花厳経
人見
第1話
瓦礫と化した町の中、いくつもの身体は、
天に向けて、独特のリズムを奏でていた。
破れた身体、飛び出した腸、
ふくれあがった顔、どろどろと溶けた皮膚。
オカアサン オカアサン
地獄絵図を思い起こす光景の中、
幾重もの悲痛の叫びが響きあい、
妙な荘厳なハーモニーを奏でていた。
老いた男は、その光景に、目を細め、小さくうなずいた。
歩くしかあるまい、ただ、それしかなかった。
「あ、見つけた」
男の目の前に、突然、幼い少年が現れた。濃紺かすりの着物は少し汚れていたが、見たところ、けがは一つもない様子だった。
「ねぇ、あそこの山が、流れていくの、センセイは見た?」
円らな瞳、あどけない表情で、少年は、男に尋ねた。
センセイか、と男は得心がいった様で、
瞼を一度閉じたあと、少年の頭をそっとなでた。
「おまえの名はなんという」
少年は嬉しさのあまり、無邪気に笑い、喜びにまかせて、男に抱きついた。
「唯心だよ、待ってた、センセイのこと、五億年前から」
そうか、と男はあいづちをうった。
「センセイがきたら、一緒に行くことが、僕の役目だって。だから、ずっと待ってた」
「それはすこし、違うな、唯心」
男は、唯心の手をやんわりと己からはずし、彼の視線と同じ高さまで、腰をかがめた。
「私の役目は、おまえの旅路の始めの道しるべにすぎない。あとは、お前が知ることになる」
唯心の頬は紅潮し、小さな唇は、真横に引き結ばれた。
「ゆけ、お前の心が求めるままに。コトバこそ、この世界の現れだ。私はそれしか知らぬ」
唯心は大きくうなずき、一度男を思い切り抱きしめたあと、すぐさま駆けだした。幼き少年は、惨たらしいシンフォニーまっただ中を、ひたすら駆けた。唯心には、確信だけがあった。そのコトバのために、今、僕は生きているのだと。
花厳経 人見 @hitomi1914
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