常夜より愛をこめて
amada
#1 遺言、あるいは契約
この国には、
僕は普段人の出入りが殆ど無い、校舎の奥のトイレにいた。するすると制服のネクタイをほどき、ドアノブに引っ掛ける。個室ではなく、トイレの出入り口に。昔は高い場所に吊るのがメジャーだったみたいだけれど、今では簡単に痛みも苦しみも、あと台とかも必要なく、お手軽に実行できるやり方として、それがあった。気道を塞ぐのではなく、頸動脈を遮断する。脳への血流が滞れば、ただちに意識が薄れていく。うん、悪くない。
僕はただ、疲れていた。中学と、それと高校の受験で燃え尽きたのかもしれない。もちろんそれがすべてじゃない。僕の持つこの衝動、もしくは願望は、きっと家族に起因するものだ。出来損ないの形骸。自分の家族がそうであると気づいたのは、わりと最近のことだった。家族とは最小単位の社会。言い得て妙だ。人間にとって世界はすべて。だから僕にとっては家族がすべて。たとえそれが機能不全を起こした腐りかけの死体みたいなものだったとしても。
ああ、擦り切れたのかな、僕は。とにかく今は死にたかった。それはもう、猛烈に。腹が減ったとか、授業中に眠気を抑え切れないとか、夜無性にムラムラするとか、そういうレベルで僕は今、死にたかった。それが思春期の少年にありがちな厭世観だとか言われたら、僕は全力で否定しただろう。これは欲求であり、衝動だからだ。
なんだか遺書めいて来たけれど、もう少し話をさせて欲しい。受験を経て、僕は高校生になった。偏差値60くらいの、いわゆる自称進学校というやつだ。判を押したように文武両道を掲げ、大学への推薦枠の多さを誇るような、そんな学校だ。
僕はぼっちを標榜していたわけではないけれど、人間関係はすこぶる苦手だった。だって、みんなあんなに楽しそうだから。きっと家に帰れば「まとも」な家族がいて、陽の光を浴びて生きてきたんだろうな。そう思った瞬間から、僕はクラスメイトたちが別の世界の住人に思えた。だから当然、友達と呼べるような奴もいなかった。
僕はただ、疲れていた。色々考えるのも面倒だったし、ちょうどよく死にたくなってきたから、実行に移すことにした。有言実行は美徳だろ。反論があるなら聞かせて欲しい。
ネクタイで作った輪っかに、首を通す。後は体重をかけてやればオッケーだ。これは個人的な欲求の充足であるとともに、世界への報復でもある。学校という場所を選んだのはそのためだ。自殺衝動を満たすだけなら、車とか電車に飛び込めばいい。古式ゆかしく樹海に行くって手もある。けれど学校での首吊り自殺。それは、その状況自体が遺書としての役割を果たすことになる。きっと在学生や先生たちには小さからぬ衝撃を与えることになるだろう。人目につく自殺とは、たとえ遺書がなくてもそれだけで意味を持ってしまうものだ。だから僕は、せめてもの抗議と報復の声として、ここで死ぬことにした。
姿勢を変えて、体重をかけ始める。頭部に血液が集中し、顔が膨れるような感覚を覚える。視界にノイズのような光がチラチラと見え始めた。さよなら、世界。ざまあみろ、世界。意識の最後の一片を手放そうとした、その時だった。
ばん、と勢い良くトイレのドアが開かれた。その衝撃で僕は後頭部をドアノブに強打し、ネクタイが気道にめり込み、思わず咳き込む。このトイレは殆ど忘れられた存在だったはずだ。しかも下校時刻がとっくに過ぎたこの時間、ここに来る人間なんているはずがない。いや、そんなことは別にどうでもいい。問題は、人に止められる可能性が生まれてしまったことだ。それでは僕の目的は完遂できない。
恨みがましい想いを抱きながら、ぼくはネクタイに首を通したまま、やっとの思いで闖入者の方に向き直った。
「キミ、死ぬの?」
りん、と静かに鈴が鳴るような声がそう言った。ここ、一応男子トイレなんだけどな。なんで女子が入ってくるんだ。どうでもいい考えが頭をよぎった。夕日の逆光で顔がよく見えない。その影はいきなり僕の髪を掴んで持ち上げた。円柱状のドアノブに引っ掛けていたネクタイは、必然的に僕の頭と一緒に外れる。
女子とは思えないような力で髪を掴んだまま、そいつはしゃがみ込んで、床にへたり込むぼくに目線を合わせるた。
「ねえ、死にたい人」
顔、近いよ。ようやくそいつの表情が分かった。満面の笑みを浮かべている。それは楽しいというよりも、嬉しいと表現するのが的確な、そんな表情だった。
「そんなに死にたいなら、私に命、くれない?」
それが死にたいぼくと、生きたい彼女との出会いだった。
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