第4話

 秋津(あきつ)丸は一人で暮らしていたのだろうか?

 成澄(なりずみ)が秋津丸から聞いていたそこは西ノ京、九条坊門の辺り。古寂びた、いかにも風流人の隠れ家と言った趣(おもむ)きである。

 門前からいくら声をかけても返事はなかった。誰か他に同居人はいないか近隣の人に話を聞きたくても四方十里、家らしきものはない。

「身なりは立派だった。金に窮している風には見えなかったぞ。とすれば──誰か後見人がいるに違いない」

「あの美しさだものな」

 一同、庭に廻って縁より屋敷内に入った。

 屋敷は広くはないが清潔できちんと整えられていた。中でも、南の室に据えられた瀟洒な厨子(ずし)が目を惹く。狂乱(きょうらん)丸はやや皮肉っぽく笑った。

「へえ? 形ばかりでもないらしい。寺童らしく一応、経なぞ読んでいたと見える」

 果たして、厨子の中には何巻かの経文が収められていた。

 その厨子の横の壁に絵が貼ってある。婆沙(ばさら)丸は興味を覚えて近づいた。

「?」

「ほう!」

 成澄も気づいて寄って来た。

「野に遊ぶ馬の絵か……中々よく描けている」

「秋津丸は馬が好きだったのかな?」

「自慢の黒毛に乗せてやれなくて残念だったな、成澄?」

 またしても言葉に棘(とげ)がある。婆沙丸はそっと兄の袖を引いた。

「兄者……」

「ふん」

 狂乱丸は唇を噛んで縁へ出た。

 ふと気づくと、肩先にスルスルと降りて来たものがある。

 蜘蛛だ──

 自慢の射千玉(ぬばたま)の髪を揺らせて狂乱丸はひっそりと微笑んだ。

 現代人には意外かもしれないが、上古(じょうこ)から平安のこの時代に至るまで、〝天井から蜘蛛が糸を垂れる〟ことは吉兆、瑞気として喜ばれた。

 狂乱丸も思わず、古い歌など口遊んでみる。

「〈わが背子が来べき宵なり ささがにの蜘蛛のふるまい かねてしるしも〉……か」


   恋人が今夜きっとやって来るにちがいないわ。

   だって、ほら、蜘蛛が糸を垂れている。良いことが起こるよって……


 だが、せっかくの奇瑞に酔う時間は長くは続かなかった。次の瞬間、屋敷内に無粋な声が響き渡ったのだ。

「何だこりゃあ? おーい! 皆、こっちへ来てくれえ!」


 一人勝手に、庭先の離れと思しき一室に潜り込んでいた陰陽師の叫び声だった。

「どうした、有雪(ありゆき)? 何か見つけたのか?」

 真っ先に駆けつけた成澄が戸口で息を飲んだ。

「ムッ、これは──」

 主屋(おもや)の方の清潔さとは打って変わって、その室の有様たるや凄まじい。

 ちょうど方丈ほどの大きさ。窓もない、入口の扉が唯一の明り取りらしいそこは、無残なまでに荒れ果て、至る処、蜘蛛の糸が樹木のごとく繁茂している。

「ゴホッ、ゴホッ……何だ、ここは?」

「一体、ゴホッ……何に使っていたんだ?」

「使っていないから──こうなったんだろ? それにしても酷い、コホッ、コホッ……」

 室の前で一同、埃(ほこり)に噎(むせ)ながら口々に言い合う。

 だが、やがて、それら悪罵の声は徐々に小さくなって行った。

 暗がりに目が慣れてこの惨憺たる小部屋の奥に蚊帳らしきものが吊ってあるのが見えたからだ。

 皆、ゾッとして肌が粟立った。

 こんな場所に誰か──人が寝ていたのだろうか? いや、今現在、寝ているなんてことは……ないだろうな?

 暗闇にボウッと浮かぶ蚊帳の影……

 とうとう有雪が双子を振り返って、言った。

「おい、どっちか見て来てくれ。おまえたち田楽師なら身が軽くて潜り込み易いだろ?」

 これには兄弟、即座に首を振って、

「おまえこそ行けよ、有雪! 陰陽師はこの手の〈不気味な場所〉は専門のはず」

「そうとも! あんな処にいるのは、それこそシャレコウベか鬼か……兎に角、物怪(もののけ)の類に決まっている」

「でなければ──秋津丸の後見人か? よし、俺が行こう」

 恐れを知らぬ検非遺使が一歩前へ踏み出した。

 こういう時、やはり頼りになるのはこの男である。


 


そこは、蚊帳が吊ってあるだけで夜具もなければ寝ている人もいない、蛻(もぬけ)の殻(から)であった。

 改めて、手燭を探して来て、もう一度念入りに室内を調べたものの何もなかった。

 ただ、蜘蛛の巣だらけの室……

 いつ吊ったのかも定かではない蚊帳の内まで蜘蛛の巣は重く垂れ下がっていた。

 烏帽子(えぼし)は無論のこと、自慢の熊の蛮絵装束まで蜘蛛の巣だらけにして成澄は戻って来た。

「どうやら秋津丸はここは全然使ってなかったと見える。主屋で暮らしていたのだろう。──誰だっ!」

 背後の不気味な室内ではなく、明るい光に満ちた庭に向かって検非遺使は声を荒らげた。

「誰だ! そこにいるのは……!」

「誰って……あなたたちこそ、誰だ? 兄の住まいに勝手に上がり込んで?」

「──」

 検非遺使始め、一同暫く凍りついたように身動(みじろ)ぎできなかったのには訳がある。

 庭に立つその影が、今は亡き秋津丸に瓜二つだったからだ。

 今さっき清目(キヨメ)に命じて鳥辺野に埋めさせたあの美童が息を吹き返して山を降りて来たのかと──

 蘇って自分の家に帰って来たのかと、皆、総毛立った。

 勿論、そんなはずはなかった。

 よくよく見れば、眼前の若者は、面立ちも背格好も確かに秋津丸と似てはいるが、纏っている装束が明らかに違う。稚児装束に垂髪だった秋津丸と異なり、こちらはきちんと髷(まげ)を結い烏帽子を着けている。香染の狩衣(かりぎぬ)、濃紫の袴。歷とした武家姿である。

「……秋津丸の身内の者か?」

 漸く、成澄が低い声で質した。

 若者の方も黒刷りの蛮絵に気がついたようだ。

「あ! これは検非遺使様? では、まさか、兄の身に何か……?」

 姿勢を正すと一揖(いちゆう)した。

「申し遅れました。私の名は──蜻蛉(せいれい)丸。いかにも、秋津丸の弟にございます」

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