落涙‐ラクルイ‐

降木要

scene1:ようこそ劇場へ act1

「『貴方に良き夢を!』」


 幕が閉まってからしばらく経った。数度のカーテンコールも終わり、殆どの客が退出して、その熱気がいくぶん落ち着いたあとになっても、まだ俺は席を立つことができなかった。

 圧巻。ありふれた言葉だけど、まさにこういうときに使うんだろう。緋色の幕に覆われた舞台の上。小さな、架空の、でも確かにそこに存在した《世界》。そう、確かに俺は、俺達は《世界》を見ていた。幾人もの《人生》が交錯して、織り重なった部分が化学反応を起こしては目が眩むほどの輝きを放つ。それが全て作り物で嘘なのだと、気が付いた時にはもうすっかり頭になかった。それほどまでに、その輝きはリアルな質量を伴って俺達かんきゃくを飲み込んだ。


 はたと思い出し、貰ったまま膝の上で握り締めていたパンフレットに目をやる。

《劇団夢幻座》。

 元は土橋つちはし大地だいち宇多方うたかたひとみらを中心に結成された演劇ユニット。しかし徐々にメンバーが増え小劇団となり、現在では若手の育成にも力を入れている……、か。今まで舞台演劇に興味がなかったせいか、記載された二人の俳優の名前は知らなかったが、どちらも有名人らしい。後ろの人が話しているのを聞いて知った。

徒花あだばな、こんな凄いとこで演劇やってたんだな……」

 感嘆の溜息と共に、俺は思わずそう呟いていた。

と。


「あなた、みゆちんのお友達っ!?」


 すぐ隣から大声が聞こえて思わず飛び上がる。慌てて声のしたほうを見ると、首から「STAFF」の札を下げた短髪の少女が大きな目を見開いてこちらを指差している。

「ね、そうだよね!?日下部くさかべ光輝みつきくんだよね!?」

 今度はこちらが目を見開く番だった。この子と俺は初対面のはずだ。

「なんで知ってるんだ?」

「みゆちんから聞いた!」

「みゆちん? なあ、それって徒花の……ちょっ!?」

 言い切る前にいきなり手を掴まれる。次の瞬間、思いっきり腕を引っ張られた。

「ね、いっしょに来て!」

「は!? え、どこ行くんだよ!?」

 やっぱり質問には答えないで彼女は走り出した。有無を言わさぬ力で俺の手を引いたまま、人の居なくなった客席をすり抜ける。一切の迷いのない足取り。手を振りほどくことにすら思い至らず、俺はほぼ彼女に引きずられる形になっていた。

「お疲れ――って、どうしたのその子!どこ行くの!?」

 客席整理に来たのか、彼女と同じ名札をつけた女性が俺たちに気付いた。驚いた顔で叫んだその人に、女の子が叫び返す。

「救世主見つけた!」

 言ったきり女性のほうを見るのもやめ、走るスピードはどんどん上がってゆく。何がなんだか、よけいにわからないが――女の子の顔は真剣そのものだった。おそらく今後誰の言葉も聞くつもりはないんだろう。

 とうとう俺も抵抗するのをあきらめることにした。

「救世主って……こら、えそらちゃん! ちょっと!?」

 遠ざかる女性の声が、分厚い扉の向こうに閉ざされた。



 今日の公演の内容をものすごく噛み砕いて説明するなら、たぶん、人情コメディというやつだ。

 ヒロインのアンナ役は、さっきから話題に上がっている「みゆちん(たぶん)」こと徒花あだばな実結みゆ。詳しい経緯はとりあえず省略するけど、今日俺が演劇を観ることになったのには彼女が関係している。

 劇中の設定としては、快活かつお転婆な少女で、淑やかで気品溢れる良家の一人娘・サリティーダ嬢に仕えている……いわゆるメイド。

 話に聞いていたとはいえ、やはり実際目の当たりにすると驚いた。普段の彼女のイメージが抜けないまま見に行ったので、最初は舞台を駆け回る少女を徒花だとはとても信じられなかった。見知った一人の人間があそこまでガラリと変わるなんて、俺にとっては結構な衝撃だったんだ。

 その女主人であるサリティーダ嬢。ロングドレスの似合う落ち着いた雰囲気の美女なのだが、とあるいざこざに巻き込まれて命を狙われる羽目に。

 それをどうにか食い止め、大切な主人を守り通そうとするアンナだが、その間に次から次へと事件が起こり………と、大体のあらすじはこんな感じ。

 しかし可笑しかったのがそのサリティーダの命を狙う殺し屋コンビだ。確かバンダナの方がマンクで、長髪で眼鏡の方がジドル。雇い主から命を受けた身だというのに、マンクときたらターゲットであるはずのサリティーダに首ったけになってしまうのだ。せっかちで神経質なジドルはそんな彼を黙って見ていられない。イライラと灰色の長い髪を(ウィッグなのかな?)掻き毟り、腕時計を見ながら「どうするんです、貴方のせいでまた予定から○○秒遅れましたよ!?」というのが、彼の決まり文句だ。二人の微妙に間の抜けたやりとりが、上手く全体のアクセントになっていたんだと思う。

 でもやっぱり――1番印象深かったのはと言われれば、自ずと頭に浮かぶのはだろう。

 マンクとジドルの雇い主。つまり、この物語の中での悪役・ファバラ。サリティーダの家の繁栄を快く思わず、かつ目的達成のためなら手段を選ばない悪逆非道の男。

 ファバラが最初に舞台に現れたときは、誇張じゃなく背筋がぞくりとした。あまりにも圧倒的な存在感。愛も人の温もりも知らない、整いすぎたその表情にちらっとでも睨まれれば、誰もが束の間呼吸を忘れる。

 だがその氷の眼差しの奥に、深い憂いと孤独が、ふっと垣間見える時があるのだ。大きな瞳はまるで鏡のように、見つめれば見つめるほどにありのままファバラを教えてくれるような気がした。わずかな表情の動き、かすかな言葉尻の変化、ほんの些細な仕草ひとつも見落とせない。見落としたくない。こういうのを「魅入る」っていうんだろうか? とにかく、はじめての感覚だった。 彼の持つ秘密がついに暴かれるクライマックスまで、気付けばずっと彼に釘付けになっていたのは、おそらく劇場に俺だけではなかったはずだ。

 テンポ良く進むどたばた喜劇かと思いきや、次の瞬間息もつかせぬ緊張の急展開。……完璧に、呑まれた。瞬きを忘れる程熱中していた自分に、幕が下りたあとでやっと気がついたほどだ。手が痛くなるまで拍手をしながら吐き出した溜息は、感激と興奮と、ひとつの物語を見届けたあとの心地良い疲れで満たされていた。


当然、舞台が終わった後で、俺の人生にとっての本当の幕開け――さらなる衝撃が待っていることなど、知るはずもなく。



 連れて来られた場所はどうやら楽屋らしかった。

 例の少女が慣れた様子で扉を開けたので、俺はおそるおそる部屋の中を覗き込んだ。

 ……今だからこそ正直に感想を言う。


なんなんだこれは。


 まず初めに聞こえたのが、耳を劈く怒号だ。

「何度言ったら分かるんだてめえはァ!!」

「ご、ごめんなさぁあい……!」

 マンクがものすごい形相でアンナを怒鳴りつけていた。

 ……いや。当然、正確に言うなら「『マンクの人』が『アンナの人(つまり徒花だ)』をものすごい形相で怒鳴りつけていた」になるのだが。

「あそこの場面でアンナが黙ったらどう考えても不自然だろうが!!そのせいで一回、客にも分かるくらい完璧に会話の流れ切れたんだぞ!!」

 ああ、あのシーン。確かに一度だけ、アンナがちょっと不自然に固まってしまったところがあった気がする。でもここまで責めてやるほどのことだろうか……? 可哀想に、徒花ときたらすっかり震え上がっている。確かに普段の徒花はもともとこういう、内気でちょっとおどおどしているタイプの奴だったのだが、舞台上の彼女アンナの弾けぶりを見てしまってからだと流石に拍子抜けする。

 しかし兎にも角にもマンクの人が本当に怖い。確か彼がベテランの一人「土橋大地」たる人物だったはず。顔も大概だが、声が大きくてここで聞いていても鼓膜が破けそうなのだ。あれは徒花でなくても震え上がる。内心徒花に同情し、俺は固まりながらほぼ無意識的に半歩後ろへ下がった。

「大ちゃんったらぁ、もうそのへんにしといてあげてよぉ? ね、実結ちゃん」

未麗みれいの言うとおりだ。そう気にするほどのミスじゃないだろう、師匠?」

 おお、あの大声に臆さないなんて凄い――そんな俺の月並みな感想は、二人の姿を見たとたん一息に吹き飛んだ。

(……サリティーダと、ファバラの人!)

 舞台上では敵同士だった両者。しかし今、俺の目の前ではふたり手を取って、なごやかに徒花の弁護を測っている。ちなみにここに居る演者さんたちはみんなまだ衣装を着ているのだが、見れば見るほどわけのわからない光景である。

 たとえば、ついさっきまで貞淑で穏やかな令嬢として、紅茶を飲みながら元気いっぱいなアンナを見守っていたはずの、サリティーダ役の彼女は。

「未麗さん、あの……ドレスの後ろの紐、結び直しましょうか? えっと……胸が……」

「あら、そうかしらぁ? どうせこれから脱ぐんだし、いいわ。

大人しい役っていうのもタイヘンねぇ、全然踊っても動いてもないのに、ライトだけで暑くなっちゃってもう汗びっしょりよぉ」

 そんなことを言いながら、更にスカートを捲り上げてパタパタ扇ぎだしたりするんだから、目のやり場に困ってしょうがない。ああ、折角の美人なのに……。

 反射で目を逸らした先にも不思議な光景は広がっていた。

「他の所はちゃんと頑張っていたじゃあないですか。それに師匠、今回の舞台は『実験的キャスティング』だって自分で仰ってたでしょう?初日に少し上手く行かないくらい、大目に見てもいいのでは」

 ファバラ役の男性は、豊かな身振り手振りを交えて土橋大地さんの説得にかかる。舞台で見たのと雰囲気こそ違うが、近くで見てもはっきりわかる美青年だ。少々吊りがちだが大きな瞳に長い睫毛、鼻筋もすっと通り、瞼はくっきりと二重になっている。癖っ毛らしいくるくると跳ねた鮮やかな海老茶の髪もあいまって、日本人とは思えないほど華やかな印象だった。

「まァたそうやって甘やかす! そんなんだからいつまで経ってもこいつが上達しねえんだろうが!!」

「妹を甘やかすのは兄の義務ですッ!」

 きりりとした顔で言い放つと、徒花の肩を軽く抱き寄せてみせる。……上手く言葉にできないが、そういう顔でそういう事を言うのはやめてほしい。なんというかシュールだ。

 …………ちょっと待て。あれ? 妹?

「やかましいわ!大体、てめぇもなあ――」

 すっかり他人事のように、のんきに彼らを眺めていた、まさにそのときだった。

 悲劇は突然にやってくる。

 いつの間にか後ろに回り込んでいた例の少女が、いきなりどーんと俺の背中を押した。


「よろしく!」


「…………え?」よろしくって何だよ。

 手を引っ張られたときも思ったが結構な力で、しかもぼーっとしていたところを突然突き飛ばされた。不可抗力的に前、もといマンクの人と徒花達との間に特攻するような形でつんのめり、そして。

「うわぁああああ!?」

 我ながら情けない悲鳴をあげて盛大に倒れこんだ。

 楽屋にいた人達が一斉にこちらを見る。幾多の視線に焼かれるような感覚に、身体がだんだん熱くなるのを感じた。

「…………おい、何だてめえは」

 静まり返った楽屋に、低い声がやけにおどろおどろしく響く。どうしよう、心臓が口から飛び出しそうだ。乾いた舌がうまく回ってくれず、最初の一言につっかえているうちに、後ろにいた徒花が驚いたように呟いた。

「日下部くん!?」

 直後しまったという風にばっと両手で口を塞いだが、どうやら彼女の危惧は当たってしまったらしい。

「日下部だぁ……?」 先程より数割増しにドスのきいた声になっていた。「じゃあてめぇか、こいつの仕事を肩代わりしたとかいう部外者は」

「ぇ、あ、あのっ……その」

 フリーズする頭を無理矢理フル回転させ、言わんとされていることを必死で探る。仕事というのはこの公演を見に来るきっかけになった、一週間前に彼女を手伝ったことだろうか。でもあれは本当に手伝っただけで、決して肩代わりしたわけでは――――だが、その続きに思考を至らせてくれるほど相手は悠長じゃない。

「何処の誰だか知らねぇがウチのに余計な事すんな!折角こいつの人見知り直すためにやらせてんのに、勝手に知り合いが出張ったら台無しだろうが!!」

 依然不恰好にすっ転んだままの俺めがけ、真上からさっきの倍の怒号が飛ぶ。いきなりそんなめちゃくちゃな。後ろにいた少女がたったったと俺の遠く正面に回り、なにやら「ごめんね」と口を動かしながら手を合わせているのがかすかに見えた。ごめんで済んだら警察はいらない。というか俺が呼ばれたのって、このため……?当然俺にその少女を責める余裕などなく、ただ体を固くすることしか出来なかったのだが。

 はぁ、と暴力的に溜息をついた彼は、横からやってきた人影にも気付いた様子を見せない。

「ったくどいつもこいつも甘ったれやがって……、何だ!?」

 その女性があまりにしつこく肩を叩くので、無視しようにもついに痺れを切らせたらしい彼が勢いよくそちらを振り向くと――ぷすり。突き出されていた指が見事にその頬に刺さった。

 女性は底冷えのするような声で、口から上を全く動かさずに言った。

「落ち着きなさい」

 振り向きテロを食らった本人より俺のほうがよっぽどびびった。彼女も重要な出演者のひとり。かの悪魔ファバラの抱える秘密、その名もマリアの役だった人だ。悪戯っぽい笑顔に可愛らしい仕草が特徴的な彼女は、物語クライマックスの鍵を握る重要な存在で……って、俺が今言いたいのはそんなことじゃない。

 無表情だ。恐ろしいまでの無表情だ。舞台の上での彼女のころころと変化する表情、鈴の鳴るような笑い声が印象に残っているせいもあり、ブラックホールのごとく微塵も光も生気もない目が正直――失礼だけど――不気味だ。マジギレするとこんな風になるタイプの人なんだろうか。しかしそれだと「怒ー鳴ーらーなーいーのー」とぷっすぷっす頬をつつき続けるあれに説明がつかない。

「分ぁかった!分かったからそれやめろ!!」

「頭ごなしに人を怒鳴りつけるのはやめろといつも言っているでしょう。大体話を聞いてれば彼、ただの実結ちゃんのお友達でしょう?こっちの事情を知っている方がおかしいわよ。そんなだからいつまでたってもモテないのよ」

「最後は関係ねぇだろ!?」

 はぁ、と二度目の溜息。絶対零度で繰り出される客観的意見がきいたのか、今ので随分空気が緩んだ。

「まあ、確かに宇多方の言うことにも一理ある。以後気をつけろ小僧」

「は、……はい」

「だがな!!」

 今度の大声は俺に向かってではなく、楽屋内にいた劇団員全員に対してだった。

「いくら『実験的』だとはいえ、客から金取って見せてることに変わりはねえ。それに甘えた半端な出来での妥協は断じて許さん、これも俺達や夢幻座の幅を拡げるための大事なステップなんだ。いいなてめぇら、くれぐれも肝に銘じとけ!!」

「「「はいっ!!」」」


 威勢のいい返事と共に、彼の言葉に聞き入っていた人達が散り散りになる。もう怒鳴り声は飛ばない。しかしそれでも俺は動かなかった。 動けなかった。 彼等を食い入るように見つめながら、さっきまでとは違う気持ちが、いつのまにか自分の胸の中に溢れてくる。

「君、大丈夫だったか?」

 体を起こすのを手伝ってくれるつもりなのか、ファバラ役の男性が俺の顔を覗き込んでくる。やっぱり、舞台での悪役ファバラからは想像もできない優しい仕草だった。思わず、馬鹿馬鹿しいくらい感じたままの本音が漏れた。

「あ、ありがとうございます。……あの、なんだか皆さん、舞台で見た時と全然印象が違うなと思ったので……」

 途中から声が小さくなったのは、彼があまりに驚いた表情をしたからだ。大きな目をぱちくり、ぱちくりと二度ほど瞬いて、次の瞬間――満開の花のような笑顔。

「当然じゃないか!!」


 ぐい、と手を引っ張られて、俺は再び楽屋の景色を見る。遠いようで近いようで、けれどやっぱり俺とは遠く離れた輝きがそこにはあった。

 この場所に、この人達に、ずっと混乱して、圧倒されっぱなしだった。でも、確かに、俺は。

「私達は――――」

 憧れを。

 この輝きに、自分も少しでも、近付けたらと。

「役者なんだから!!!」

それが、すべての始まりだった。

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