Episode3~白の御使い~
「はい。はい。それではそちらの依頼は二十日に」
山間部にある寂れた国道沿い。
一つの倉庫がある。
雑草がアスファルトを割って伸びる駐車場。
錆びれた看板は元々の運送会社の名を白のペンキで消され、【
夏の日差しを受けながら、蒸した倉庫内部。
黒電話の受話器が置かれた。
この平成真っ只中に昭和臭全開。
留守電機能すら無い品を使っているのにはそれなりに理由がある。
それはつまりこの会社の許容量は留守電機能以上ではないという事である。
従業員一名。
社長兼社員兼倉庫管理者兼経理という寂しい人員事情。
切り盛りするのに過剰な仕事は受けられない。
「ふぅ。今日も熱いな…」
黒檀のデスクの上。
熱を溜め込む空気にうんざりしながら、
午前十時より前日から続けている高齢者団地の一角で仕事。
それが終わったら、珍しく入った病院での仕事に夕方から直行。
家具らしい家具もないらしく。
個人の遺品のみという話で清掃作業も必要ないらしい。
品を引き取るだけというかなり割りのいい仕事だ。
「そろそろか行くか」
時間を告げる背後の大時計。
未だに発条式の棺桶とも見紛うソレの音色を聞いて、五月は立ち上がった。
ガラクタの山とも見える内部が縫うように歩かれ、錆と油が奏でる軋みのまま扉が開かれる。
ギラギラと照り付ける太陽の下。
白の軽トラが荷台に畳んだブルーシートを乗せて主を待っていた。
「早めに車検出さなきゃな…」
今日の仕事が始まる。
*
2000年代初頭。
核家族化が進んだ現代。
多くの先進諸国がそうであるように日本の人々の間でも老人の増加が取り沙汰されている。
そんな中、社会問題としてTVを賑わすようになったのが孤独葬という単語だ。
身寄りも親戚も友人知人すら無く死ぬ者。
本来、無縁仏と呼ばれる事になる者達が己で自らを弔う為の準備を行う。
その在り様は家制度、家族というものを社会の中核に据えてきた日本だからこそ大きな問題となった。
死後。
己の葬儀や残される遺産の取り扱いを彼らは交友関係や姻戚関係に求めず。
業者に委託する形を取ったのだ。
需要が伸び続けるならば、供給が増えるのは道理。
未だ公的資格があるわけでもない狭い業界には個人業者が増え、メディアを連日賑わす程ではないにしろ、多くの問題が起こっている。
そんな問題の一つが五月の背後からの視線だ。
「……」
軽トラで現場に乗り付けた五月は前日に清掃を終えた室内から一人小物や家具を運び出していた。
作業を見守っているのは部屋の住人の親戚二人。
共に六十代の男女。
彼らの視線は今も疑念やら疑心やらに満ち満ちている。
それと言うのも五月が何処かのV系バンドのボーカルでも張っていそうな容姿だからだ。
二十一歳という若さもさることながら、灰色のツナギにゴム手長靴で作業している姿が浮いているのかもしれない。
TVでは近頃『悪質、極悪遺品整理業者の実態!!?』という特集が放映されたばかり。
そこらの若者が死に関わる業種を選ぶ事は稀であるし、実際そういう目で見られても仕方ないくらい若い事は事実で、不誠実な仕事をするのではないかとの色眼鏡はそう珍しい事でもない。
五月が神前遺品整理の先代から仕事を引き継いで一年。
そういう視線は幾度と無く受けてきた。
「これで遺品は最後になります」
「ご苦労様でした」
全ての荷物を運び出し終えて部屋に戻ってきた五月に男が茶封筒を渡す。
即日現金払いという条件での仕事である。
中身を確認して「確かに」と胸ポケットに封筒を仕舞い込み、営業スマイルで五月がポケットから名刺を取り出して二人に配る。
「これは?」
「『生前予約承ります』……こういうサービスもしているのかね?」
男女の胡散臭そうな顔に五月が微笑む。
「掛け金は無しで予約さえ頂ければ通常価格帯から二割引きで引き受けるプランです」
「ふぅん」
「そうか」
興味も無いのか。
二人の顔には早めに済ませたいとの感情がありありと浮かんだ。
「最終確認になりますが、本当に品は全てこちらで処分という事で構いませんか?」
「ああ、勿論だ。全て処分してくれ」
「分かりました。では、これで本日の全作業は終了となります」
ようやく終わったかとうんざりした顔で額の汗を拭う両者が部屋から出て行く。
その背中に五月はいつもの
「本日は、お疲れ様でした」
振り向かれないまま。
その日の一件目の仕事は終わった。
次の仕事現場へ向かう傍ら。
団地の駐車場から軽トラが発信し、ラジオを付けられる。
FMからは懐かしいフォークソングが流れていた。
「……」
五月は信号を待ちながら、まだ清掃される前、一件目の部屋の惨状を思い起こす。
何だかなぁという感想と共に。
高齢者団地に一人身というのは何も珍しいパターンではない。
親類縁者と疎遠ならば、そもそも五月に仕事を持って来るのは大概にして団地の管理組合や町内会、互助組織である。
と言っても、そういったところから促されて渋々五月のような個人の遺品整理業者に仕事を持って来る人間もそれなりにいる。
面子やら世間体を気にしての話だ。
あの部屋に住んでいたのは八十代の老人だったと五月は聞かされている。
何でも電気や水道料金が引き落とされ続けて、通帳が空になった事で事件が発覚したらしい。
団地の住人とも殆ど面識が無かったらしく。
発見は数ヶ月後。
すっかりと干乾びた遺体の寝ていた場所は染みがこびり付いていて、結局清掃だけでは足らず、施工業者に内装を頼む事となった。
蛆の死体が飛び散った室内。
命の形に切り取られた染み。
放置された結果、腐臭すらもまるで空間に染み付いたかと錯覚する世界。
箪笥の間に埋もれるように横たわっていたのが五月にはありありと想像出来た。
一言で表すなら、押入れに押し込まれた人形。
たぶん、形容としては間違っていない。
それなりに泣き、笑い、怒り、苦楽を味わってきただろう一人の人間の最後がそういうものであるという事実。
これが稀な話であるならば良かったのだろう。
しかし、今や何も珍しい話でも何でもない。
いや、既にそれが当たり前となりつつある。
それが日本の現状だ。
人はいつか死ぬ。
それは変えようの無い事実。
そして、その終わりが実は温かなものではないという現実もまた事実だった。
少なくとも五月は仕事に付いてから同じような現場を何度も見た。
残った染みと痕跡は決して稀ではない馴染みのものだ。
人は一人で死んでいくと誰かが言ったが、現代“人は死んですら一人”だ。
(何だかな…)
再び内心呟いた五月は信号が青になると軽トラを発進させた。
流れていく老人ばかりの街並みを何処か醒めた視線で眺めれば、やがて国道沿いの病院が見えてくる。
嘗て老人病院と呼ばれる世界が其処にあったはずだが、国の指針で入院期間が制限されて後、病院とは病人にとって安住の地と言うには聊か違うものになっていた。
巨大なコンクリート壁は灰色で監獄という言葉を想起させるには十分な偉容。
込み合う時間帯なのは重々承知していたが、それにしても見渡す限りの乗用車が駐車場には押し合い圧し合い
若葉マークより枯葉マークが多いのはご愛嬌といったところだろう。
老人の方が儲かると産婦人科を廃止して利益優先の高度先進医療に重点が置かれるような社会である。
何とか病院の背後に軽トラを止めて。
関係者入り口へと回れば、すぐに事務室が現われた。
小窓の先へ神前遺品整理の名前を出した五月は事務員から凝視されたものの、すぐ目的の部屋へと案内される。
小奇麗という程ではないが、清潔な院内。
色褪せたクリーム色の座席の合間を抜け、エレベーターで四階へ。
仕事現場は意外にも大部屋ではなく個室だった。
(……?)
桃色の扉の前まで来て、僅かな違和感が五月の思考に
普通、病院で個室を取れるような老人は一握りだ。
金持ちか。
あるいは家族や親族に余裕があるか。
前者なら遺品整理をこんな個人業者に頼む理由はない。
唐突に死亡したとしても、病院関係者だってわざわざ怪しいところに頼まない。
大手の業者に頼めばいいのは自明の理だ。
後者ならそもそも自分達で行うのが普通だろう。
個室内部に大型の家具が運べるわけがないし、そういうのは最初から完備されているものだ。
あって小物や衣類や本くらい。
燃やせるものなら、敷地内の焼却設備で事足りる。
供養した後、ゴミの日に出したっていい。
病院側がわざわざ遺品整理業者に頼む理由は乏しい。
病院が故人の遺品整理に業者を使う理由は資本主義的にはほぼ皆無だ。
そう考えるなら病院個室の遺品整理というのは極めて不自然。
何かしら“業者に頼みたい理由”があるとしか思えない。
「あ、その一つ言い忘れてました」
病室の前まで来て、そう男性事務員に背後から声を掛けられた時点で五月は嫌な予感しかしなかった。
「少し驚くかもしれませんが、危ないものはないと思いますので。どうか、お気になさらず……」
「驚く、とは?」
「いえ、些細な事です。此処に入院していらした方は元々が当院の医院長の関係者でして。他の方より長く入院されていたので……室内に色々とこう……」
「……」
五月の沈黙にそれ以上何も言わず。
事務員の手で扉が横に開かれた。
「―――」
扉の先。
室内の在り様に五月の目が細められる。
「せ、清掃の方はこちらで手配していますので。最初の依頼通り、依頼は遺品の引き取りのみで。ご家族がいない事もありまして、処分方法はそちらに一任という形で。では、終わったらもう一度事務の方へお願いします」
まるで中身を見るのも嫌だというように事務員の足音が背後から早足に遠ざかっていく。
今更に五月は気付いていた。
この部屋が病院の薄暗がり。
最奥に位置するという事実に。
「……随分と張ってあるな」
一歩。
足が踏み出される。
ふわりと鼻腔を通り抜ける香の薫りに五月はそれが
それも焚かれたのは何年ものかも分からない旧い樹だ。
稀少さだけで言うなら、その香りは歴史そのものと言っていい。
気が遠くなるような値段で取引される香木は家宝にして差し支えないレベル。
消毒液の匂いが蔓延する私立病院の一室に焚かれているのはお門違いだろう。
「これは確か……」
室内は薄暗かった。
何もカーテンが引かれているとか、空が曇っているからではない。
ベタベタと窓に一面、札が貼り付けられているからだ。
厄除の護符としてはありふれた品である。
裏面は嘗て起請文を記す用紙としても使用された。
表に描かれている印は鴉の群れで作られている。
「随分と歪んでるな」
五月が寝台を横目に窓に近付いて、札を剥がす。
締め切られ
入り込む微かな陽光に翳せば、裏が黒く塗り潰されている事が分かった。
墨でも塗りたくったのか。
白い部分はまったく見えない。
札が
ざっと室内が見回された。
中央の寝台横の台上には小物。
後は室内に備え付けられている箪笥くらいか。
五月が一見して片付けるものはそれしか無い。
「……」
屈んで寝台の下を五月が覗く。
「こっちもか」
下から寝台の裏を掻くと幾重にも乱雑に張られた札がまるで何かを封印でもしているかのようにごっそりと取れた。
とりあえず。
依頼を受けたからには仕事をしないわけにはいかない。
五月にとってはそこがどんな現場だろうと契約は絶対だ。
まず品の確認と選別が始められた。
箪笥の中には細々とした衣類と下着が数点。
寝台横の小物入れが付いた台には指輪やネックレス、イヤリングが数点。
台上の小物は細い樹木の枝で編まれた籠に入れられた鳥篭と腕輪のようなものが何点か。
総合的に判断するなら、念入りに張られた札以外に異常と呼べるものは何も無い。
と言っても、素人目には十分異常だろう。
何故、個人でやっている零細遺品整理業者に依頼が来たのか。
先方から提示された金額が説明した料金体系以上に積まれたのはこういう事情だったからなのだろうと五月は納得出来た。
相場より割高な提示額は口止め料だったのだ。
大手の業者を使えば人の目に多く止まる。
しかし、個人営業ならば、リスクは最小限。
変な噂を立てられても知らぬ存ぜぬで何とかなる。
それこそ割高な料金を受け取っておいて何かしらネットにでも書き込もうものなら、訴えられるか嫌がらせでもされるか、何が起こるか分かったものではない。
「まるで」
率直な感想が五月の口を突いて出るより先にカタンとその背後で音がした。
「?」
振り返った視線の先。
扉から小さな顔が半分覗いていた。
「……」
少女だ。
十歳かそこらの年齢だろう。
ノースリーブのワンピースを着ている事から見て患者ではない。
「何かな?」
病院の最奥。
こんな空気すらも枯れたような気配の場所に何の用があるのか。
もしかしたら、此処にいた患者の知り合い。
その可能性もある。
だが、五月にはあまり関係ない。
仕事で他者の人生に踏み入るような趣味は無いし、それが先代からの神前遺品整理のやり方だ。
作業の邪魔をされるのでもなければ構いはしない。
室内の遺品の選別を続けようと五月が視線を品に戻す。
すると、トコトコ少女が室内へ入ってきた。
その姿は全身黒尽くめ。
所謂、ゴスロリというやつだった。
病院で目にする事は殆どない姿のはずだが、その目にするはずのないものを着て少女は五月の傍まで寄ってくる。
「……」
少女がスッと選り分けられた枝の小物を指差す。
「これ?」
指差されたのは小さな鳥篭だ。
枝で編まれたソレは実際に使える程大きな代物ではなく、アンティークの類である。
「あ」
少女がそれを手に取るとまるで猫のように俊敏な動作で室内から飛び出した。
「……盗られた?」
五月が追い掛けなかったのは病院で少女を追い掛け回すという非常識を嫌った為でもあったし、実際盗られても問題ない品であったからだ。
だが、何よりも少女の行動の意味が分からないというのが最も大きかっただろうか。
気に入っていたならば、そう言って頼めばいいし、そもそも遺品である事を知っていたなら普通の物心付いた人間ならば不用意には扱わない。
鳥篭の何がそんなに少女を惹き付けたのか。
そして、何故今更に盗っていったのか。
まるで五月には分からない。
もしも、故人と面識があって形見として欲しかったなら、そう言えばいい。
シャイな性格であったなら、五月が来るより先に持っていけばよかったわけで五月からわざわざ奪う必要がない。
鍵も掛かっていない病室である。
出来ないわけもないだろう。
(形見分けくらいならしてるんだがな……)
ちゃんとそれなりの理由があれば、遺品は故人の親戚や知り合いに配る事もある。
アルバムやその他の売れないような遺品を引き取ってもらうのは遺品整理業者では極々常識の範囲内だ。
「まぁ、いいか」
少女を追い掛けて作業時間を無駄にするよりは作業を黙々と続ける方が何かと有意義。
そう結論付けて五月は止めていた手を動かし始める。
小分けにして選別した遺品をダンボールに積み込み、病院から暗に示された札の除去も行って一時間。
程なく作業は終了した。
五月が事務員に黒い少女の事を聞いたのは単なる好奇心。
そして、そんな少女は知らないという言葉と共に病院での小さな仕事は予定よりも早く済んだのだった。
*
夜十時半。
倉庫兼事務所兼自宅を兼ねる倉庫内部。
遺品の品質管理の観点から窓を開けて湿気を呼び込む事も出来ない蒸し風呂に来客があった。
倉庫横の小さな扉から入ってきたのはくたびれた紺のスーツをパタパタさせた壮年の男。
「おう。さっちゃん。元気にしてたかな?」
神前遺品整理の先代から色々と縁がある警察関係者で、事件後の被害者や加害者の身辺整理時に時折仕事を持ってくる上客。
五月にとっては得意先の一つだ。
「佐竹のおっさんか。それで今日は何の用?」
「いやいや、そりゃないぜ。さっちゃん。こうしてさっちゃんが熱中症で茹蛸になって倒れてないか見に来るのはオレぐらいなもんだろう?」
上客、得意先、そういう部類の知人ではあるのだが、五月の反応は素気無かった。
「仕事が無いなら、お帰りはあちらって事で」
えっちらおっちら佐武が汗を掻き掻きデスク前までやってくる。
「はは、相変わらず毒舌だなぁ。さっちゃんは」
「はぁ……」
出費だな。
五月はそう思うものの背後の小さな冷蔵庫を開いてサイダーの瓶を二本取り出し、片方を放った。
「おおっと。済まない! では、さっそく」
カチンと回された蓋が落ち、水滴の滴る瓶がグビリと呷られる。
「ッ―――あぁ、この時の為に人間てのは生きてるな。いや、近頃はホント切実にそう思うよ」
とりあえずビールならぬ、とりあえずサイダー。
いつから駄菓子屋扱いされたか知らないが、五月が神前遺品整理に入った頃から佐武は基本的に来たらサイダーというのが定番だ。
それは五月に代が移っても変わらないお約束のようなもので、実際仕事が無い時に限ってやってくる佐武を無碍に出来ない大人の事情もあり、常時数本のサイダーが小さな冷蔵庫には常備されている。
「で、本題は?」
「はは、そう急ぐなよぅ若人。人間余裕が肝心だぞぅ?」
だぞぅの辺りで五月は半ば、どうしようもないものを見る目になっていた。
「このクソ熱い倉庫に好き好んでやってくるおっさんは余裕綽々そうだな」
「いや、これでも事件を五件くらい同時に受け持ってて、昨今の警察の管理業務は厳し過ぎるという念を禁じえない有様なんだよ。これが」
「どーでもいい話ありがとう」
「はは、どういたしまして。さて、さすがにこれくらいにして。本題に入ろうか」
佐武が持ち込んだ鞄を開けて何枚かの書類を取り出す。
「それで何処?」
「今回は病院――」
「今日行ってきたばかりなんだけど」
「の、医院長だ」
「医院長? 随分とまた胡散臭いね」
「そう言うな。不思議がるのは当然だと思うが、それなりの事情ってやつがある」
「どんな?」
「これはまだ捜査段階の件で他言無用なんだがな」
「そういう前置きする時点で胡散臭いだろ」
佐武が違いないと笑って、顔を引き締めた。
「匿名の告発者からの通報で予備捜査を行っている段階なんだが、この医院長どうやら裏で臓器密売に関わってたらしい」
ヒラリと一枚の写真が提示される。
「この国でそんなの儲かるの?」
「いや、そこが味噌なんだよ。さっちゃん」
「どういう事?」
「この国の人間を使えば、そりゃリスクが高過ぎる。移植コーディネーターって奴を抱き込んでも
「多臓器移植?」
「偉く難しい世界でも殆ど行われてないような手術らしいな。その権威である医院長の下には毎年数多くの患者が押し寄せてくる。成功確率は権威と呼ばれててもせいぜいが30%くらいなんだとか。それでも命掛けで日本にやってきて手術を希望する患者が後を絶たなかったらしい」
五月がそこまでの話を総合して随分性質の悪い人間がいたものだと顔を顰めた。
「今、さっちゃんが考えた通り。この医院長、裏で死んだ外国人に移植するはずだった臓器を横流ししてた。ついでに死んだ外国人からも臓器を秘密裏に抜き取ってたらしい。移植しても失敗したってな建て前で、それこそ腐る程抜いただろうな。近頃、法改正されて外国人もこの国でドナーを見つけ易くなった。そういう事情も手伝って、手広くやってたようだ。手術が失敗しても成功しても儲けてたわけだ」
「それでそんな医院長様がどうして仏になれたのか聞くべき?」
「死因は臓器喪失によるショック死だそうだ」
「随分と皮肉が効いてるけど、被害者にでも殺されたの?」
「いや、それがなぁ。まだ、何とも言えないんだが……」
佐武が溜息を吐く。
「死因と現場の状況を照らし合わせると
パラリと写真がまた一枚提示された。
背景が赤いせいで見難いが、人の形が死体の片付けられた跡となって残っている。
「エクストリームな自殺って線は?」
首が横に振られた。
「逃げ回った跡が残ってた。どうやら追い詰められて、リビングの中央でこう、ガッと心臓を背後まで刳り抜かれてバターン、みたいな感じだと思っていい」
「人間技じゃないって事?」
「ああ、科捜研じゃ別の場所で殺されて偽装されたんだって意見も出てるらしいが、検証が迷走してるそうだ」
五月が写真をもう一度見る。
「……それで此処に仕事を持ってきた理由は? 権威がある相手なら親戚だのもいるだろうし、大手に話が行ってもおかしくない」
「それが一人身だったらしくて身内は無し。遠い親戚とやらも無し。戦争孤児から裸一貫で這い上がった傑物だったんだと。それが理由なのかどうか知らないが、資産になるようなもんは事前に
五月が仕事を断ろうとしなかったのはわざわざガラクタを引き受けて欲しいと言った真っ正直さへの敬意から。
本来、部外者に明かせば処罰されるだろう情報を包み隠さず伝えたのだ。
事が露見すれば戒告処分で済むか分かりはしない。
「話は分かった。それで報酬は?」
「おお! 引き受けてくれるか!!? さすがさっちゃん!!」
「暑苦しいからベタベタ触ろうとするな」
片手で佐武を制止して。
五月が残りの資料にザッと目を通した。
「ちなみに此処に仕事を持ってきたのは故人の自宅と一番距離が近かったからでもある。質素な暮らしぶりで自宅は何処にでもあるような住宅地の一戸建て。何か
「さっきも思ったけど、大それた罪を犯してた割りに人物像がブレてない?」
「変人ってな綽名で呼ばれてたんだと。どうしてあんな手術が出来るのに大病院じゃなく一介の私立病院の椅子に納まってたのか。学会にも殆ど顔を出さなかったのか。医院長を知ってる殆どの奴が不思議がってた。一人じゃ不可能な犯罪だから背後組織の実態解明はしなきゃならないんだが、本人は死んでる。まぁ、こいつ個人は書類送検だけして終わりってのが妥当な線だ。ちょっとは冷たい床を経験してきゃ良かったのになぁ」
佐武の愚痴に五月が契約の為の資料に目を通す。
「あ」
「ん? 何か足りない書類でもあったか?」
医院長。
その男のいた病院の名は今日五月が行ったばかりの現場そのものだった。
「ちなみに今回の事件で医院長の顧問弁護士が出張って来てる。捜査が終了したら不動産やらは売却するらしい。こっちは慌てて資料取って現場検証してって、てんてこまいさ。後、あくまで今は殺人で捜査しているから細々したのを全部警察の方に持ってこうとしたら、いちゃもん付けられた。勝手に処分されて中に何か物証でも入ってたら事だ。つー事で色々協議の結果、ガラクタと思われるものはこっちの依頼で引き取る事にしたわけだ」
もう佐武の言葉を聞こえていなかった。
(事務員は確か……)
写真の中には小さな家が一軒。
奇妙な符合を抱いて。
翌日、五月は現場へと向かった。
*
前日の夜の打ち合わせで佐武から受けた医院長宅での仕事は翌日の午後三時過ぎからと決まった。
午前中は新しい依頼者との契約内容の調整。
五月にとってはコンビニ弁当をもそもそ咀嚼して一服付いた後の作業である。
都市部に幾つかある住宅街の一角。
開発から既に何十年も経った地域は
所々、露地栽培の
その奥に医院長宅は存在していた。
前日から続く猛暑で道端に人の姿は無い。
殺人事件の現場である。
数日経って落ち着いてきているとはいえ、それでも五月は周囲の空気が何か言いようのないものに満たされているのを感じた。
「此処か」
築二十年くらいだろう。
色褪せた小さい一戸建て。
庭も猫の額程。
これが病院の長の家だと言うのだから、俄かには信じられない。
門を潜った五月がさっそく渡された鍵で玄関を開ければ、内部から仄かに土の匂いが漂ってくる。
家宅捜索されたと聞いているが、警察は基本的に靴を脱ぐ。
なら、現場に土足で入ったのは何者か。
熊の置物の置かれた玄関を通り、五月は内部に足を進めた。
広く無い台所にはステンレス製のシンクと小さな冷蔵庫。
小さなリビングには色褪せて擦り切れたソファーとアクリル製の安っぽいテーブル。
そこが殺害現場であるのは一目瞭然。
乾いた土が散乱し、褐色の絨毯に染み付いた赤黒い跡は今も生々しく残っている。
周囲のものは殆ど無事だが、テレビが無惨に罅割れていた。
(心臓を此処で繰り抜かれた……マスコミならセンセーショナルに書き立てるんだろうが、それにしては暴れた様子が……一撃って事か?)
基本的に相続を完全に放棄された資産は国庫に帰属する。
そうなれば売却の為に最低限の掃除やら片付けが必要とされる為、五月のような遺品整理業者が出向く事例もある。
親族やらが相続を放棄して遺産や債務を引き継がないというのは往々にして存在する話だ。
今回は故人の遺言で資産の殆どは寄付の形になるようだが、五月は今まで金にならない資産が全て何かしらの形で失われる瞬間を多く見てきた。
何もかも割り切って仕事としてやれば、ガラクタを引き受ける仕事は儲けが薄いどころか赤字の害悪である。
だが、人の死後に関わる職に就いている以上、五月にもそれなりの矜持というものがある。
金にならずとも引き受けると決めた以上はガラクタの取扱いにしてもキッチリ行う。
それが五月の流儀だ。
「二階への階段は……」
リビングを後にして、キョロキョロと辺りを見回した瞳が細い階段を見つけた。
指定されたのは二階の私室。
その前に目的のガラクタがあると予め佐武に教えられている。
「確か此処を左」
二階の廊下を曲がれば、確かにダンボールが山積みだった。
「さて、始めるか」
さっそく軽トラに荷を積もうと動き始めた。
ダンボール箱は全部で四十箱。
急な階段に気を付けながらの作業だ。
そのどれも中身を確認していないがやけに重く。
半分程軽トラと二階の間を往復した時点で晴れ上がっていた空には雲が立ち込めていた。
湿気を含んだ空気が風も流れない室内の湿度をゆっくりと上げた結果。
作業は汗だくで行われる。
夏の夕立か。
パラパラと雨が降り出して、五月はブルーシートで荷を覆った。
多少濡れながらも家屋に入って二階へと上がれば、まだ荷は山となって部屋の前を覆っている。
窓から外を見れば、曇り空は未だ晴れる様子ではないのが解っただろう。
ここらで一休みするかと壁に背を預けて、ようやく五月が一服した。
パタパタと雨で窓が濡れる音。
心臓を繰り抜かれるなんて殺人事件があった場所である。
普通の感性なら不安になるだろう。
しかし、そんな心情とは無縁で五月は横にあったダンボール箱を一つ開いた。
「ノート? 仕事関係か」
入っていたのはノートの束。
捲れば内部に書かれてあるのは用語の羅列や人体の一部を開腹した図。
それが手術関連のものなのは一目瞭然だ。
(悪どい事をしてた割に仕事熱心だったんだな)
他のノートを取り出してみるも、内容は殆ど同じ。
関係者から見れば、まったく違う内容が書かれているのかもしれないが、五月にしてみれば内臓の絵と専門用語の塊という事しか分からなかった。
「ん?」
もう最後にしようと取ったノートを捲った瞬間。
五月が首を傾げる。
「これは……」
ノートに対する違和感に何度かページを見返して確認すれば、内容のおかしさが見て取れた。
1頁1頁に書かれている日付がバラバラだったのだ。
それも日付の飛び方がページ毎にランダム過ぎる。
十年前の日付の次がつい一年前。
逆に五年前のページの前に数週間前のページがある。
どう考えても整合性が取れない。
(中身の説明は理路整然としてるように見えるが……)
変人。
佐武は医院長の事をそう言っていた。
しかし、実際にその変人ぶりの一端を見てみて、五月は違和感を感じる。
自分のルールに固執する偏執狂だったのか。
あるいは大それた犯罪を犯す程に狂っていたのか。
分からない。
ただ、極悪人の狂人と言い切ってしまうだけではノートの不自然さや熱心な書きぶりが説明出来ない。
小さな自宅で質素な暮らし。
裸一貫で世界的な権威になった人物像。
孤児院や福祉施設への寄付。
世を震撼させる非道徳的な犯罪。
(……何か欠けてるな)
一見して矛盾するように見えるものがある時。
そこにはきっと何か見えていないものがある。
別に五月は探偵でもないし、謎解きが好きなわけでもない。
そもそも推理小説の冒頭と最後を見ても「へぇ……」くらいの感想しか漏らさない人間だが、自分の仕事に関わった人間がどういう相手なのかくらいは興味がある。
悪人だろうと善人だろうと彼が扱う遺品は誰かの人生の一部。
プロフェッショナルとして、それを丁寧に扱う事は常に心掛けるべきものだ。
どんな者の遺品だろうと、例えそれが思考の上だろうと乱暴に扱うような五月ではない。
「まだ、上がりそうにないな」
窓の外は未だ曇り空。
しかし、雨の勢いは弱まっていた。
そろそろ作業を再開しようと五月がダンボールにノートを詰め、一階に降りようとして。
―――――――――それを見た。
階段の先。
その陽の差さない暗がりに朱い瞳が二つ浮いていた。
いや、浮いていたというのは正しくない。
確かな存在感を持って、在った。
湿気と汗に濡れた足の指が僅かにキュッと音を立てる。
「 」
人間。
たぶん、そんな風に思ってもいい“何か”だった。
暗がりに浮かび上がる輪郭は確かに人のものだ。
それでもそれが“人間”かどうかと聞かれれば、五月は答えに窮するだろう。
朱い瞳は人では在り得ない鈍い輝きを放っている。
その濡れた身体の上から幾筋も水滴が床に滴り溜まっていく。
細身でありながら、人の形をしていながら、服の切れ端を纏いながら、それでも違和感が、瞳が、五月を動けなくする。
「 も、をせ 」
「何?」
口元が何かを呟き。
五月が訊き返した瞬間。
床が割れる音と共に“何か”が弾け飛ぶように跳躍して、五月の視線の端から消えた。
直後。
硝子の割れる音。
五月が逡巡しつつも荷を横に下してゆっくりと一階に向かう。
一分は掛かっただろう。
リビングに入ると庭へ続く硝子戸が割れていた。
そうして薄暗がりの中、ソレがいない事を確認する。
パラリと埃が僅か床に落ちた。
「……」
五月が天井に視たのは文字だった。
たぶん庭の泥で綴ったのか。
関わるな。
そんな文章が残ってた。
「?」
不意に五月は視線を感じて庭を振り向く。
「確か病院で……」
「………」
黒尽くめの衣装がシトシトと雨に塗れて。
ぴょいんとくせっ髪が水滴を弾く。
其処にいたのは前日の仕事現場で見た存在。
病院の一室で遺品の一つを持ち逃げした黒いゴスロリ服の少女に間違いなかった。
*
午後九時二十八分。
高殿五月は未だ未成年者略取の容疑で逮捕されていない。
「……はぁ」
「………」
黒尽くめの少女は海苔弁を黙々と食べていた。
神前遺品整理倉庫内部に併設された二階個室。
唯一窓を開けても構わない場所。
つまり、五月の私室での事である。
「住所は?」
「………」
何も言わない少女は無視するでもなく。
ジッと五月を見つめるだけだった。
「名前は?」
「………」
かれこれ同じ質問を三十回はしているが、まともに答えは返ってこない。
家具らしい家具は寝台とパソコンが乗った机だけという殺風景な部屋だ。
机の上にはキーボードの他に経理書類と目覚まし時計しかない
先代の頃に敷地内部に植えたハーブの類が今も自生していて、夏に窓を開けても蚊の一匹も入ってこないのが唯一の取り得だろうか。
何故、私室で五月が少女を前にして情報を引き出しているのかと言えば、少女を放ってはおけなかったからだ。
まだ歳は十を過ぎたくらいだろう少女は裸足だった。
アレが出て行った庭には硝子が散らばっていたにも関わらず。
放っておけるわけもない。
雨に濡れていたのも五月の良心を刺激した。
色々事情を聴いてから自宅まで送迎しようと思ったのは常識的な範囲での善意だろう。
が、途中その善意は壁にぶち当たった。
結局、仕事の予定を急遽変更して他の荷物を明日の仕事に回したというのに更なる問題が発生した。
「………」
少女は何も話さなかった。
何を訪ねようとただ五月をジッと見つめるのみだった。
どうしようもない。
宥めすかしても褒めそやしても無駄。
少し怒ったふりをしても、このまま途中で放り出そうかと脅しても無駄。
全て見抜かれている。
五月にはそんな気がした。
反応らしい反応と言えば、話を聞いている最中にお腹が可愛らしい音でクゥと鳴った事くらいで。
ほぼ降参したも同然に海苔弁と鮭弁をコンビニで買い。
少女を連れて倉庫まで戻ってきていた。
「………」
渡したタオルで全身を拭った為、少女はもう濡れていない。
それでも艶々とした黒髪は室内の微妙に暗い電灯の下で光を照り返している。
端整な顔立ちにしても細い手足にしてもお人形と言われて頷けるような容姿だ。
紅茶でも飲んでいれば絵になるのだろうが、生憎と部屋にはコーヒーしかない。
コトリと海苔弁を口に運んでいた割り箸が弁当の空の上に置かれた。
「………」
寝台に座ったまま少女がジッと五月を見つめる。
夜の日課である中古市場へ流す遺品の選別もせず。
椅子に腰掛けて誰かと向かい合うなんていつぶりだろうかと。
五月も少女を見返した。
良いところの出だろうとは思うものの、それにしても少女には現実感というか生活感が欠けている。
箸の上げ下げ。
弁当を食べているだけ、のはずなのだが、その行為一つにすら何か慣れぬ事をしているようなぎこちなさがあった。
それだけならばまだしも常識というものが妙に欠落しているようにも見える。
出会ってすぐ。
少女は割れた硝子が散らばる庭を歩こうとした。
五月が動かず待っていろと言わなければ、ザックリと足裏をやってしまっていただろう。
他にもどんな言葉を投げ掛けられても平静な顔をして相手を見つめ返すなんて事、普通の人間には難しい。
それこそ感情が無いとしか思えないくらいには少女の平坦な反応は異常だ。
一言も喋らないというのは人間にとって、かなりの忍耐がいる作業なのだ。
「いい加減住所とか教えてくれると助かるんだが」
「………」
少女は何も言わず。
しかし、少しだけ変化があった。
チラリと視線を自分の服に向けたのだ。
「?」
その細い手がゴソゴソと服のポケットを漁ると木の枝で編まれた小さな鳥籠が出てくる。
スッと手が差し出された。
「返しに来たのか?」
答えは無い。
それでも少女が自分の手で鳥籠を差し出した事には意味がある。
五月が受け取ると少女が弁当の空を寝台横に置いて立ち上がった。
そして、そのまま窓に向かって歩き出し、その足を窓際に―――。
「待った!!?」
あまりにも自然な動作だったので見逃してしまいそうになった五月が片手で少女の手を掴んだ。
「………?」
少女が振り返って怪訝そうな顔をする。
「いや、そんな顔されても」
とりあえず少女を引き戻して両手で寝台の上に座らせた五月が椅子に腰掛けて溜息を吐いた。
これからどうしたものか。
この年で未成年者略取なんて罪状を科されるのは御免被る。
何故、アイ・キャン・フラァアアアイをかまそうとする。
そもそもどうすれば自宅に帰せる。
「はぁぁぁ」
同じような事があれば、誰だって五月と同じ息を吐く事だろう。
だが、かと言って、そのまま少女を警察署に連れて行けば、怪しい奴全開。
言い訳もかなり苦しい。
警察にコネがあるとはいえ、当てになるかどうかも分からない。
それ以前の問題もある。
(アレと関係、あるよな)
五月が目を細めた。
人間のような何か。
アレが逃走したルート上にいつの間にかいた、という時点で少女は今回の件と関わっていると見ていい。
怪しいのはまだいいが、何かしらの危険に晒されるかもしれない事を考えると安易に何処かで放すという選択も出来なかった。
「何か知らないのか?」
そう五月が聞いた時、寝台に座らされた少女は、
「え……」
寝ていた。
「おいおい」
神前遺品整理倉庫にお客様用の布団なんてものは存在しない。
一つ切りの寝台を占領されれば、残るは生暖かい床だけだ。
それにしたって朝方の冷え込みは厳しい。
「しょうがない、か」
厳しいが少女をそのまま床に寝せておけるわけもなく。
五月は薄いタオルケットを少女の上に掛けてパソコンへと向かい合った。
「まずは病院からだな」
蛸足配線の主電源を入れて立ち上がったデスクトップのアイコンがクリックされる。
久方ぶりに長い夜が始まりつつあった。
*
翌日の午前中。
五月は再び少女と出会った病院へと出向いていた。
夜中まで掲示板やサイトを回って少女の痕跡を探し、更には医院長や病院の事に付いて最低限の下調べをした結果だ。
少女の事は分からなかったものの、医院長についての情報は幾つか収穫があった。
注目した情報は病院の評判を書き込む掲示板での医院長個人への評価だ。
あまり口数が多い方ではなかったものの、親身になって患者を救っていた。
そう書き込む者が大半だった。
別に病院の工作という事は無いだろう。
複数の掲示板や患者がやっていると思われるSNSの場でも同様の情報が転がっていたのだから。
そして、その評価の中に一つ引っかかる情報があった。
医院長が孤児院によく顔を出していたというのだ。
それが何処かまでは特定出来なかったものの、TVで報道される様子も無い少女の出自を考えて、五月は病院での情報収集に当たる事にした。
少女を知る者がいなくとも、医院長の贔屓にしていた孤児院に関してなら何らかの収穫があると見込んでの事である。
「………」
少女は五月の横で相変わらずケロリとしている。
朝、出された朝飯をペロリと平らげたわけだが、月末の切実な食費がマッハだ。
まずは事務で適当な事情を話して、四階の現場を再び見ようと病院裏に回った時だった。
――――――がうぇげががあああああああぎぇえええええがあああああああ?!!!!!!!!
この世のものとは思えない声がした。
五月が少女を連れて声のした方へ急ぐかどうか迷う。
「なッ!?」
少女の背中が走り出していた。
気付いた時には数mの差が開いている。
慌てて駆け出しても、まるで飛んでいるように滑らかな少女の足に付いて行けず。
五月は声を掛けて静止しなかった。
今までの経験から言っても少女は止まらない。
それならば自分も同じく走って追い付くしかない。
そう感じたのだ。
(クソッ!? 速過ぎる!!)
どんどん距離を離されながらも五月が冷静に声のした方角に何があるか思い出す。
駐車場。
だが、そんな人目に付く場所で何があったのか。
前日のアレが脳裏に過って。
五月は声の主が無事である事よりも、曲がり角を一足先に抜けた少女が無事である事を願った。
数秒遅れで角を曲がった五月が目にしたのは救急の入り口に止まる救急車と内部にストレッチャーへ縛り付けられ運ばれていくスーツ姿の男の姿。
少女はその様子を遠巻きにして止まっている。
何事かと駐車場付近で人々が驚きに入口を見つめていた。
(あれは……確か……)
未だに何かを叫びながらストレッチャーで運ばれていく男が完全に見えなくなったところで少女が五月を振り向き、トテトテ歩いて戻ってくる。
「足、速いんだな」
息を整えて、そう愚痴を漏らした五月だったが、指先に違和感を感じた。
真横で細い指が五月の指先を握っている。
「……」
どんな心境の変化なのか。
勝手に走り出した事を悪いと思ったか。
あるいはアレが怖くなったか。
どちらにしろ。
近くにいるに越した事はない。
「行くか」
動悸が治まったのを見計らって五月が歩き出すと少女もそれに従った。
五月が少女に離れて待っているように諭して事務室へ赴くと何やら騒がしい。
訝しむ事なく。
五月が事務の人間に声を掛けた。
するとおばさん事務員がやってきて、少しお待ちくださいとの返答。
「どうかしましたか?」
「いえ、その、それが……」
答えを濁されたものの、その答えをもう五月は知っている。
病院の現場に来た日。
五月を四階のあの個室に案内した事務員。
それがあの人間とは思えぬ絶境を発し、救急車から降ろされた患者だった。
「そう言えば、さっき大きな声がしてましたね。チラッと見かけたんですが、此処の方だったような」
「え、えぇ。実は……」
「いや、驚きました。“あの部屋”に忘れ物をしてしまって、取りに来たんですけど」
「あ、あの部屋!?」
おばさん事務員の顔が引き攣る。
「どうかしましたか?」
「い、いえ。あ、あのまさか、“あの部屋”の遺品整理をした方でしょうか?」
「ええ。先日の作業の時に道具を落としてきたみたいで。もう一度あの部屋に入る許可を頂きに」
「そ、そうなん、ですか。え、ええ、構いませんよ。鍵は掛かっていないはずですので。終わったら、そのまま帰って頂いて結構ですから」
「分かりました。では、失礼します」
明らかに動揺している。
それが何故かは問わず。
五月は許可を取り付けて、そのまま待っていた少女と合流してエレベーターへ乗った。
朝の病院は何処も彼処も人で溢れている。
だが、ムシムシした天候にも関わらず、今朝は大勢が何か一枚羽織っている様子で、Tシャツ一枚のような出で立ちの若者が腕を摩っていた。
四階の奥。
あの部屋が近付いていく途中。
少女を観察して。
五月は訝しむ。
何か変化があるかと思っていたのだ。
しかし、何も変化は無い。
「付いたな」
薄桃色の扉の前で一時立ち止まった五月が躊躇なく、開いた。
ふわりと白檀が薫る。
室内は五月が最後に見た時と同じ香りに満たされて、何も変わった様子が無かった。
そのまま歩みを進めても変化は無い。
「………」
不意に少女の指が離される。
「!」
ぽふん。
少女が寝台へダイブした。
五月が途中で買い与えたスニーカーを脱ぐ事もなく。
「何、してるんだ?」
枕に顔を埋めて。
キュッと端を握り締めた手。
震えていないのに何故か。
背中に痛ましいものを感じて。
五月はそれ以上声を掛けられず。
(この寝台の主と仲良かったのかもしれないな)
何の根拠もない予測だったが。
それでも離れ難く枕へ顔を埋める少女の姿に誰もがそう感じるだろう
「行くぞ」
「………」
しばしの沈黙。
ずっと、そのままのようにも感じた少女が手を離して。
寝台の上で真っ直ぐに青年を見上げる。
その瞳。
その表情。
何も映さない硝子玉のような漆黒。
けれども、その奥に確かな色を五月は見た。
「助けてあげて」
「誰をだ?」
初めて発した言葉。
お前喋れたのかとか。
何故、黙ってたとか。
言う事は他にもあったはずだったが、五月は自然とそう問い返していた。
「………」
再びの沈黙の後。
少女が寝台から降りて立ち上がり、手を差し出す。
「あげる」
(鳥籠、持って来てたのか)
五月が手に受け取った瞬間、少女が急に走り出した。
「おい!?」
スルリと五月を擦り抜けて。
今まで鳥籠を持っていた手が部屋の空きっぱなしの扉を閉める。
慌てて追いかけようとしたものの、そこで初めて五月は扉の動きに僅かな違和感に気付いた。
それに気を取られたのが一秒弱。
扉を開けて飛び出した頃にはもう廊下も静まり返っていた。
鳥籠を握り締めた手に僅か力が入る。
(誰を助けて欲しかったんだ。お前は……)
消え失せた少女の残滓への問い掛けは虚しく。
結局、病院中を回っても少女を再び発見する事は無かった。
*
夕暮時。
曇天が支配する世界の只中に軽トラを止めて。
五月は一人薄暗い車内で片付け終わったノートの何冊かを捲っていた。
少女が病院で突如走り去ってから聞き込みをしたが足取りは掴めなかったのである。
半ば捜索を打ち切り、午前中には医院長の贔屓にしていた孤児院を突き止めたが、病院近郊の其処は既に閉鎖されていた。
ずっと呆けているわけにもいかず。
前日の仕事の半分を片づけに医院長宅に出向いたのが午後一時。
変わらずリビングの窓硝子は割れたまま、少女をくまなく探したが発見には至らなかった。
仕事を終えた五月に残っているのは倉庫までダンボールの山を運ぶ事のみ。
それでも孤児院を突き止めた事で幾つかの収穫があった。
一つは孤児院の経営者だった老夫婦の家を突き止めた事。
そして、孤児院の経営者の苗字が医院長のものと同一だった事。
これを鑑みて五月が佐武にそれとなくメールしたところ。
返ってきたメールの件名は“他言するなよ”というもの。
曰く。
医院長はそこの孤児院の出だった。
曰く。
多臓器移植の患者の中には孤児院の子供も含まれていた。
そして、孤児院経営者の老夫婦が臓器密売に何らかの形で関わっていた。
更に夫の方は重度のアルツハイマーで話せるような状態ではなく。
妻の方は医院長のいた私立病院で既に死亡している。
この情報と妻の名前を得た時点で五月には朧げに自分が関わった事の全容が見えてきていた。
そうして、事件の最後のピースを埋める為、軽トラを閉鎖された孤児院横で止めて医院長のノートを読んでいたのだ。
「やっぱりか……」
五月が睨んだ通りの結果にノートを放り出す。
読み方さえ分かってしまえば、内容が本当はどういうものなのか知るのは容易かった。
基本はノタリコン。
文や単語の連なりの頭文字を取って新しい単語を作り、単語からもとの文や単語の連なりを復元する術。
それの応用でノートの文章は綴られていたのだ。
ハッキリ言えばお粗末な暗号というやつである。
最初はそんな仕掛けがあるとも思わず読んでいた為に見逃したのだろう。
しかし、本式のソレを学べるような国ではない日本において無駄な労力を費やし、隠さなければならない情報というものが普通であるはずもない。
(一代でこの域に到達する努力家もいるわけか)
虚仮の一念岩をも通す。
本来、ただの医者であったはずの男が人生という短い時間の中で辿り着ける境地ではない。
そこにどんな努力と血の滲むような研鑽があったのか。
今となっては分からないが、尋常ではない苦労があった事だけは五月にも理解出来た。
「行くか」
まるで全てを覆い隠すように霧雨が降り始めて。
五月はノートを持ったまま針金で封鎖された門の内部。
孤児院へと入り込んだ。
壁を超えて広い庭の中央まで歩いていくと、その耳が小さな音を拾う。
病院に叫びながら運ばれた事務員の男の事を思い出して。
「……」
五月は顔を顰めた。
正面玄関に回ると案の定。
鍵が壊れている。
建物内部に入り込むと小さな音はより大きく聞こえるようになった。
タ…ウレ…テ。
そんな言葉の連なりが幾重にも輪唱するように響き始めて。
ほぼ暗がりの廊下を五月は迷う事なく通り抜ける。
音楽室。
教具室。
職員室。
そして、一番奥の壁際にある給食室。
鍵は何処も彼処も壊されている。
開ける事には何の苦労も必要としなかった。
唯一、必要としたものは覚悟のみ。
それも首を突っ込んだ時にもう決まっている。
ガラリと戸が横に開かれて。
ピチャピチャと何かを啜る音と暗がりで蠢く者を五月は発見した。
部屋の中央にあるステンレス製と思しき大きな台の中央。
幾つかの“ブロック”が呻いている。
そして、その“端材”と思われるものを持って齧り啜る者が一人。
「こんばんわ。“ママ”さん」
「!」
ギュルリと影の首が百八十度回った。
爛々と輝く赤い瞳が二つ。
グチャリと手に持たれていたソレが落ちて。
その赤黒く鋭く変質した両手が顔面を覆うように隠す。
「そこの連中“彼”の協力者か何かですか?」
「?!」
その驚きようから察して当たりに違いない。
「読ませてもらいました。コレを」
ノートを放られて地面に落ちると影がソレを拾う。
「何冊か読んだだけですが、大概の事は書いてありましたよ」
影がノートを握り閉め潰すように拳を震わせる。
「も、をせ。燃やせって意味だったんですね」
「 」
人為らざる者。
それがもしも潜むなら何処がいいか。
人の眼に付かず。
人の意識にも昇らない。
そんな場所が選ばれるはずだとの五月の考えは正しかった。
“彼女”がずっと見守ってきた場所。
今は亡き世界。
それは何処か。
正解は一つしかない。
「彼がどうしてそんな事を始めたのか。こちらには知りようもありませんが、結果だけなら想像が付きます。彼は貴女達に恩返しがしたかった。きっと、それだけのはずですよ。例え、方法が人道に反し、貴女が伝えた優しさに反し、世の理を犯し、怨まれるのだとしても、彼にはそれしかなかった。ソレには彼の苦悩も書かれてありました。きっと、自分はどちらかに殺されるだろうと」
「!!?」
影が今まで握り締めていた手を開いて、ノートを見つめる。
「今の貴女の姿は彼にも想像出来なかった事です。完全な予想外だと書かれてありました。たぶん、貴女はあの護符くらいしか自分の血統について知らなかった」
「 わ、おしは 」
掠れ変質した違和感を感じさせる声。
それはもう殆ど人間を止めてしまった者の音色だ。
「あの部屋に張ってあった護符。あれは現存する牛玉宝印のどれとも違った。あの戦争で失われた寺社のものというのは簡単に推測出来ました。彼もまさか、あんな方法で自分を抑え付けるとは思ってもいなかったでしょう。だから、彼女は貴女とは別のアプローチで“治す”事にした」
「ッッッ!!!」
ノートが一瞬にして握り締められた拳の間で破れ散る。
「護符は全て内向きに張られていた。本来の誓約を書く場所は黒く何度も塗り潰されて見え難かったですが、数枚なぞって何とか読めました」
朱く輝きを増す瞳から一粒雫が滴る。
「死なせて。護符にはそう書かれていた。あれは自分を抑え込むと同時に嘆願でもあった」
「ぅ ぅう ぁ゛あ゛ ぐぅ゛う゛ぅ゛」
もう人らしさすら零せない瞳の光が揺らめく。
悲哀も諦観も絶望も超えた血の恩讐に絡め取られて。
「彼に一つだけ同情する点があるとすれば、人を救う為に求めた技術が人外魔境の技だった事。人の犠牲の上にしか成り立たなかったという事です。そして、貴女に同情する点があるとすれば、それは貴女が本来は鬼の末裔であった事だけだ」
「 お、に ?」
「そういう家系も戦前にはあったと話に聞いた事があります。人が鬼になると同様。鬼もまた人になる。血筋に鬼が出ても、貴女の祖先は人として生きたかった。故に貴女の家系に伝えられ残った牛玉宝印はそういう誓約の名残なんでしょう」
「 わ、あし おに゛ 」
「自然に到達する者は現代では皆無に近く。また、家制度が崩壊しつつある日本で伝統や異質を残すのは更に難しい。数世代を掛ければ血筋すらも問題なく薄まるはずだと廃業する同業者も多い。でも、偶に貴女のような人間が出てくる。過去の因習の被害者が」
「 いが、ひしゃ ?」
「貴女がそうなったのは貴女のせいじゃない。あの子がそうなったのもあの子のせいじゃない。彼に一代でここまでのものを築く才能が無ければ、何一つとして問題は無かった。貴女は死に、彼は失意に暮れて引き継ぐ者もない研究も止め、あの子も安らかに息を引き取るはずった」
五月がそっとポケットから小さな鳥籠を目の前に差し出した。
「 ぞれ 」
「あの子は言った。助けてあげてと」
「 ぁ゛あ゛ あ゛ あ゛ぁ゛ 」
何を後悔したか。
何を思い出したか。
何を叫ぶか。
人為らざるまま、彼女は啼く。
「人はいつか死ぬ。避けられぬ運命を誰もがやがて享受する日が来る」
五月が近付く。
今や浮かぶ輪郭にはハッキリと角が浮き出ていた。
「それを越えたいと願うのも医療の発展に尽すのも医者の本分なんでしょう。それを誰も責める事は出来ない。誰だって心の底では願ってる。どんな風になっても死にたくない。まだ生きていたい」
近付けば見えてくる。
彼女の顔は何を呪ったのか。
歪んでいた。
怒りに憎悪に哀しみに苦しみに。
だが、何よりも己への嫌悪に。
「否定はしません」
服の切れ端を残したままの姿。
鬼が纏うのは擦り切れ薄汚れた寝間着。
何に染まり黒く、何に染まり赤いのか。
問うまでもなく。
「でも、見送る者が在る限り、見送られぬ者はきっと無い。あの子が貴女を見送ろうとしたように」
ツナギのポケットから五月が小さな札を取り出す。
それは牛玉宝印の護符。
彼女が使ったもの。
しかし、ただの
本当に全てを理解する者が刷り上げ、力を込めた退魔の力持つ品だ。
「人を呪い、憎み、戮し、喰らい。そして……人故に人を捨てた時、人は真の鬼となる」
彼女は見る。
自分の前に立つ青年を。
それはどんな形をしているのか分からぬくらいに禍々しく。
人の死後を蒐集してきた者にしか解らぬ深さを持っている。
女が鬼だとすれば、男は青年は遺品整理業を営む高殿五月は一体何だと言うのか。
闇より尚深きもの。
夜より尚暗きもの。
「オレと貴女みたいなのは時間と一緒に過去へ置き去りにされていくべきだ」
彼女は知る。
青年が何かを。
ああ、それは彼女が殺した彼以上に皺枯れた声で。
己と同等以上に人として“どうにかしてしまった”声で。
「今更、深き宵を語る時代でもない」
だから。
と、青年は言った。
―――終わりにしましょう。
伸びる五月の手が振り払われた。
それは彼女の意識に関わらず。
本能とも呼べる判断だった。
いや、もうそれは彼女の意識を侵食する呪いそのものだったかもしれない。
まだ、呪い足りないと彼女自身がもう思ってしまっている。
自在する呪いの別名は祟り。
全てを虐する人の世の
「ぉ゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛ッッッッ!!!!!!!!」
雄叫びが上がる。
2m以上に渡って伸び、膨れ上がった腕で、一帯が薙ぎ払われた。
巻き込まれた“ブロック”達が全て砕け散り、壁が爆砕し、衝撃が孤児院全体を震わせる。
庭に面する教室。
その硝子を破って間一髪粉々になるのを回避した五月が庭に転がり出た。
「遅かったか……」
それを追って彼女は間を隔てる壁も戸も窓枠も突き破る。
弾ける木片。
千切れ跳ぶヌイグルミ。
安置されていたピアノが不協和音に砕けて物悲しく鳴る。
「お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!」
常人に数倍する膂力で彼女が己の周囲に散らばる瓦礫を掴み上げ、弓なりに腕を引いた。
「?!!」
五月が横っ飛びに回避した次の瞬間。
ショットガンの散弾もかくやという勢いで、今までいた場所の背後。
ブロック塀が粉微塵になって消し飛ぶ。
(しまった?!!)
五月が片手に持っていた札が半ば千切れた。
形を完全に失ってはいないとはいえ、半端なもので本当の鬼に対抗出来ると考える程、五月は甘くない。
その動揺。
一瞬の隙を見計らっていたのか。
もう片方の腕が溜めを置かずに握った瓦礫を五月に投げ付けた。
頭部と胸部を庇う形となった五月の腕と腹と足に無数の破片が突き刺さる。
「ぐッ!!?」
足への傷。
次の回避行動に移れない。
それが致命となった。
もう片方の腕がまるで孤児院の屋根の端を飴細工でも千切るように掴み取る。
(まずい?! あれはさすがに!?)
幅が数メートルもあるものを避けられるわけがない。
全ては万事休す。
振り上げられた破片が五月の肉体を押し潰そうと落下し。
何もかもが終わりを迎える寸前。
「 !!? 」
鬼の動きが、止まる。
「出て来るな! もう其処にいるのはッ、ぐッ、ごほ!? ぐッ!」
黒尽くめの少女がいた。
青年を庇うように大きな彼女の前にして立ちはだかっていた。
精一杯腕を横に広げて。
泣かないように。
零さないように。
瞳をキッと吊り上げて。
「 ぁあ゛ ああ゛ 白堊 わをし さいぎょ せイと 」
鬼の瞳。
紅い、朱い、その血の色に、理性が通う。
「止めよう」
腹部と大腿部からの出血と激痛が五月の意志を辛うじて繋ぎ止める。
「もう、だめ」
止まった腕がガタガタと震え出す。
「だめ」
今にも押し潰してしまいそうな祟りと人間の狭間で揺れ動く。
「避けろ!? 馬鹿!!」
拘束具でも弾けたような筋肉の断裂の末。
垂直に振り下ろされる死から五月が少女を庇って跳んだ。
後ろや横にではなく前に。
「?!!!」
グシャリと屋根の切れ端が地面にめり込み、少女を抱えたボロボロの五月がまだ握っている護符を拳で腹へと叩き込む。
一瞬の膠着。
慣性や重力を無視して、巨躯が残ったブロック塀まで弾け飛び、激突。
濛々と灰煙を上げた。
「お前。死ぬぞ」
五月の声にそれでも少女は言った。
「助け、たいッ!!」
「………アレはもうお前の知ってる誰かじゃない。人を呪い、呪われ、祟るもの。それでも助けたいと、救いたいと思うんだな?」
躊躇なんて無く。
少女はしっかりと頷く。
その時だった。
ふわふわと少女の身体が五月から離れて浮き上がる。
「!?」
戸惑った様子で己を見る少女の身体が薄らと白くなっていく。
「そうか……人を捨てて尚、人が人であるように。あんたも捨てられなかったのか」
五月は全ての元凶たる男の最後の細やかな善意を感じていた。
少女がゆっくりと形を失い。
そして、光り輝くものとなる。
それは小鳥。
真白の鴉。
それはもはや人体の改造、人の進化、あらゆる老いを病を怪我を克服する技ではない。
人を人から外して尚、人であるように選択した男は希望を残したのだ。
人外の秘術と外道を極めんとして尚、最後の選択を誤らなかったのだ。
だから、少女は今も少女のまま、舞い上がる。
「神創る者もまた人である、か」
五月が知る限り、人が人より高みに昇った存在はたった一つの言葉で呼ばれる。
「聞け。お前はもう人間じゃない。だが、あの人を助けたいと願うなら、人のまま、お前のままで伝えるんだ。その気持ちを。呪いも祟りも最後に晴らすのは人なんだからな」
小鳥が啼く。
何とか立ち上がった五月が前を向くと煙の中から巨躯が突撃してくる。
「来たれ。その身を白に染めしもの!!!」
未だ五月の片手の中にある鳥籠の扉が開いた。
耀きがその中央に吸い込まれ、座す。
「
鬼の拳が五月の上半身を破砕するより先に刀印が作られ、九字が切られる。
「啼け。
九字によって区切られた世界に穢れたる鬼が阻まれ、一瞬の隙を生み出す。
鳥籠から耀きが飛び出し、鬼の正面で舞った。
それはどんな気持ちだろう。
己を育てた者への感謝か。
共に苦楽を共にした者への恩返しか。
分からずとも。
一つだけは誰にでも理解出来る。
それは今も苦しむ大切な人への祈りだ。
「
虚空に焼付いた印はこの世にただ一つ。
彼女が捧げる命の軌跡。
「臨兵闘者皆陣列在前・人」
最も人が知る九字ならば、一文字を加えて陣と成し、
切られた九字によって印が巨躯に転写された。
――――――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛?!!!!
抵抗する怨念に五月は背を向けて。
大人として最低限の常識というやつを忠告する。
「最後くらい笑ってやったらどうなんだ。あんたそれでも人の親なんだろ」
「 」
叫びが消えたのは存在が消えたからではない。
彼女が思い出したからだ。
自分をこんなにした男が人を救いたいから医者になると言った日の事を。
最後の娘が自分の事なんて気にせず毎日のようにお見舞いに来てくれた時の事を。
「……ありがとう……倖せにね……先に行って待ってるわ」
青年は最後まで振り向かなかった。
ただ、背後で崩れ落ち、泣き出す子供の声だけが、夜に響き渡っていた。
いつまでもいつまでも。
無言の間を満たすように……。
「本日は、お疲れ様でした」
その日、一夜にして倒壊した孤児院の周辺で殺人事件が発覚した。
被害者は全員が数日後に世間を賑わす臓器売買の首謀者達。
TVに連日連夜事件現場である病院が映し出され、とある警官がてんてこまいになったが、それはまた別の話である。
*
「おう。さっちゃん。今日も元気かな? こっちはもうダメだ。辞表提出が近いような有様なんだよコレが。これがって言うかオレがなんだが、それにしてもどうしてオレにばっかり仕事が振られるんだ。捜査本部の連中仕事してるのか。バカヤロー過労死したら訴えてやる。ははははははは、は、は……」
わざわざ蒸し風呂みたいな猛暑日の倉庫で愚痴って椅子にひっくり返る佐武に五月は溜息を吐いた。
臓器密売事件が明るみに出て、尚且つ被疑者の殆どが全員謎の死を遂げたのだ。
殺されたのは分かっても、殺され方が異常過ぎて、もう何が何やら分からない状態らしい。
真っ先に軽トラに乗っていた五月が疑われたらしいものの、まったく殺害の動機に乏しいという事で無罪放免になったのがつい二日前。
傷は浅いが未だ服の下の包帯は取れていない。
愚痴る佐武の活躍が無ければ、無実の罪で数週間は拘留されていたかもしれないという事実に基づき、五月は出す品をサイダーではなく、こっそりネットオークションで買っておいた外国製のジンジャーエールに変えていたりする。
「とりあえず気になるだろうからTVで言ってる程度の情報は伝えておくが、中核だった被疑者全員死亡の上で書類送検。それから密売ルートに関わってた医院の関係者を何人か逮捕。だが、容疑の殆どが知らぬ存ぜぬで通せるものばっかな上に中核だった連中の死亡で事件は闇の中。書類が残ってないのも痛くてな。被害の実態がまるで分からん。唯一何かを知ってそうな孤児院経営者の夫は喋れる状態じゃないと医者に言われたよ。事務職の男は今も錯乱してて精神病院行きだそうだ」
「へぇ」
興味も無さそうに五月が運輸業許可の営業実績書類を書き上げていく。
「結局、悪人は死んだが被害者の規模が分からない。外国からは非難轟々。とりあえず厚生労働省と外務省が被害者支援に乗り出すとか何とか」
「TAIHEN、だね」
「労働基準法違反な残業させやがって署長の野郎!! 今日はさすがにもう帰るが、あんまり怪しい事すんなよ。ただでさえ怪しい怪しい言われてるんだからな!!」
「個人の遺品整理業者なんて皆怪しいだろうに」
「手、洗えよ。歯、磨けよ。宿題しろよ。というか、オレの休日が無えよ!!?」
最後までテンションが変な方向に突き抜けた佐武がヒャッハーとアウトロー風味に倉庫から退場し数分。
ようやく業務を終了した五月が肩を回しつつ、黒檀の机上に置いてある小さな鳥籠を見る。
「そういう事らしいぞ」
反応は無い。
そのまま五月は倉庫内の電灯を落としに立ち上がった
「………」
後ろに気配を感じつつも歩みは止まらない。
「お腹空いた」
黒尽くめの少女がポツンと机の上に座って呟いた。
「今月は厳しいんだが」
五月が再び電源傍に向かうと何処か不満そうな声が返る。
「海苔弁」
振り返れば、そこには誰も居ず。
そのまま電源を落とそうとした背中に再び声が掛かる。
「海苔弁」
立ち止まって。
月末ギリギリの金欠状態で二人分の食費が賄えるか。
そう試算した頭が弾き出した答えは至極単純なものだった。
「サンドイッチでいいか?」
カチリと明かりが消される。
「五月。ありがとう……」
コトリと小さな扉が閉まる音。
「別にいいさ。その分働けばな」
闇の中。
青年は苦笑しつつ胸ポケットに小さな鳥籠を入れて外へと向かった。
机上にクシャクシャな護符を一つ残して。
病院の扉の奥。
一枚だけ挟まっていたソレにはただ。
あの子達が幸せでありますように。
そう書かれている。
『ガス欠………はぁ…』
月末の食事が卵サンドになる未来が少女の幸せだと言うならば、それも悪くないかと。
五月は山間のアスファルトを踏み締めて5km先のコンビニへ旅立った。
これが高殿五月の物語の始まり。
小さな小さな恋の始まり。
終わりの先で終わらぬ者達の新たなる死と出会いが芽吹き始める。
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