第59話

死んでいる。

多量の水分を含んで潤い、柔らかくなくてはならないそれは、夜寝ている間に水分を奪われ、硬くなりひび割れてしまっていた。触ってみても弾力はほぼ無く、それどころかボロボロと崩れ落ちていってしまう。


「やってもうた……」


横長の亀裂が入ったビニール袋を持ち上げ、生気の失われた目でそれを見ながら小毬は呟いた。冷蔵庫に入れる際にどこか引っ掛けたのだろうか、それとも踏んでいる時に負荷をかけてしまったのか。

ともかく最愛のうどん生地はお亡くなりになられた、水を加えてこね直したところでうまく伸びず、無理に裁断して茹でたとしてもコシの無い、うどんの形をしたボソボソの何かが出来上がるだけだろう。入手した高級小麦はこれで最後、だというのになんという大失態を。

ひとしきり落ち込んで、破れたビニール袋をゴミ箱へ投入、気持ちを入れ替え現実的な問題への対処に移る。すなわち、今日の昼食をどうするか。


「私に許可を求められても困ります」


廊下ではアリシアがどこかと電話している、柱に据え付けられた木製の筐体にベルとマイク、クランクが付き、スピーカーはコードを伸ばされアリシアの耳元へ。無線機とは違い双方向通信可能な電話機である、クランクを回すと交換手に繋がり、どちらへお繋ぎしますか?とか聞かれるタイプの。


「確かに当事者は…しかし住民票を持っている訳ではありませんし、そもそも私は……」


電話相手は斎院のようだが何を話しているかはまるでわからない、それはいいとしてもう1人、室内で座布団に座り座卓に置かれた和紙とにらめっこする緑の狐。

符に使われる長方形の和紙だ、まっさらの、何も書かれていない状態で、左手に握った筆ペンがその上をふらついている。


「感情…感情……」


戻ってきてからずっとあんな感じ、新しい符を作ろうとしているのはわかるが、スズの傍には丸められた失敗作が転がっており、難航しているようである。少なくとも、昼食の内容を気にしている様子は無い。


「……すいとんにシマショウ」


伸びないのなら伸ばさなければいいのだ、今あるのはだし汁と醤油、今日はきのこうどんにしようと思っていたので、エリンギとシイタケ、ネギと油揚げ。つけ汁にしようとしていたのをかけ汁に、麺をちぎり団子に、それだけの修正である。

すいとんの名が歴史に登場したのは室町時代、当時は木の実や雑穀などの練り物をお湯で煮ただけの料理だったという。小麦粉を練った団子をすまし汁や味噌で煮る今のすいとんが生まれたのは江戸時代からで、手早く簡単に作れる料理として人気を博した。その後は経済発展による食糧事情の改善により、民衆がもっと手間のかかって美味い料理を欲するようになった為衰退していく事になるが、天災や戦争など日常生活が送れなくなるほど逼迫した状況においては常にすいとんが人の胃袋を守ってきた。特に最悪だったのが第二次大戦後期から戦後にかけてで、小麦粉は言うに及ばず、大豆粉やトウモロコシ粉すら手に入らぬ有様であり、およそ食用には適さない糠(ぬか)ですら鍋に投入される事すらあった。当然ながら味付けも無い、出汁の取れる食材は無く、醤油や塩も不足する中、人々は海水で煮て塩気を補ったそうだ。そのような歴史を持つ料理という事実を噛み締め、そんなものを食べねばならなかった者達に思いを馳せつつ、今日の昼食はすいとんを味わう事にしよう。

決して今から米を炊いてメニューを考え直すのがめんどくさいからとか、そういう理由ではない。


「スズ」


「うん?」


「千羽大樹に残っている”彼ら”ですが、樹がどの程度破壊された段階で支えを失うのですか?」


「んー、それは主観によるねぇ。元々あの樹は死んでるから、本人が悲観すればすぐにでも繫ぎ止めは終わるだろうし、幹が少しでも残ってればいいとか、極端な話、一片残らず消え去っても心が強ければ悪霊化しない」


「そうですか……」


うどん生地だったものに水を加えて、最低限崩れ落ちないくらいに練る。鍋の出汁を沸かし、適当な大きさにちぎったそれを投げ込んでいく。そうしたら後は簡単だ、材料をすべてぶっこんで味付けするだけ。


「……心が強ければ悪霊化しない?」


電話の受話器が元の位置に戻された頃、スズは自分で言った事を復唱、何か閃いたように筆ペンを走らせる。


「手伝いましょうか?」


「あ、イエ……」


その間にアリシアが戻ってきて、言いながら厨房を覗いてきた。完全にバレている、寝かせるのに失敗したとか、うどんが作れないと見るや手抜きで済ませようとしているとか。

切ったキノコとネギ、油揚げを加え、醤油とみりんで味付け。完成である。


「何を話してたんデス?」


「私の居た場所が戦場になるそうです」


「故郷が?それは残念デスね」


「故郷、とは少し違うと思いますが」


食器はざるを片付けてお椀だけ残し、鍋ごと向こうに持っていくべく鍋敷きを用意。


「まぁ、拘るなと言われているので」

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