scene2:ミュージック・スタート act3

side:日下部光輝


 私立、玉響たまゆら学園高等学校。通称「たまがく」。

 暁兄さんの通っていたところには遠く及ばないとはいえ、周辺地域ではそこそこ知られた歴史のある学校だ。男女共学、女子の制服が今時珍しいワンピース型のものだということ以外、荒れてるわけでもなくお堅いわけでもなく……まあ、普通の学校だと思う。

 ただ、生徒たちが陰で“自称進学校”と呼んでいる通り、うちの学校の制度は遊びたい盛りの学生にとってはとかく優しくない。長期休みは他の公立高校より大体一週間くらい短いし、その短い休みの間にも今日みたいな登校日があったりする。俺みたいにあんまり家に居たくない奴にとっては、逆にそっちの方がありがたいんだけど。

 荷物のほとんど入っていない鞄はなんだか妙な気分になる。おろしたての制服で、勉強しに行く場所のはずの学校に教科書をほとんど持たずに向かう。いつもより遅い朝礼に合わせて家を出たので、もう日は高い。空は晴れてるし、タイミングよくバスも捕まったし、ちょっといい気分だ。

 今日の予定はほとんどホームルームのみ、去年のことを考えるとおそらく文化祭の話だろう。「たまゆら祭」って名前のうちの文化祭は学年ごとに出し物の種類が決められていて、一番人気のある模擬店をやるのが三年、去年が合唱だったから……今年、演劇なんじゃなかったか?

 そこまで考えたところで、いきなり背中に衝撃が走った。

「よっ!」

「びっくりした、おどかすなよ前島まえじま!」

 危うく転ぶところだったのに、その張本人は楽しげにケラケラ笑っている。破裂寸前のエナメルバッグ片手によくここまで力が出せるものだ。

 ちなみにこいつのエナメルバッグには、別に体育会系部活動用のジャージとかそんなものが入ってるわけじゃない。中身はたぶん図書館から借りた大量の本だ。テストの点数を比べると大体は俺が圧勝するけど、国語だけは敵わない——そんな偏った知識の持ち主である彼・前島 和俊かずとしは、似た感じの灯兄さんとも昔から仲が良い。

「それ、夏休みの間に全部読んだのかよ?」

「まあな。お陰様で課題は真っ白だよ、始業式までのあと一週間で超頑張ればなんとかなると思うけど」

「……今日ワークノートと歴史のレポート提出日だけど?」

「嘘だろっ!?」

 前島は絶望的な顔で叫ぶなり、教室に向かい猛ダッシュする。

「今からやる気かーっ!?」

「なんとかしてみせるーっ!!」と無駄に格好いい台詞を吐きながら、前島の声は廊下の向こうにフェードアウトしていった。


「お前さあ、そのスキルもっと別のところに使えよ……」

 散乱しまくった机を見下ろしながら、溜息をつかずにはいられなかった。今の前島の机には、俺含む何人かに頭を下げて貸してもらった歴史のレポートが積んである。そこに一瞬で目を通し、これまた他の奴からもらったレポート用紙に、自分の知識と俺達の書いた内容で仕立てたそれらしい文章を目にもとまらぬ速さで書いていく。かくして俺が半日かけてじっくり書いたレポート課題は、ものの15分で片付いてしまった。

「ところで日下部、」

 早くもワークノートとその答えに手を伸ばしはじめた前島が、ふと話を振ってきた。すごい速さで答えを写すのはもちろん、ページ毎に数回わざと間違える箇所を作るなど偽装工作にも余念がない。

「お前は休みの間何やってたんだ? ろくに連絡もなしで。またあの豪邸に引きこもってたのか?」

「あー……」

 たまに遊びに来ることもあるので、こいつは俺の家の事情についても知っている。いろいろと悩んでしまってどうしようもない時に、よく気を紛らわせてくれたのも前島だった。

「そういうわけじゃないけど。今年はちょっとなんていうか、色々あってさ——」

 夢幻座について言うべきか悩んでいると、丁度チャイムが鳴った。先生が入ってくるのに備えて借りていたレポートを持ち主に礼を添えて返しながら、まだワークノートの答えを写す手を止めていないのが凄い。

 席に戻って一息つく。徒花は窓際の席に座り、俺と同じように何をともなしに外を眺めていた。お下げ髪も眼鏡越しの垂れ目も、何も夏休み前の彼女と変わってはいないはずなのに、かつて見ていた彼女とはまるで違って見える。変わったのは、俺の方なのだろうか。

 ガラリと教室の引き戸が開いた。俺達2-Cの担任、下手をすれば生徒よりもよほど背の低い小森こもり先生は、いつものポニーテールを揺らしてよいしょと教壇に登った。

「みんな久しぶりだね。挨拶しましょう、立って! はい、おはようございます」

「グミちゃーん! 彼氏できたー!?」

 適当な返事もそこそこに、ほぼ恒例となったお決まりの台詞が飛ぶ。「からかわないの!」と冷静ぶってたしなめるものの、律儀に顔を赤らめる『グミちゃん』——下の名前がつぐみだからだ——は、男女問わずけっこう愛されている。

「こら、前島くん! 悪あがきはよしなさい!」

「あーっくそぉ惜しい! あと21ページで完成だったのに!」

「それ惜しくもなんともないからな!?」

 クラス全体がどっと湧いた。

 家族にはとても言えないけれど、本当はこんなこと、思ってたらおかしいんだろうけど……俺は滑り止めのつもりで入学したこの学校が好きだ。こんな風にサボる奴はいるけど、頑張ってる人は応援するし、勉強以外の行事なんかにも全力投球な人が多いし。一度も話しているのを聞いたことがないところを見ると、暁兄さんはそういうの興味ないタイプだったんだろうな。

「学年集会は11時半からだから、それまでに終わらせられそうなことは終わらせてしまいましょう。 岸内きしうちさん、話し合いの進行はよろしくね」

「はあーい」

 文化祭実行委員の岸内 冴さえが間延びした声で返事をした。補足するとさっきの「彼氏できたー!?」発言も彼女のもので、そういう浮ついた話がないと生きていけないと言わんばかりの噂好きかつ根っからの行動派。クラスの中心人物のひとりである。

 前に後ろに行き交うプリントや冊子を適当に整理しながら、ふと夢幻座のことについて考えた。今日は確か、1月にやるミュージカルについてのミーティングをやると言っていたはずだ。

 今度の演目はどんなのだろう。徒花のお兄さんも、また何か役を貰うんだろうな。この間聞いた歌声は本当に綺麗だったし、舞台で彼が歌うのも聞いてみたい。そういえばあいつは、火ノ迫はどうするんだろう。

 ――あんたの本当の目的はそれだったわけ。

 不意に言われた一言は、まだ心のどこかに残っていた。図星、だった。焦るつもりはないし、とりあえず今は夢幻座の人達の手伝いができるだけで十分満足している。でも、もしいつか、俺もあんなふうに……。

 「消すよー」という声でふと顔を上げると、諸連絡が書かれた黒板にもう岸内が黒板消しを当てていた。あわててそのへんにあったプリントの裏に要点をメモしていく。

 やがて一掃された黒板に【文化祭のクラス発表、演劇】という丸文字がでかでかと踊った。

「はーい、文化祭の話なんですけどおー。なんかある人いますかあー」

 なんかって。ざっくりだな。

 でもこれだけざっくりでも、そこそこ何かしらの意見が飛ぶのが2-Cの凄いところだ。

「勝ちに行くなら感動路線で行った方がいいと思う!戦争とか病気で誰か死ぬやつとか」

「あんまり裏方が用意するものが面倒な話は嫌だよなあ」

 岸内はそんな会話にふんふんと頷きながら、【誰か死ぬ】【面倒なのイヤ】などと箇条書きで次々と書き並べていく。いいのかよ、その要約で。

「えー、どうせだしハデで思いっきりロマンチックなのがいいんだけどなぁ。ロミジュリ系とかぁ」

「あっ、それイイ! ロミジュリ絶対イイよね!」

 案の定岸内も食いつき、黒板に【ロミジュリ系!!】と付け足した。

「お前らが面白いだけだろ!だいたいドレスとかどうすんだよ、このクラス裁縫できる奴いねーだろ」

「そうかもしれないけどさあー、それ言ってたら何も始まらないじゃん! あんたは何か意見あるわけ?」

「………」

 ……早速詰まった。

 大体、普通の高校生にパッと思い浮かぶ演劇のタイトルなんてそうそうない。童話の類を除けばそれこそロミオとジュリエットくらいだし、それですらあいつらどんな話だか本当に分かって言ってるんだろうか。

「だってさあ、うちのクラスには徒花さんがいるんだよ!? 現役舞台女優だもん、ジュリエットみたいな薄幸の少女役やってくれれば優勝待ったなしじゃん!?」

 いきなり名指し指差しされ、徒花はびくりと固まった。

「え、わ、私……!?」

「いつまでロミジュリにこだわるんだよ、どっちみち無理だよそれ系の話は」

 どうしよう、なんか空気が不穏になりはじめた。そんな中で咄嗟に一言を放ったのは、まさかの前島だった。

「それ系の話って言うならさあ、いっそ間をとって曽根崎心中でよくね?」


「……はい?」

「なにそれ、歌舞伎?」

「人形浄瑠璃だよ!のちのち歌舞伎にもなったけど!」

 そうだったんだ知らなかった。じゃなくて!

「曽根崎心中ってどういうことだよ」

 思わず問うと、前島はつらつらと説明を始めた。

「ようは好き合った男女が悲劇的に死ぬ話ならなんでもいいんだろ? これの徳兵衛とお初もそんな感じだよ。

 二人はもともとカップルだったんだけどな、お初が寺の巡礼に行ってる間に、徳兵衛が親父に勝手に望まない縁談を進められて、断るために必死で集めた金も友達に騙し取られるんだよ。それで身の潔白を証明するために心中するってわけ。

『この世のなごり夜もなごり〜』ってとこは、『あなたはどうしてロミオなの』に勝るとも劣らないロマンチックさだとオレは思うけどなぁ」

 みんな真剣な顔をして話を聞いている。言われてみればまあ、結果的に主人公とヒロインが両方とも死ぬのは要望に沿っている。

「衣装の心配もなさそうだしな。オレのばあちゃん家が呉服屋だから、和服ならそれっぽいのを用意できると思うし……」

「アリだと思うっ!!」

 ぱん、と岸内が手を打った。「へ?」 と何故か提案者の前島もぽかんとしている。

「いいんじゃないの、それ!逆に新しいしひねりがあって!」

「演劇って言われてロミジュリって、ちょっとありきたりすぎると思ってたんだよ!」

「え、マジで……?ほんとに曽根崎心中採用しちゃう感じなの?」

 前島は混乱してるのか実は嬉しいのかよく分からない声を出した。 確かにちょっとトントン拍子すぎるとは思うけど、案が出たら話が進むのはすぐだ。

「で、次キャストだけどおー。 前島! 出てくる人の名前ざっと書いてって!」

「オレがぁ!?」

 否応無くチョークを押し付けられたので、渋々ながらも前島が役名をあげていく。「ついでに裏方の欄も作っといて」とも言われ、ぶつくさ言いながら黒板いっぱいに役職名も並んだ。

「ヒロインのお初は徒花さんがいいと思う!」

 誰からともなくそんな声が上がり、徒花は再び注目の的となった。

「い、いえ……あの、私は」

「謙遜することないだろ、お前が一番適任なんだから!」

 自分の身体を抱くようにして、震えてるんじゃないかと思えるほど小さくなっている徒花。本気を出せば前に舞台で見たような活躍が出来るとはいえ、こうしてクラスにいる間はただの大人しい女の子だ。みんなに悪意がないのは分かっているが、責め立てられているような感じがして、見ていて苦しい。なんとか、どうにかして助けてやれないか。俺は咄嗟に、

「あのさ!」

 立ち上がって声を発してしまっていた。……のはいいけど、この後一体何を?

 フリーズしかけていたところで、一足先に岸内が思いついたように叫んだ。

「そうだ!!そ うだよ日下部、アンタが徳兵衛やればいいんだよ! アンタも夢幻座だもんね!?」


 ちょっと待て。ちょっと待て!

 はっと気付いた時にはもう遅かった。クラス全体から驚きの声が一斉に上がる。前島が「なんでそんな事教えてくれなかったんだよ!」とかなんとか言っている気がするが、正直今俺はそれどころじゃない。

「違う、そうじゃない!そうだけどそうじゃないんだ!夢幻座にはただの手伝いで……!」

 駄目だった。誰も話を聞いてない。

 とうとう後ろで見ていた小森先生がみんなを収めてくれたので、半強制的に静かにはなったけど、どうしよう。これはこれで居心地最悪だ。とりあえず席に座り直した。

「いくら有力株がいるからって、勝手に強制させるのはやめなさい。いいものが作りたいのは分かるけど、みんなが納得してできた作品じゃないと意味なんかないのよ」

 小さな子供のように諭されて、不服ながらもみんな落ち着きを取り戻した。

「えーと」

 岸内も教卓横に陣取りをし直し、何故か途中からずっと筆記係にされていた前島もチョークで遊ぶのをやめる。

「じゃあ一応聞くけど、徳兵衛の役やりたい人ってか、立候補はいないの?」

 ——なんだか、最近はこんなことが多い。

 先のことなんか何も考えていないから、怖い。ものすごく後悔するような気もする。だけど、どうしても逃しちゃいけないような気がする。だから、手を伸ばす。迷いは後ろからついてくるけど、不思議と目の前はまっさらに晴れている。

「……アンタ、本当にいいの?」

「ああ。……立候補、するよ」


【徳兵衛・日下部光輝】。

前島の不恰好な続け文字が、いい音を立ててそう綴った。



side:土橋大地


 昔から大概の変な奴は見てきたと思うが、ここまで一堂に変人ばかりが揃う光景はそうそう見られるもんじゃあない。特にこんな具合に夢幻座でミーティングをやる時は毎回そう感じている気がする。

「終わってから全然来られてなかったから改めてだけど、ホントにこの間はお疲れ様ねえ。作楽ちゃんも良かったわよ?」

「ほーんとほんと! ブログのコメントでも、ジドル大好評でしたよー!」

「あっはは…… 褒めてもらえんのはありがてーけど、それ半分は由宇の手柄じゃん。ダブルキャストであんだけ疲れたし、おれはやっぱ役者には向いてねーわ。しばらくは演出家業に戻るつもりだよ、あと『作楽ちゃん』はマジでやめて」

 いつも通りの談笑を聞くともなしに聞いていると、会議室の扉が開いた。

「失礼します——すみません、遅くなっちゃって! 夢幻座さんって……良かった、ここで合ってますよね?」

 ついに来たか、待ち人だ。這原はいばら叡智えいち、次回ミュージカル公演の核となる役者。

「いや構わねえ、まだ来てない奴も居るしな。それより『硝子』の衣装の件、世話になった」

「そーそ! 代表さんにメールはしたけど、また叡智からもよろしく言っといて」

 夢幻座も何だかんだで10年近く存続できているものの、所詮は有志で始めた小劇団だ。単独での活動ばかりしていては所々に不備が出てくる。衣装やら舞台装置が特にそうだ。這原が属する全国規模の大劇団・Theaterガラクシアスの支援なくして、今の夢幻座はない。

 次回の公演はいつも以上に大掛かりなものを想定していると風巻が話したところ、なんとも有難いことに、劇場ごと貸してもらえることになったらしい。その対価としてはアンサンブルキャストの斡旋をあちらに一任すること、メインキャスト数人にガラクシアス団員の起用を約束している。

「いえいえ、こちらから提案させていただいたことですし。それに、夢幻座さんのことは僕達も応援していますから」

 おお、と団員達から歓声が上がる。

「そう言って貰えると助かる。まったく、ガラクシアスの連中には頭が上がらねえな」

 言う間にも、先に集まっていた連中はわらわらと這原の周りに集まっていた。実力も見てくれの良さも文句なしに兼ね備えていながら、世渡りも上手いときている。あれで人気が出ない方がおかしいだろう。考えていたことが無意識に顔に出ていたのか、隣にいた風巻がにやりとした。

「失礼しますッ!」

「遅いぞ徒花! 客人に先を越されてどうする」

 小突きたくなるほど無駄に元気のいい声で入ってきた徒花は、這原を目に留めるとわずかに表情を硬くした。

「徒花サン!」

 一方の這原はぱっとその顔を認めるや否や、楽しげにそちらへ近寄っていく。

「お久しぶりです。本当に光栄だ、貴方のような方とまた同じ舞台に立てるだなんて」

「そうだな。お互い全力で頑張ろう、這原くん」

 そして——話す二人を後目に、久々に見るぶすくれた顔で入室してきたのが。

「はぁ。全く、相も変わらず暇人どもが雁首を揃えて……なんだ、見たところ雁に混じって新しく場違いな異物が陳列されているようだが?」

「ちょ、ちょっと待って、ちょっと待ってイケメン君。突然出てきたくせに第一声でまず絶対聞こえたらあかんような言葉が聞こえてきたような気がすんねんけど」

 作曲家、曲淵まがりぶち律心りっしん

 今になってこそ研修生にまた生意気なのが一人入ってきたが、夢幻座の音楽指導に耐えられず辞めていった、もしくは入団を諦めた奴の大半の原因はこいつの態度にある。……それ以外の遠因はおそらく俺か徒花だが。

 風巻は苦笑しながら、曲淵に空席に座るよう促した。

「律心。人数分の楽譜、持ってきたよな?」

「ふん」

 横目で風巻を睨むと同時にチッと分かり易く舌を鳴らして、パイプ椅子にどっかりと座り込む。そして鞄からご丁寧にファイルごとにまとめた紙束をいかにも面倒臭そうに机に叩きつけ、隣に座った徒花を顎でしゃくる。……配れってか。ガキの頃の俺だって流石にここまでじゃなかったぞ。

 風巻は「相変わらず嫌われてんなあ」と苦笑交じりに、しかし他人事のようにさえずった。

「えーっと、うん。たまがく組の光輝と実結は居ねーから、これで全員かな」

 仕切りなおすように風巻が会議室を見渡す。あの二人はそうだ、今日は学校で来ないんだったか。俺は自分でもさっと並んだ顔を確認し、短く言った。

「ああ、揃ってる」

「よっし。じゃあ改めて——1月のミュージカル公演、『カンタレラ』についてのミーティングを始めます」


 『カンタレラ』。破鏡なつめが過去に書いたものを、音楽劇として再編成した作品だ。

 舞台はダークファンタジーを根底にした中世ヨーロッパ。家族を欲した吸血鬼バートリーと、彼が起こした事件によって彼の家族となった元人間の少女エルジエ。そして復讐のために人間の体を捨て、毒の血を持つ怪人「カンタレラ」となったエルジエの兄……本名ヤン。彼らを中心とした物語だ。8月の公演といい、うちの脚本家のお嬢さんは、どうもこういった西洋趣味の話がお好きらしい。

 完成稿をメンバー全員に配っている間、打ち合わせの段階で先に手に入っていた自分の台本を見直していた。鉛筆やらペンやらで色々と書きこんだせいで、既に若干くたびれてしまっている。扉部分に印刷された役名の隣には、キャスト設定の構想を殴り書きしたメモを挟んである。夢幻座のキャスティングは基本的に、オーディションではなく会議で決めるのが通例なんだ。

 客演で呼んでいる以上、這原がヤンかバートリーのどちらかをやることになるだろう。ヤンは無口だがその分一つ一つの台詞に重みが必要になる。仕草や僅かな表情の変化で印象を残す、繊細な演技力が求められる役どころだ。

 対するバートリーは、反対に人間らしくよく表情の変わる派手なキャラクターといえる。ただ難しいのは、家族を持たない一族の孤独に寂しさを感じるという、観客からすれば共感を得やすいであろうこの男のとった行動は、人間から見ても仲間である吸血鬼から見ても異端だということだ。それが最も顕著に表れるのが、バートリーが友人の吸血鬼ラヴァルと口論になるシーン。ここを上手く演らなければ、この脚本の良さは一気に半減することになるだろう。どちらにしろ一筋縄ではいかない役だ、這原にはどちらが向いているか……本人の意見も聞く必要がある。

「まずさあ、とりあえずゲルダ役は未麗っぽいよな?」

 隣で風巻が呟くように言う。名前が出たので耳ざとく反応した立羽が、興味津々に貰ったばかりの脚本のページをめくりだした。

「妥当な判断だな。ざっくり言や、ゲルダはヤンが旅の途中で出会う村娘だ。第二幕後半の酒場の『呑み明かせ、踊り明かせ』では一番先陣切って踊る役だし、陽気なお転婆娘って設定だから、サリティーダよりも演りやすいんじゃねえか?」

「あらぁ、良さげじゃないの!  それで大ちゃん、そのゲルダちゃんって、あとあとヤン君とイイ雰囲気になったりとかは?」

「するな。するんだが……」

 するんだが、そこは流石にダークファンタジー、簡単に事は運ばない。行方不明になった父親の足跡を辿りゲルダは教会を訪れることになるが、皆に慕われているはずのそこの神父ペリゴールが、実は底意地の汚い吸血鬼だったのだ。

 抵抗むなしく腹の足しにされた彼女の姿を見てヤンは激昂し、仇とばかり神父を叩きのめす。ペリゴールは毒が回ってからも頭のイカレた言動を繰り返し、最期にはヤンの最終目的、バートリーへ繋がるヒントを言い残して果てる。

「そのペリゴールなんだがな。てめえがやってみたらどうだ、徒花」

「私が?」

「ああ。また悪役だが、今度ペリゴールはファバラとはまた違う立ち位置の《悪》なのは分かるな? ファバラと違ってこいつには止まる理由が無え、どこまでも自分の欲望に忠実な奴だ」

 ペリゴールは主役ってわけじゃ無えが、見せ場に合わせてソロやアンサンブル付きの曲も少なくない。となれば、こういうカッ飛んだ役はいっそ思い切り目立たせるのも面白いだろう。全体にメリハリがつきそうだ。

 徒花は一心不乱に脚本に目を走らせている。いきなり名指しされた時は驚いたらしいが、手元のページが進むごとに分かりやすく表情が輝きはじめた。

 見立て通り。この役、あいつに限って断ることはあるまい。

「難しいが、面白い役です。師匠、分かりました。やりましょう!」

 俺と同時に、宇多方も確かめるように頷いた。

「決まりね。なら、次はヤンと魔女、他の吸血鬼たちの役振りかしら——」


「詰まった」

「詰まったな」

「詰まったわね」

 這原がヤン役に決まり、エルジエに宇多方、それからラヴァルが俺。そのほか召使ペトロやカンタレラを造った魔女モルガーナら、主なキャストは大体決まった。しかし決まりそうなところから決めちまったせいで、準主役とも言うべきバートリー役が空いてしまったのだ。

 今更言っても仕方ないが、ペリゴールに徒花を持ってきたのは思い切りすぎたか。場面転換の関係で出番が近いことを考えると、徒花の演技に呑まれそうな奴では全体のバランスが崩れる。あいつ以上のインパクトをとまでは言わねえが、あいつの作った空気を上手く捌けそうな奴でないとバートリーは務まらんだろう。

「あの……」

「うん?」

 這原だった。様子をうかがうように控えめに片手を挙げ、「僕が提案するのもおこがましいんですけど」と前置きしてから続ける。

「座長サンがやってみたらどうですかね、バートリー」


「……はい?」

 最初にその間抜けな声を出したのは、指名を受けた張本人だった。

「いや無理無理無理無理。あのさ、だっておれ基本演出家だよ? そりゃ稽古の時とかでちょいちょい参加したり、こないだみたいにたまに出るときはあるけどさ。

ミュージカルはマジでやったことないのよ?ムチャだろ普通に考えてこんな役……柄じゃねーし」

「いや、」

 まだ何か言いたげな風巻を無視して、ふと顎に手を添えて考え込む。そういえば……その可能性は考えていなかった。

 柄じゃねーし、というのは確かにその通りだ。あいつは数度舞台には立ってるが、見たところ特別華のある役者とは言えない。俺直々に鍛えたんで特別下手ではないが、主役級のオーラじみたものは皆無だ。だが、そんな個性が逆にプラスに働く場合というのも、この業界には少なからずある。

 言ってみれば徒花と正反対の役者なのだ。何をやらせても、何処か自然体の余裕じみたものが残る。演出の基礎知識が幸いしてか機転もきき、こいつと一緒に舞台に立っていると安心するという奴も結構いるのだ。実のところ俺自身もそうで、例の《伝説のゲネプロ》での三人芝居の時から、こいつのポテンシャルには目をつけていたのである。

 バートリーの特徴は人間らしさといったが、それは本来なら吸血鬼が持つには不自然な個性だ。そのあたりの不可解さというのか、矛盾というのか……そのあたりを絶妙に表現するなら、一番上手くやれるのは案外風巻かもしれない。

「いいんじゃねえか? どうだ、風巻」

「いいんじゃねえかじゃねーよ、大地まで! ありえねーって、なんでおれがバートリーとか……」

「全くだ」

 不意に上がった声に、会議室は静まりかえる。通常時より数段不機嫌になった顔で、曲淵は有声音で溜息をつきながら仇のごとく風巻を睨んだ。

「この独活に準主役を任せるだと? 馬鹿馬鹿しい。何の実績も残さず雰囲気だけで座長を名乗っているような男にそんな責務が務まるわけがなかろう」

「おい、律心くん」

 徒花の控えめな咎めも当然お構いなく、曲淵の演説は続く。

「舞台経験がないだと? 当然だ、今までずっとそれを言い訳に何もしてこなかったのだからな。大体、これだけ整った環境に身を置きながら向上意欲の欠片も見せん……このクズが何のために何がしたくて生きているのか、俺には皆目見当がつかんな」

「律心くん! もうそのへんにしておくんだ!」

 てめえも完全に否定してはやらねえのかよ。

 風巻はといえばひたすら黙って曲淵の話に耳を傾けているが、真顔に近い一見真剣なこの顔は。

 この野郎、完全に拗ねてやがる。

「言っておくが貴様も同罪だぞ、徒花。形だけとはいえこんな奴がトップに立っているような集団に身を浸すなど、持っている才をみすみす腐らせるようなものだ——」

「……わかった」

 低い声だった。

「わかったよ。おれ引き受けるわ。演ればいいんだろ、バートリー」

「あのー、座長さーん?」

「いいよ、おれがやるってば。1月まで本気でやればなんとかなるし」

 だよな? と何故か俺の方を振り返る。

「そりゃあ、なるっちゃなるっつーか、するけどよお。てめえ、今年でいくつだよ」

「お前といっしょだけど」

 こんな29歳がいてたまるか。まだ頬を膨らませている風巻を尻目に、「とりあえずこれで決定でいいのね?」と宇多方がとりあえず纏めにかかる。

 勝手にしろと吐き捨てる曲淵と、暫く機嫌の直りそうにない風巻と、二人を交互に見ながら呆れ顔の団員達。流石にもう何を言う気も起こらなくなってきた。何事もなかった顔で淡々と会議の総括に入る宇多方を、久方ぶりにありがたく思いつつ俺も溜息をついた。

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