第4章 落陽

四章① 失くしたものと得たものと

 二人並ぶのがやっとの通路には機械油と鉄の匂い。晩秋のような肌寒さと薄暗さとがあいまって、海の底まで続くような錯覚をおこさせる。


「気をつけてくださいね。段差あるんで」


 先頭を歩くアキが告げた直後、ガタタンという音が通路にこだました。


「ごめーん、暗くってさー」


 むっとした顔でふり返ったアキに、悪びれた様子のないヴィーナが最後尾から告げた。


「へいきよアキ、タイヤがちょっとぶつかっただけ」


 ヴィーナを睨んでいたアキはサクヤに視線を移すと、すぐに前を向いて歩みを再開した。

 少女のあとをキィキィという音が追いかける。金属の壁に挟まれた狭い隙間を、サクヤが乗った車椅子が進む。押してくれているのはヴィーナだ。

 

 実際、この空間は隙間だった。

 申しわけ程度の照明が照らすのは、リベットが打ちつけられた金属の壁。サクヤたちは巨大潜水艦である街の左舷を艦首方向に進んでいるので、右が内壁で左が内殻になる。

 内壁の向こうでは、われらが第六学区が今日も夏日を迎えている。

 

 反対側の内殻の奥は外殻でその先はいわずもがな、海である。今月の予定ルートに浅海はなかったと記憶しているから、深度はそれなりにあるだろう。左手の数メートル先には、人間が生きていけない圧力と冷温が満ちている。

 

 暗い通路に金属の床を踏む靴音と、車椅子のキィキィだけが響く。リハビリの甲斐あってかサクヤは予想以上に回復した。棒切れになっていた左腕も手首まで動かせるようになった。

 腰から下の感覚はいまもない。

 頚椎の負傷により神経の束がつぶれ、下半身が中枢神経から切り離されてしまったからだ。消化器官など不随運動をする内臓は、どうにかではあるものの勝手に動いてくれている。けれど足は無理だ。

 

 中枢神経は抹消神経のように再生されない。再生を妨げる細胞が発生するせいだ。

 つなぎまちがえたときに生命に関わる危険性を人体は捨てた、という説を聞いたことがあるが真実は知らない。しかしながら衛生科の医療は毎時五十ノットで日進月歩、いずれは中枢神経すら戻せるという。

 輝かしいその日は、サクヤが生きているあいだに訪れないだろうけれど。

 

 二度と歩けないという現実を、すんなり受け入れたといえば嘘になる。

 ツタを操作すれば移動はできるし、実際、歩行のマネごとだって可能だ。

 けれどこの力はいつか消える。ミコトの能力の発現期間は個人差が激しく、早い者は一年足らずで消失する。半年後のサクヤがただの一般生徒でしかない確率は低くはない。


 けれど立ち止まりはしない。まだ進める――サクヤはそっとうしろを見る。気づいたヴィーナが笑みを返す前に、あわてて前に向き直る。

 そんなサクヤを窺うアキの目が翳っていたのは、照明のせいだろうか。



 行く手に硬質な扉が立ちはだかった。これより先は学区が変わるのだ。通行の許可をもらいにアキが守衛所へと向かう。

 車椅子におさまったサクヤの隣では、ヴィーナが常夜灯に照らされた暗い谷を覗きこんでいた。視線のはるか先に堤防のような金属壁がそびえている。


隔壁かくへきなんて眺めて楽しい?」

「カクテキってゆーんだ」

「隔壁よ、キムチじゃないわ。浸水時に天井まで伸びて市街を守る壁になるの。興味あるなら見学に行ってくれば? 重要施設だから一般生徒は入れないけど、ヴィーナは大丈夫なはずよ」

「見ていいの? だって、私」

「仮免許でも生徒会の一員でしょ。いい機会だから勉強してきて」

「えー、勉強なのぉ」

「難しい本を読めなんて言ってないわ」


 サクヤは遥か下方にある隔壁を右手で指した。


「いまわたしの背後で外壁が破れて、あの隔壁が動かなかったらどうなると思う?」

「この街のみんなが……溺れて死んじゃう?」

「学区の周りにも同じような隔壁があるのよ。大規模浸水時にすべて閉じるから、溺れるのは六区の住人だけ。隔壁で区切られたエリアが『学区』になったのはこのせい――ほら、おしゃべりしただけで勉強になったでしょ。空っぽな頭にしまっときなさい」


 言い返してくると思ったが、ヴィーナはうつむいてしまった。

 彼女の視線は、動くことのないサクヤの両脚に注がれていた。


「……なんで普段どおりなのさ、どうして怒らないのさ。私のせいだって……すぐに担架で運べばどうにかなったって、あのとき私が無理に立たせなきゃサクヤの足は――」

「誰に聞いたのか知らないけど、言われてみればそうね。ヴィーナのせいかしら」


 ぎゅっと拳をにぎったヴィーナの隣で、座したままのサクヤは相手を見あげた。


「チャラにしてあげるから押してくれない? それとも逆さ吊りがいい?」

「……サクヤってぶきっちょだね」

「貴婦人は針仕事なんてしないもの。家事は侍女の役目よ、しっかりやってね」

「ホント素直じゃないね。ところで侍女ってなにさ?」


 ムカッときた。会長である村瀬の命令だから仕方ないにせよ、ヴィーナはサクヤの補佐官だ。本当ならば適当に流すところを、こうして正直に接してやっている。

 それを素直じゃない?

 どうやらこのニブい女には一度キッパリ言ってやるしかないようだ。意を決したサクヤはじろりとヴィーナをねめつけた


「田舎街にはいないようだから教えてあげるけど、侍女っていうのはね……あくまで例えよ? 仮ってことよ? そうかもしれないってだけだからね! むしろちがうからっ!」

「なに言ってんの? てゆーかなんで怒ってんの?」

「怒ってないわよバカッ! 一回しか言わないからよく聞きなさいよ、わたしにとって侍女は……その……友だ――」

「桜木先輩」

「おっかえりなさいアキッ!! 最近耳の調子どうかしら!?  五・一チャンネル耳鳴りとか! サラウンド空耳とか!」


 飛び出した心臓を押さえつけたサクヤの元に、アキが戻ってきた。


「先輩のたわ言しか聞こえませんけど? 世迷言はうなされてから言ってくださいね。まだインフルエンザの季節じゃないですよ。通れるまで、もうちょい待たされますって」

「なんでさ?」

「だれかさんがややこしー経歴をお持ちなんで、通行許可に時間かかるんです。この街のことまだ理解してないんですか? あの扉の向こうは六区じゃなくて十二区ですよ」


 機関科の制服姿を壁に預けたアキが、トゲのある口調で言った。

 サクヤたちは今日、機関科への立会検査に来たのだった。

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