2
二
俗物的に物事を考えてしまえば詰まるところ、あの女も私に呆れ果てたとでもいった所なのかもしれない。誰もがこのままふらふらと独り身を貫きそうな私の行く末を心苦しく案じているのだ。
確かに思い返してみればその責任も、あの女中頭にまったくないとまでは言い切れないのやもしれぬ。あれこそが私に女を教え、行き過ぎるほどに甘やかし、他の女から遠ざける壁とあり続けてきたのだから。
無論、万に一つもそれをあの女中頭自身が思い悩んだのだとすれば、それは的外れではあるのだけれど。
つまり私が婚姻に乗り気でないのはまったく別の事情による。そしてその秘め事は誰に語られることもなくこの身とともに冷たく堅牢な墓石の元に納まるのだ。
万が一にもそれが人に知られることと相成れば、私は世間に後ろ指を差されながら司法の裁きも待たず、忍びきれない恥に罪を贖い舌を噛みきって死ぬのだろう。
どこかそれを心待ちにしている自分がいる。
私はその夜分、邸内を突き抜けて裏奥の一等古い書庫に向かっていた。寒さが床から足の裏に染み入り、肺まで真水で洗われるような心地の真夜中であった。ランプの細い明かりの下、自室で書きもの仕事をひとつやっているうちに学生の時分に読んだ覚えのある書物を当たる必要ができたのだ。滅多に足を運ばない屋敷の隅側には物置を兼ねた部屋がいくつかあり、今の職についた時、もう使わないと判断したものはそこにまとめて放り込んだものと記憶している。
視線を感じて振り返った。
廊下は薄暗く、手元の灯りを掲げても廊下の端々の焦げ付いたような闇の先までは視界が至らない。されど何者かが声を潜めて息づくような音のみがかすかに聞こえた。そういえばこちら側には女中らの寝泊まりする部屋がある。夜も更けるとはいえ厠に立った誰かに怪しばまれたのやもしれない。
想像するに女中の方とて家のものを盗人と勘違いしたなどと申し開きするのは気の滅入ることなのであろう。となれば咄嗟に隠れるようであるのも仕方ないことだと思う。
私はその女中にどことなく申し訳なく思いながら書庫の方へと足を進めた。
されど、その気配はぴったりと私のあとを付いて来た。
気付かないふりをしながら、流石に訝しむ。私であると気付かなかったのだろうか。もしや女中でなく背後の彼こそが盗人であるのやもしれない。されど隠しきれぬかのようにこぼれ落ちる気配は間違えようもなく若い娘のそれだと思われた。
さてどうしたものかと思われていたところに、思いがけなく目的の書物部屋にたどりついてしまう。当初の用事をさっさと済ませて退散してしまう方が得策であると考えた。
入ってみればそこでは埃臭い絨毯張りの床に書棚がところ狭しと列べられていた。申し訳程度にそれぞれの隙間に人の入る余地は残されているが、それでも尚狭い。いくらかの掃除はされているらしく、衣服を汚す覚悟をしていた私は安堵した。
件の書を探した。それは無名の学者が記した、取るに足らない田舎村に伝わる怪異の記録を書き写したものだ。確りとした論文には引けまいが、生徒らの興味を引く枕くらいにはなるだろうと思われた。
「誰だい」
予想よりもなかなかそれは見つからず、尋ねる私の声は思わず苛立った声音になってしまった。されど扉の向こうに佇んでいた娘は、却ってこちらの心が鎮まるまでに落ち着き払った声で返事を寄越した。
「申し訳ございません」
***様の影が見えましたもので。
それは私が耳にしたことのない儚さを持った声であった。私の名を流れるように唱えたことから少なくともこの家に住んでいる者だと判じたのは、早計に過ぎただろうか。
「驚かせてしまったかな、探しものをしているだけだよ」
「お探し致しましょうか、私めは普段ここの掃除を任されていますから」
すぐに探し出してお目にかかりましょう。
私はしばし躊躇った。時間が時間であり、彼女らの朝は早い。けれど望まずともここまで連れてきてしまったのは私であるようだし、下手に断って閨に帰してしまっても却って気にさせてしまうやもしれない。それに娘の言葉がその通りであるのなら、私が探すより遥かに早く目的のそれは見つかるだろう。
そう考えた私は、ひとつ頷いて扉の向こうへ声をかけた。
「それじゃあすまないけれど、頼まれて少し夜更かしに付き合ってくれるかい」
「構いません」
私は書の題を口にした。
「ただし私も一緒に探させておくれ」
その言葉に戸惑うような間を置かれる。
「お部屋でお待ちくださっていればすぐにお持ちいたしますが」
「二人で探した方が早いだろう」
幼い声は静かに呼応した。微かに扉の開く音がした。彼女は逆の端の書棚を探し始めたようだった。
「椿です」
名を尋ねれば、未だその姿を確りと見ない彼女はそう答えた。その名は予感した通りであった。
「聞いているよ。今日からよろしく」
「勿体無いお言葉です」
「顔を見せてはくれないかい」
椿は黙り込んだ。迷っているといった様子ではなかった。本を取り出しては題を確かめて戻す音が止まず聞こえる。
「貴方様は悲しいお人ですね」
そして娘は思いがけなく私を哀れんだ。唖然とする。自分でも意外なことに、その言葉は私の芯の部分を握り潰すように苦しませ、大いに狼狽させた。恥辱さえ覚えたその声も、きっと震えていたに違いない。
「……顔も見せないお前が、私の何を知っていると言うつもりだい」
「すべてです」
怒り混じりのそれは水を掛けたように容易に立ち消えてしまった。思わず言葉を失った私に、彼女はその証とばかりに突き放す。
「貴方様の罪なんて取るに足りません」
さて、その娘の指した罪が私の思うそれであるかはいざ知れず。自分が惚けることさえ許せずに私はただ答えた。
「どうあろうと私の罪は赦されないよ」
「赦されます」
私はそのために貴方様に仕えるのですから。
聞こえさせるつもりさえない囁き混じりに書棚の影から袖を引いた手だけを伸ばし、古びたそれを差し出した。間違いなく私の探していた書であった。
書物を支えられることが不思議なほどに細いその手首を引き寄せてしまおうかとつかの間迷う。
その躊躇いさえその女には隠しきれなかった。
「下女の寝惚け顔なんてつまらないものですよ」
結局は黙ってただ本のみを受け取った。
「占いが得意なんです」
おやすみなさいませ。
そして私だけが取り残され、扉をすり抜ける布擦れの音が聞こえた。手渡された古びた紙の香りに混じって、仄かに長らく忘れていた若い娘の匂いがした。
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