第46話
ゴールデンハインドの修復は9割方完了、といった所である。ガス袋の穴を塞いでヘリウムを入れ直した時点で浮力は回復していたが、船体とゴンドラにも穴はあり、ついでに機材もいくつか破損していた。作業のほとんどは既に終わっていて、後はゴンドラの壁を張り替えるのみ。ついでだから装甲化しようや、と日依が言うので、12ミリと6ミリの鋼板を組み合わせてゴンドラ全体を新調してしまった。これで大霧船長も安心である、船体内部のガス袋は未だ無装甲で、重量増加により確実に機動性は低下しているが。
「んぎぎぎぎぎ……!」
着実に張り替えが進むゴールデンハインドの横、飛行場の端っこに机と椅子、業務用扇風機を置き、そこで雪音(ゆきね)は符を握り締めて唸っていた。上部をボタン留めする胸元から上が無い藍染の着物、せっかくの肩出しファッションを損なわない半脱ぎの黒い羽織、方々から聞こえる声はめっちゃ涼しそう。三角形の狐耳が生えるなっがい髪はふたつに分けられて先端を縛られている。
唸りだしてから30秒で時間切れ、脱力して符を離し、机の上にうつ伏せで倒れ伏した。彼女は軍隊の階級では上から4番目の少将ながら、狐の階級では最底辺の野狐であり、要するに魔法的な事は何もできないのだ。
「符術の適正ナシ、と」
「あー……」
クリップボードに挟んだ紙の項目をひとつ消し、ふむんとペンを回す茶色の狸耳。
肩に届かない程度のウェーブがかかったサイドテール、ラインの入った茶色のワイシャツ、緩めたネクタイ、フレアスカート。くしゃくしゃになった符を右手でつまみ上げて書かれた文字に間違いが無いのを確かめ、左手の人差し指でつついてから後ろに投げ捨てた。途端に符に火が着き、地面に落ちる前に燃え尽きて消えた。
「初級全滅、こりゃ望み薄デスねぇ」
「もう他にないんですの…?」
「難易度高いのならアリマスよ、水の上に立ったり」
「ふふふふ……」
それは海坊主の時にじっくり見たやつだ、スズは呼吸するようにこなしていたが断言する、試した所で海水浴になるのがオチである。
「ちなみにそれあなたはできるの?」
「できないデスよあんなアメンボみたいな真似」
狸の能力円グラフがどれだけとんがってるか知ってます?と小毬(こまり)は付け足しながらトランプを1セット出し、簡単にシャッフルして1枚引き出した。
雪音に見せないように自分だけ表を見て、机の上へ。
「数字は?」
「いやそれ超能力じゃ……」
「いいから」
「ん……んんー…?」
トランプの凝視を始めた雪音から目を離し、立ち上がって扇風機の風がトランプを飛ばさないよう調整、それからついでに体をほぐす。
両腕を伸ばしつつ鳳天大樹を見ると、無数の葉は深い緑色へと変わり、強烈な太陽光を受けて光り輝いている。見事な青い空に浮かぶ大きな雲を背景に分幹と主幹を繋ぐロープウェイは6つあるゴンドラのうちひとつが大破したため運行を停止しているが、元々利用客が皆無だった為大した不便は発生していない。扇風機の騒音を除外して耳をすませば重厚な風音と、それに紛れていくつかの風鈴の音。そしてなんといっても辟易するほど高い気温。
夏である。
「提督」
「んっ…はい!何!?」
ゴールデンハインドの船長、大霧(おおぎり)が駆け寄ってきて、雪音はトランプから目を離さず返した。腹部を庇うように左手で押さえる彼はこの奇妙な光景にやや戸惑い、右手で素早く敬礼してから続きを話す。
「北2000kmで台風が発生したそうで」
「北!?北なの!?南じゃなくて!?」
「はい、瑞羽大樹を経由した情報なのですが、確かに北で発生し、まっすぐ南下してくると」
「そんな台風聞いたこと無いわ……んぎぎ……ああもう!まったく見えない!」
バシリと机を叩いて透視を諦め、雪音も立ち上がって扇風機の正面に陣取った。着物と、起伏の大きい体が揺れる。
で、台風、言わずとしれた低気圧の渦である。発達した積乱雲が複数寄り集まり合体して発生するもので、その都合上海水温が高く、複数の気流が合流する場所でないと成長できない為、台風が発生する場所は必然的に赤道付近となる。発生した後は南北どちらかに移動する事になるが、赤道のどちら側で生まれたかで進む方向は決まってしまう、そしてここは北半球であるため、台風は南からやってこないといけない訳なのだが。
「地球の地磁気が逆転でもしたのかしら?」
「いやそれはわかりませんが……」
「冗談を間に受けないで」
ありえない現象なのだが、実際に起きているというなら対策をせねばなるまい。雨は置いとくとして、問題なのはゴールデンハインドの天敵である強風だ。実のところ事故によって喪失されず天寿を全うした軍用飛行船は数えるほどしか無く、そのほとんどが強風によるものだったりする。
「速度はわからないの?」
「まだ入っておりません」
「まぁ、時速20キロで動いてるとするなら4日あるわ、その間に修理を終わらせて退避なさい」
「了解致しました」
大霧は去っていく、雪音は再度座ってトランプを睨む。指揮官としてはほんとこれ以上無いんだけどなー、とか思いながら見ていると、
突如として、顔を勢いよく上げて海を見て。
「姫様?」
海中から鯨の骨格が飛び出てきたのはその直後だった。
「「うっひいいいいいいいいいい!!?」」
距離があったので腰を抜かすまでは到らず、しかしそれでも爆発するような水の音は聞こえてきた。海面に浮かぶ小舟を飛び越えるように弧を描いた骨の化け物はすぐに海へと戻り、一瞬のうちに何事もなく海は静けさを取り戻す。
「あ……ああああの小舟(カッター)姫様じゃ!?いやそんなまさか!救命救急!三笠ーーっ!!」
静けさを取り戻さなかった雪音はあっと言う間にいなくなり、小毬と、音を立てて回る扇風機が残された。
しばらくパニックを起こして飛び跳ねる雪音を眺め、化け鯨の衝撃から立ち直ったのち、机の上にあるクリップボードを拾い上げ、紙の端っこに小さく補足文。
「千里眼の可能性アリ」
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