四章⑤ あなたは死なない
《サブ隔壁、しめましたっ》
バシャバシャではなくザバンザバンと音がする。廊下にある手動バルブをすべて回して戻ってくる間に水かさが急激に増したことが、スピーカー越しにもわかった。
「がんばったわね。早く連絡扉の階段を昇りなさい、扉越しに温めてあげる」
室内を安堵の息が埋めつくした。張りっぱなしだったサクヤの両肩もようやく下がる。
《はい! いまからそっちに……あ……挟んどいたイス、流れちゃって……連絡扉しまっちゃって……開かない、です》
意識が止まったのはコンマ数秒のことだったと思う。
「廊下はどうなの、吹き抜け天井ならメンテ用の通路くらいあるんでしょうっ!」
「副制御室の廊下は低いし、ハッチの類はありません……」
通話ボタンから指を離してまくしたてるサクヤに、機関科員はかぶりを振った。
再び暗くなった。
また停電かと思ったが機関員にそんなそぶりはない。
目眩をおこしていることに遅れて気づいたサクヤは、とっさに舌を噛んだ。痺れる痛みにすがってなんとか持ちこたえる。冷静の仮面をこんどこそ気づかれずにかぶり直す。
これも戦いだ。平静を保てない者は、敗北の崖を転がり落ちてゆくのだ。
「そんなまってよ、それじゃアキちゃんは、アキちゃんは!」
「バカ野郎! だからっ」
「黙りなさいっ!」
騒ぐヴィーナと田村を一喝したサクヤは、マイクの通話ボタンを押した。
いま頼れるのは自分だけだ、だからこそ桜木サクヤはミコトに選ばれた。
「アキ、机の上に乗って水から離れて。天井に通風孔はない?」
壁を叩く打音が続き、やがて蚊の鳴くような声が脱出路がないことを告げた。
《もう胸まで……机、乗ってるのに……あたしダメ、ですかね?》
たった数分でアキがいる部屋のほとんどが水に浸かってしまった。
数秒だけ目をつむったサクヤはマイクに唇を寄せる。
「あいにくねアキ、機関科は新人を休ませてくれないみたい」
そこからの舌は、自分でもびっくりするほど滑らかに動いてくれた。
「ククリから連絡がきたわ。防災科のダイバーがすぐ下の階まできてる。フロアの扉を開くのは水圧が平衡してからよ。あと五分はかかるでしょうけど我慢なさい」
全員が驚いたようにサクヤを見る。
そんな反応しかできないから小者だというのだ。情けない腰抜けどもめ。
《五分も、ですか?》
「その部屋が冠水するまであと一分はかかるでしょう? 人間の息はそこから二分はもつわ。残りは二分。優秀なあなたのことだから、呼吸停止から二分後の蘇生率を知っているわね?」
《……九十%くらい、かと》
「正解よ、そして低温だと一時間後の蘇生記録もあるの。ラッキーね、あなたは死なないわ。今日の街は南回りの浅海コースをとってないから、その水はかなり冷たいでしょう?」
このリーダー然とした態度をみろ。アキを安心させる言葉がすらすらと出てくる。
押し続けるマイクの通話ボタンは、なぜか不快なきしみをあげている。
《ラッキー……です、よね……もう、天井、まで》
「とてもラッキーよ。あなたは死なないわ」
《せん、ぱっ……、っ あた、し……は……あだっ……ッ………》
「ええ、あなたは死なないわ」
すばらしい。サクヤこそ英雄だ、街を救った救世主だ、羊たちが憧れる賢者だ。
弱くなった? とんでもない、桜木サクヤはこんなにも強靭ではないか。
びぢっという音とともに赤い飛沫が散る。通話ボタンを押す指の爪がぱっくりと割れていた。
《……ぜっ、ぱっ………――――──────────────》
「ええ、あなたは死なないわ」
スピーカの沈黙は、副制御室が完全に水没した証だった。
血まみれの指先は、ヴィーナが剥がすまでボタンから離れてくれなかった。
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