第171話
「わっ……」
誰もいなくなった内裏は物音ひとつなく、夜が明ければ皇族同士の殺し合いと報告されるだろう死体が散乱したまま、その中でただ一箇所、生者のいる建物が僅かな足音さえ発さなくなった頃、アリシアは藤壺の裏口からこっそり忍びこんだ。絶対気付かれると思っていたのだが、意外にも何も起きないまま寝室へ辿り着いてしまい、ロウソクほどの弱い照明が点く部屋の前に立つ。
案の定というか、ただの従業員でしかない彼女の小間使いでさえ例外ではなかった。殺された事にすら気付けなかったろう、廊下を挟んで反対側にある、布団に入ったままの首無し死体を見てしばし色々考え込み、その後ゆっくりと障子を開き中へ入る。
スズは自らの布団の上、両足を右に向けた座り方で、虚ろな目のままただ茫然としていた。足音を抑えたつもりは無く、そも普通ならば戸を開けた時点で気付くべきだろうに、部屋に入られてもなおアリシアに気付かず、数歩歩いて布団の横へ行き、そこで正座して初めてピクリと首を動かす。それから先は早かった、目は少しばかり光を取り戻し、涙を浮かべ、瞬く間に顔を歪ませていく。あの、と声をかける前に飛びついてきて、押し倒されそうになるのをどうにか踏み止まる。
「ごめ…なさ…!いきなり…!でも…っ!」
「構いませんから、好きなようにしていてください」
白いカーディガンを握りしめ嗚咽を漏らすスズの背中に手を回して引き寄せ、そのまましばらく、落ち着くまでじっとする。
触れる、とはまぁ、触覚という人体の構成要素は理解していたしセンサーで再現もしていたが、そういう事じゃなかったんだなとこの時ようやく理解した。震える彼女を抱きしめながら髪をすく形で撫で続けて、その間、数時間後に始まるだろう最後の事件について少し考える。違和感があった、ここまでの情報をまとめた結果と実際の現実が真逆だからだ。このまま行けば夜が明けた頃にはスズは殺され、妹がそうしたように、残された直臣は自らの長い年月を犠牲にしてでも復讐を誓うだろう。だがそうはならなかった、生き残るのはスズの方で、復讐譚を紡いだのは日依である。であればまだ終わっていない、彼女の心を縛りつけている悲劇はきっともうひとつ。
「ん……」
「大丈夫ですか?」
いや、これで大丈夫な奴は人間じゃないか人間をやめている、体を離して涙を拭う彼女は僅かに頷くが、それが本音だとはとても思えず、できれば今すぐ、夜明けを待たずにここから逃がしてやりたい、これが現実での話なら。
「スズ、あなたは」
「身近なものをすべて犠牲にするけど、広い目で見れば絶対にプラスになるって、言い聞かせてずっと黙ってた。……うん、今のもそうだし、知らないだろうけど、内裏に泊まった客人って、だいたい行方不明になってる」
「…………」
「あたしは……」
「いいのです」
戦士でも兵士でも、まして悪人でもない者が犯す殺人は非常に重いものである。仕方がなかったと慰めの言葉を並べる事はできる、100を守る為に1を捨てる行為は正しいのだと、軍人の思想でいいなら今ここで話してやれる。彼女の悩みはそういう事じゃ無いだろう、そんな話で癒える傷ではない筈だ。それに、いつからだったろう、自分自身でそれが最善だと思えなくなったのは。
だから一言だけ、享受してまた抱き寄せる。
「……何か、わかんないけど、すごく落ち着く」
「それは良かった」
赤くなった目を閉じ、体重を委ねてきた彼女の背中をゆっくり、寝かしつけるようにさすり続けてやると、そう経たない内に両腕から力が抜けていく。眠たそうな声を出しつつ、僅かに目を開けアリシアを見上げてきたスズへ微笑み、もう一度頭を撫でて。
「明日にはすべて終わります、もう少し。だから今は、眠りましょう」
「あした…は…どうしよ……も…やめないと……」
「はい、止(や)めましょう。それに止(と)めなくてはいけません」
「……できる…かな…」
「できますよ、自身を持って。手伝いますから、目が覚めたら、一緒に」
「…………」
静かに、安らかな表情で眠りについてくれた。起こさないよう寝かせて布団をかけ、小さなランプを消灯、立ち上がって、壁の小窓から外を覗く。
空はまだ暗く、夜明けまではまだありそうに見える。それから、眼前で起きている事があまりに強烈すぎてさっきまでは気付かなかったが、大樹の葉はすべて落ちて、白桃色の小さな花に覆い尽くされていた。差し渡し20kmに届くかという皇天大樹が隅から隅までそうなっているかと思うと途方もない気分になり、意図せず夜桜を観る事となったアリシアはしばらくそのまま、窓の前で立ち尽くす。
「……あとどれくらいですか?」
『およそ2時間、くらいだと思う。その時そこで何が起きたのか私は知らないからな、ただひとつわかっているのは、夜明けと共に1人が死んで、スズの戸籍は抹消される。たった2ヶ月の新婚生活は終わりだ、まぁ世の新婚さんが聞いたら笑い転げて窒息死しそうなひっでぇ話だったが』
「では待ちましょう。……日依、その1人というのが彼であるならあなたは」
『気遣いどうも、だが私の事はいい。結果は知ってるんだ、どんな死に方だろうと受け入れるさ。それとアリシア、ここまで時間を進めてようやく判明した事がある』
表現が見つからないほど美しかった、小窓から離れて障子を開け、縁側へ出てみてもそれは変わらず、夜風に吹かれて鳴り、舞い散る花びらをぼんやりと眺めながら日依の報告を聞き、その後ガタリと、アリシアの右横で何かが出現したらしき音がしたのでそちらを見る。
武器だった、白い柄と鞘を組み合わされた、刃渡り50cm程度の、おそらく今のアリシアの身体能力を考慮して生成された打刀。広い上げて刀身半分を鞘から抜けば、一切歪みの無い真っ直ぐな刃が現れる。
『石を喰らった際に自浄され切らず溜まっている何かがある、戦う準備をしておけ』
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