深海のサクラ
アーリーグラブ
深海のサクラ
プロローグ
水深1020メートル
肩のライトを点けると、黒一色だった世界が白い嵐に様変わりした。
「マリンスノウ……」
夜空にありったけの花びらを散らしたらこんな感じかもしれない。生物の死骸と知ってはいても、深海に降る雪はヴィーナの心を震わせた。
「あは、深度千二十メートルだって」
ヴィーナの全身を包む硬式潜水服は、名こそ服だが実態は手足のついた潜水艦だ。水圧に耐える鎧は窮屈きわまりなく、いやでも計器が目に入ってくる。
「百気圧、越えちゃった」
思わず出てしまった言葉が、ギシギシと泣くヘルメットに反響した。潜水服の限界はとっくに越えている。最後の瞬間がいま訪れてもおかしくはなかった。
極限の水圧にさらされた人間の末路を想像してヴィーナは身震いした。深度千メートルにおいては、手のひら程度に数トンという冗談じみた重量がのしかかっている。
「ぺったんこになっちゃうのかな、ヒラメみたいにさ」
応じる者はいない。腰から垂れ下がったケーブルはもう、どこにもつながっていない。
「返事してよ……だれでもいいから答えてよぉっ」
叫びは泡となり首のダクトから天へと昇っていった。エアボンベから送られてくる微風が、深海に置き去りにされた女をあざ笑っていた。
下唇を噛みしめフジツボひしめく壁に手を伸ばす。間にあわなければヴィーナの魂も昇るのだ。
潜水服のつま先を壁の段差に引っかける。古タイヤを縫い合わせたとしか思えないグローブであたりを撫でまわす。
ようやく窪みを探りあてたヴィーナは指先に力を集中、じわりと自身を引き上げる。
「おちついて、ゆっくりよ。入り口はほら、すぐそこ――」
突如、突きはなすような振動。
錆びた門をこじ開けるときのきしみが、肌に伝わってくる。巨人の苦鳴にも似た揺れは、わずかな時をはさんでもう一度。
より、強く。
ヒィッという情けない声がヘルメットに反響した。
なにも考えられなくなるほど動揺しながら、それでも壁の隙間に体をねじりこむ。着ぶくれ人形のような潜水服がようやく半分隠れたそのとき、液体のハンマーが襲ってきた。
全身に叩きつけられた圧力に、ヴィーナの喉があげたこともない悲鳴をあげる。
近くにあった錆だらけの取っ手に、両手が噛み砕かんばかりにかじりつく。うねった水流にあれほど重かった潜水服があそばれていた。貧弱な取っ手にぶらさがっているだけのヴィーナは、暴風に蹂躙される一葉でしかなかった。
「なんで『街』が動くの!? 私が外にいるのにどうしてぇっ!!」
腕の力が尽きればすべてが終わってしまう。海中に投げ出されたヴィーナは潜水服の中で孤独の果てに死に、腐りながら漂うのだ。
たった一人、永遠に。
「たすけ――」
壁の隙間でシェイクされた祈りは霧散する。濁流に踊り続ける両足は、血の通っていない重りでしかなかった。
「……すけ、て。たすけて、たすけてよぉっ」
ぬぐうことのできない涙が、ヘルメットに収まった頬を流れていった。
はたして魂の願いが届いたのか、嘘のように激流が凪いだ。
けれどヴィーナは動けない。奥歯はがちがちと虚空を噛み、感覚のなくなった指は取っ手をつかんだまま固まっている。潜水服の中では両の太ももが暖かく濡れていた。
それでも吐くことだけはしなかった。『ヘルメットを付けたら、ゲロだけはするな』最初に教わったことを、ねじあがってくる胃袋に何度も言い聞かせた。
「おわった、おわったの。もう、へいき――」
静まってくれない鼓動をなだめていたヴィーナは、そのとき気づいてしまった。耳をそよいでいた微風が途絶えていることに。
ボンベの空気が尽きていた。
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