線を送る。黒いソフト帽にサングラスを掛けた無表情な顔、おまけに黒の上下スーツを着用し、アタッシュケースまで黒革製という、全身黒ずくめのジェームス・山下は、駅中の客の注目を一身に集めながらタクシーに乗り込んだ。

「向江ヶ浜まで」

ジェームスは運転手に行き先を告げた後、独り言を呟いた。

「潮の匂いがする」

「ヌサ、アニイッテンダカイヨー」

スピードを上げながら、日焼けした運転手がルームミラーを覗く。

「こっからハマまで、十キロもあるっぺよう」

シオカラ声でがなる運転手を無視し、ジェームスは窮屈そうにシートに身を沈めると目を閉じた。

「懐かしい匂いだ…」

昔、熱狂的なサーファーだったジェームスは、この房総の海にも何度か足を運んでいたのだ。

海沿いに建つ、ホテル直営のレストランにタクシーを乗り着けたジェームスは、入口でボーイ姿の青年に呼び止められた。

「山下さんではありませんか?」

「ごぶさた」

ジェームスが、驚きの目で青年を見返す。

「やっぱり、ヤマちゃんだ。どうしたんすか?その格好」

くだけた口調で尋ねながら、不思議そうに黒スーツを眺め回す青年に、ニコリともしないでジェームスが答える。

「見れば分かるだろう?UFOの行方を追ってるのさ」

「そいつはナンギな仕事だ」

青年が、真面目な顔で頷く。

「オタクは、ホテルマンだったのか」

「まだ新米なんですけどね」

「いいホテルじゃないか」

ジェームスが、松林にそびえる白亜の高層ホテルを見上げる。

「展望風呂が自慢なんです。ヒマがあったら一汗流して下さいよ」

立ち去る青年を見送ったジェームスが、レストランに足を踏み入れると、シーズン前の店内は客の姿もまばらだった。

岸壁から海へせり出すように建つレストランは、全面ガラス張りのオーシャンビューで、その中でも一番見晴らしのいいテーブルに陣取ったバレンタイン局長がこちらに向かって片手を挙げるのを見て、ジェームスは絶句した。

まだ三月というのに麦藁のカンカン帽を被り、オレンジ色のアロハシャツ姿、おまけにボブヘアーのカツラを付け、口髭までたくわえていたからである。白いショートパンツから剥き出している、毛脛の濃い足の先につっかけたビーサンをブラブラさせながら、店中に響き渡る大声で局長がジェームスを呼んだ。

「おはよう!ジェームス君」

店内の客と従業員の注目が集まる中、ジェームスは黙ったまま局長に歩み寄った。

「その格好は、何の真似です」

テーブルに着いたジェームスが、声をひそめて聞いた。

「見れば分かるだろう、敵の眼をあざむくためじゃないか」

神経質そうに辺りを見回した局長が、小声で答える。

「それにしても元気そうでなによりだ、ジェームス…ジェームス・凡人……」

「凡人(ぼんと)じゃないですよ」

日本通をきどる局長が会うたびに口にする、とっておきのジョークにうんざりしながら、ジェームスが答える。

「ヤキハマ、お待たせしましたー」

元気のいい若いウェートレスが、テーブルに焼き蛤の皿を置いた。

「ベリーナイス!ジャパニーズクラムチャウダーデスネ」

『クラムチャウダーと、全然違うだろうが』

わざわざ片言の日本語でウェートレスに話し掛ける局長を横目で見ながら、ジェームスが腹の中で毒づく。

「こんな物、注文したのですか」

尋ねるジェームスをよそに、局長は焼きたての蛤に醤油をかけると、カラをつまんで口に持っていき、音を立てて中身を啜った。

「ところで今、入口で誰かと話していたようだが」

蛤を咀嚼し終えた局長が、ガラス張りのドアを指差す。

「君の知り合いかね」

「ええ、まあ…」

さすがに局長だけあって、よく観察している。侮れないな、この親父。と、思いながらジェームスが言葉を濁した。

昔のサーフィン仲間だとは、口が裂けても言えない。局長のことだから、就任そうそう引き継ぎそっちのけで、サーフィンに明け暮れていたことを咎めはしないだろうが、その巨体を乗せて、よくサーフボードが浮かんだな、くらいは言いそうである。

「ふん、まあいい…」

局長は唇を歪めて微笑むと、二つめの蛤を口に放り込み、冷酒で胃の中へ流しこんだ。

「君もなにか飲みたまえ。私が注文してやろう」

局長はウェートレスを呼びつけると、

「ドライマティーニの、凡人レシピををくれたまえ」

と、言った。

「はあ?」

ポカンとするウェートレスの表情を愉しむように、局長が話し続ける。

「本家のボンドレシピは、ウオッカベースのマティーニなのだが、凡人レシピはいいちこがベースとなる。それから、オリーヴの代わりに赤いカリカリ小梅を……」

「缶のままでいいから、バドワイザーをくれ」

説明する局長をさえぎって、ジェームスが頼んだ。逃げるように立ち去るウェートレスを、つまらなそうに見送った局長は、椅子に置いたサイドバッグから白い錠剤が入ったビニール袋を取り出し、テーブルの上に置いた。

「アウト・ドアーズの、実物が手に入った」

運ばれて来たバドワイザーを、一息で飲み干したジェームスがゲップの音をさせながら、それを観察する。

「成分の解析は、できているのですか?」

「それが、分からんのだ」

「分からない?」

「我々が見たこともない、未知の物質が発見されたのだよ」

「世界一を誇るCIAの分析班に、分からないことなんてあるのですか?」

少々酔いの回ったジェームスが、皮肉っぽい口調で尋ねた。

「謎なんて物は、この世の中にいくらでも転がっている」

厚いガラス窓の向こうに広がる水色の空を、局長が指差した。

「君は、この空の上に正体不明の人工衛星が浮かんでいるのを知っているかね」

「聞いたことはあります。以前、日本の観測チームが発見して大騒ぎになりましたよね。なんでも、直径五十メートルもある、地球の引力を考えたら物理的に浮かんでいられるはずのない巨大な人工衛星が、日本の上空にピタリと張りついているとか」

「そのとおりだ。日本を監視する謎の人工衛星、これなどまさに現代のミステリーではないかね」

「しかしその正体は、巨大パラボラアンテナを積んだアメリカの偵察衛星だという話じゃないですか。当局は否定してるみたいですけど」

「そりゃそうだよ、ホントに我が国の衛星ではないのだから」

「えっ!そうなんですか?」

「当たり前だろう。第一我々が、わざわざ衛星飛ばして日本を監視することに何の意味がある?」

「たしかに、無意味ですね。と、するとロシアか中国辺りの衛星でしょうか」

「それが、調査してみたところ、どこの国も打ち上げた形跡はないのだ。いつのまにか、その場所にポッカリと浮かんでおったのだよ」

「じゃ、いったい何なんです。エイリアンの宇宙船でありますか?」

ジェームスはバカバカしそうに首を振ると、クシャリとビールの空き缶を潰し、二杯目のビールを頼んだ。

「このおろし野という町は、いい所だ」

急に話題を変えた局長が、冷酒を注ぎながらシミジミとした口調で言った。

「風光明媚とまではいかぬが、町の片側は海、もう片方には里山が広がり、海の幸山の幸共に豊富で気候も温暖だ。住むには申し分なかろう」

突然、おろし野の観光課長のようなセリフを口にする局長を、いぶかしげに見ながらジェームスが異を唱えた。

「いやいや、こういう田舎は遊びに来るには最高ですけど、いざ住むとなると中々大変ですよ。交通は不便で商店は少ないし、何よりも近所付き合いが面倒だ。田舎の人というと、のんびりしたイメージがありますけど、意外と気難しい人種なんですよ。街灯もないから夜は真っ暗闇だし、虫や蛙の声はうるさいし、都会派のおいらには、これっぽっちも住む気なんてないですね」

まくし立てるジェームスの言葉は、何度もこの土地を訪れていただけあって、実感がこもっていた。

「わがままを言われては困る、君はしばらくの間、この地で暮らすのだ」

「エッ!?」

口からビールを吹き出して咳き込むジェームスを、平然と局長が見つめた。

「住む場所は用意した。明日にでも住民票を移すがいい」

呆然とするジェームスを前に、局長はバッグからファイルを取り出した。

「この平穏な田舎町で、例の殺人麻薬が作られていると言ったら、君は信じるかね」

「こ、この町にアウト・ドアーズの製造犯がいるんですか?」

「君の知ってる男だよ」

局長はファイルから写真を取り出すと、ジェームスに突き付けた。

「この男に見覚えがあるかね」

写真には、ロイド眼鏡のような丸いサングラスを掛けた、スキンヘッドの老人が写っていた。

「名前は東郷健、聞き覚えがあると思うが」

「さあ、オカマの東郷健なら知ってますけど…」

首をかしげるジェームスに、局長が畳み掛けるように言った。


「またの名を、降祀乃山おろしのやまの和尚。数年前まで地元のサーファーの間で有名だった男だ」

そこまで言われてジェームスは、サーフィン仲間に一際目立った老人がいたことをようやく思い出した。六十代とは思えぬ引き締まった赤銅色の体に、派手なサーフボードを抱え、若者に混じって波乗りに興じていたのだ。

サーファーたちから、降祀乃山の和尚というニックネームで呼ばれていて、なんでも降祀乃山という山のふもとで、先祖代々寺院を営んでいたが彼の代で廃寺にしてしまったという。

サーフィンに瞑想とハッパは欠かせないと言って、効きの悪いクサを配って歩いていた。どうやら、寺の裏山で栽培しているらしいと噂に上っていたが、その趣味が高じて怪しげなクスリを作り出したとしてもおかしくはない。

「おいらがサーフィンマニアだったこと、局長はご存知でしたか」

「君のことは、逐一報告を受けておる。就任早々、沖縄までサーフィンやりに行ったそうじゃないか」

「若気の至りでした。熱病に浮かされてたものですから」

ジェームスは、顔を赤らめさせて頭を下げた。

「そのことを責めるつもりは毛頭ないが、それにしても君みたいな巨体が乗って、よく板が割れなかったな」

「就任当時は痩せてたんですよ」

ムッとしながらジェームスが答える。

「日本が平和過ぎて、することが何もなかったおかげで、こんなに太っちまったんだ」

「だったら、中東にでも出張して、砂漠の真ん中でたるんだ腹を絞って来るかね?」

「そいつは願ってもない話だ。一度、ドバイの波に挑戦してみたかったんですよ」

減らず口を叩くジェームスに、軽くにらむような視線を送って局長が話を続けた。

「まあいい、話題を戻そう。この東郷という男、現在は『自衛霊団じえいれいだん』とかいう新興宗教団体の教祖になっておる」

「自衛霊団?」

「そうだ。アウト・ドアーズというクスリは、元々その教団内で、信者たちを瞑想状態に導くために使われていたらしい」

「つまりおいらに、その教団へ潜入しろってことですか?」

「そういうことだ」

「な~んだ、麻薬シンジケートじゃなくて、相手は宗教団体か」

ジェームスは、さも馬鹿にしたように、下唇を突き出すと肩をすくめた。

「あおっちろい信者共と一緒にお題目唱えて暮らしてたら、ますます体がなまって、それこそどこかの教祖みたいにブクブク太っちまいますよ。いっそのこと、イスラム国かどこかに潜入させて下さいよ」

「北※※民主主義人民共和国で、ちょうど一人空きが出ていたな」

局長の言葉を聞いて、ジェームスの顔色が変わった。同僚からの情報で、あそこはガチヤバイと聞いていたからだ。いつクーデターが起こってもおかしくはないと……

第一局長が伏せ字を使うくらいだから、よっぽどヤバイ状態に違いない。

「あそこは入れ替わりが激しくてな、つい先日も前任者が死体となって帰って来おった。臓器売買目的で、内臓全部抜かれてな。それも生きたままやられたらしい」「実はわたくし、人生に悩んでいまして」

テーブルに身を乗り出したジェームスが、哀願するような眼差しで局長を見詰めた。








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