三章⑦ 代償

 右も左もわからない『年少生』が、突然街を担う『学生』になれるものではない。先輩学生と寝食をともにし、数年かけて学ぶことになる。

 社会のありようを一から十まで教えてくれたのはナミだ。ヴィーナがよく口にする家族や仲間が、サクヤにとってはナミであった。


 けれどそれも過去のこと。サクヤが能力を覚醒した日より、ナミは態度をがらりと変えた。羊飼いと羊はかくあるべき――それが最後の教えだったことを理解できたのはずっと後のことだった。

 

 シャリシャリとリンゴの皮を剥く音が流れる。

 どんなときでも凛としたナミの姿にいらだちを覚えたのは、いつだったろう。まっすぐに束ねられた髪に憧れ、真似をして伸ばしていた時期もあったはずなのに。


「寒くありませんか」


 手を止めたナミがタオルケットの位置を直してくれた。ギプスで固められたサクヤの左腕は、血の通っていない丸太そのものであった。


「脱臼した際、神経を傷つけてしまったと聞いております。リハビリには少々時間がかかるかもしれません」


 歯切れの悪いナミの口調が、胃のあたりをきゅうっと縮ませた。


「……二度と動かないって、そう言ってたの?」

「一朝一夕で治るお怪我ではありません。お気を長く持つようにと」

「リンゴ、ちょうだい」


 フォークが差し出された。ひとくち大に切られた、さっきまでウサギ型であった果実を咀嚼する。味などわからない、噛みしめるものが欲しかっただけだ。


「起きてから下半身の感覚がない……ないの」

「治らないと決まったわけではありません」


 しゃりりと奥歯でリンゴが潰れた。


「わたしっ、わたしこのくらい覚悟してたの。ホントよ、ホントなんだからっ」

「存じております。桜木様は強い方ですから」


 責めるようなその口調に、サクヤ外れてしまっていた仮面をあわてて被りなおした。

 後悔などするものか。ミコトがそのような情けない存在であるわけがない。だからショックでもなんでもないのだと口の中で繰り返す。

 戦いは続いている。平常心を失った者はすぐさま敗者へ転落するのだ。


「……話、あるんでしょ」


 申し訳程度に頭を下げたナミが告げたのは予想通り、責任の押しつけ場所だった。

 先の事故におけるサクヤの対応が適正であったか、ということだろう。


「桜木様が大きなケガを負ってしまったことも問題になっています。いずれ事故の調査委員会から人が来るでしょう」


 薄っぺらな役人にとってはミコトも街を守る道具でしかない。普段は媚びへつらっておいて、役に立たなくなるとわかれば手のひらを返す。くだらなすぎて文句を言ってやる気さえ湧かなかった。

 唇を閉ざしたサクヤにナミが無言で水差しを薦める。いらないと告げたサクヤは、天井ではない遠くを見ていた。


「地下に閉じ込められた生徒たちは、どうなったの?」

「救出された時点で七人が事切れており、搬送中に三人が亡くなりました。ほとんどが一酸化炭素中毒です。火元近くに閉じこめられておりましたゆえ」


 役目を果たせなかった水差しを置いた会長秘書が、事務的な口調で続ける。


「残った犠牲者で重度の火傷を負った生徒が二人、翌日に死亡しました。残り一名は回復に向かっております。浜野ミオという女性です。桜木様には感謝の言葉もないそうです」

 

 胃袋が痛みをともなって縮んだが、顔に出すことは意地でもしなかった。じっとこちらをうかがうナミの能面から逃げるように、サクヤは天井へ視線を固定する。


「一酸化炭素中毒でなかった生徒……ナミの言う『ほとんど』に含まれていないひとは、なんで死んだの」


 真上を向いたままのサクヤを見つめていたナミは、一呼吸の間を置いた。


「崩れ落ちたコンクリートによる圧死、と聞いております」

「わたしが床を砕いたときね」


 何かを言いかけたナミはしばらくして、はいとだけ告げた。数秒か、もしかしたら数分はあったかもしれない静寂。

 やがて、くつくつという煮込むような笑いが病室に響いた。救えなかったどころか死人を増やしておいてこのざまか。サクヤの自嘲はすぐに乾いた咳へと変わり、焼けつくような感情をもたらした。


「笑いなさいよ……黙ってないで笑ってよ! 口ばっかりの役立たずって、罵ればいいじゃないっ! わたしは、わたしは……」


 涙が滲んだ目尻をナミがハンカチで拭ってくれた。


「生徒を救ってくれてありがとう。水素ガスに引火していたら、比べ物にならない大惨事となっていた――村瀬会長のお言葉です」

「帰って、もう帰って!」


 これ以上情けない姿を見られたくなかった。ナミが無言で立ちあがる。黒髪が揺れる背が見えなくなった瞬間、言いようのない不安がよぎり反射的に口が開いた。


「まって!」

 

 止まった足音に、サクヤは言うつもりのなかった問いを投げていた。


「もしも、もしもよ。ナミがあの場にいたら……わたしを止めた?」


 ドアノブに手をかけたナミがふり返るのがわかった。天井しか目に入らなくとも、サクヤには見えていた。そして彼女がどう答えるか、聞かずともわかっていた。


「山下さんはなんとおっしゃいましたか? 私は彼女と同じことをすると思います。それではお大事にどうぞ」

 

 扉が閉まる音がしてサクヤは一人ぼっちになった。

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