第30話

 久しぶりにスケッチブックに触れた。

四隅を指でそっと撫でて確認する。

いつもの大きさ、いつもの硬さ、いつもの質感。

右手を持ち上げられ、掌に何かが置かれた。


ドクン…。


俺は緊張した。

それはいつもの鉛筆だったからだ。


六角形のHBの鉛筆。

指先で芯に触れると、はほどよく尖っているのが分かる。

長さを確認すると新品を一回だけ削ったものだ。

俺は感動していた。


懐かしい雰囲気に襲われる。

何千枚と描いてきた絵。

今俺はそれに向かっている。


でも…。


見えない。


スケッチブックも鉛筆も見えない。

感触だけが手にあるだけだ。

「光司。これからが魔法の力が発揮するんだよ。ほら、いつも見つめていたスケッチブックを思い出してみて。」

俺はいつもスケッチブックを膝に乗せていた。

その映像を思い出す。


脳裏には鮮明に思い出すことができる。

中央のバネ状の針金の形と本数まで覚えている。

その映像が想像以上にくっきりと映し出された。


「いつも描いていたようにスケッチブックの位置を調整してみて。」

右手に鉛筆を持ちながら微調整する。

「その映像と現実のスケッチブックを同じ位置に調整するんだよ。」

瞳の言いたいことは理解できた。

頭の中の映像と現実を、ピッタリ同じ位置にするのだ。


「それが出来たら鉛筆も同じようにイメージして。」

いつものように握る。

スケッチブックの端を持つ左手と、紙の上に置いた鉛筆を握る右手。

それらがイメージと現実が同じになるようにする。

不思議な感覚だった。


そのイメージ映像は現実と重なる。

スケッチブックの端の感覚、鉛筆の感覚と紙の感覚。

どれもこれもピッタリと合う。


「光司の絵はね、幼稚園時代の落書きも含めると1115枚あったの。スケッチブックの絵は998枚。それだけの回数、今と同じ状況があったってことだよね。だからリアルにイメージ出来ると思うのだけど、どうかな?」

「怖い…。」

「え?」

「怖いぐらいリアルだよ…。」

ホッとした感じが瞳から伝わる。


「さて、これからが本番。何か、絵の題材はないかな…。」

不思議なやり取りを見ていた聡美ちゃんが声をかけてきた。

「何をしているの?」

彼女が不思議がるのもおかしくない。

目が見えない人が絵を描こうとしているからだ。


「何か、手に持てるもので絵の題材になるものはないかなーって探してるの。」

するとカチャカチャと小さな金属音、次にポケットから出したと思われる包装紙付きの何か、そしてカバンからプラスチック製の物を持ってきた。

「イヤリングと、飴玉と、トイカメラね。じゃぁ、まずはこれ。」

そう言って渡された物を確認する。


耳たぶを挟む金具から細い鎖が伸び、その先には三日月がぶら下がっている。

もう一本伸びる鎖は月よりも少し長く、小さな星型をしていた。

どちらも少し厚みがあり立体感がある。

厚みが無かったら判断しずらいところだった。


だいたいの形を把握すると、いつものように想像したイメージを思い浮かべる。

「色は?」

「金色。光の反射が綺麗よ。」

瞳が直ぐに答えた。

その感想でイメージ映像に色を付け光沢処理をする。

そっとスケッチブックの上に置き、どんな風に置いてあるか指先で触れるか触れないかぐらいの感覚で探る。

二本の鎖がS字になって月と星がある。


「どう?イメージ出来た?」

俺はコクンと頷く。

「そしたら最初にイメージしたスケッチブックと今の状況を重ねてみて。」

そしてようやく彼女の魔法の意味がわかった。


「光司は一度見た景色は忘れないって言っていたよね?どう?そんな感じに出来る?出来れば魔法は成功!」

「瞳…。」

俺は震えていた。

「ありがとう…。」

その言葉に彼女はハッと顔を覆った。


でも、最初の一本目の線を書けないでいた。

手が震える。

これがダメだったらどうしよう…。

いや、失敗してもいいじゃないか、そんな二つの思いがぶつかり合う。

そこへ意外な人物から声がかかる。


「情けねぇな。そんなんだから瞳さんをいつも泣かせてるんだ。」

山本君だった。

いつの間にか戻ってきていた彼は、珍しく感情を露わにし、しかも何故か敵対してくる。

「おまえがちゃんと出来ないなら、俺が…、俺が瞳さんを守ってやる。」

思いもよらないライバルの出現だ。

「大丈夫。光司なら大丈夫。」

瞳が応援してくれる。


ふぅーーーーー。

大きく息を吐く。肩の力が抜ける。

そうだ…。俺がもっとしっかりしないと…。

そして一気にイヤリングを描き出す。

イメージ映像をなぞるように、重ねるように描いていく。

イメージの中のスケッチブックの上に黒い線が書き込まれる。


何千本鉛筆を使い潰したか分からない。

繰り返し行われてきた線画作業は鉛筆の先から伝わる微妙な感覚からどんな線が引かれているのか分かる。

芯の状態がどうなっているのかすら理解出来る。


全身の感覚が張り詰める。

尖っていく。

イメージに描かれる線に集中した。

想像通りに描いたと思っているが、書き終わると不安が訪れる。


「ど…、どうかな…?」

実際にどうなっているかは分からない。

もしかしたら幼児が描く無茶苦茶な線なのかも知れない。


反応がない。

瞳も聡美ちゃんも山本君も黙っていた。

それほど酷い絵なのだろうか…。

「す…、すげぇ…。」


ウワァァァァァァァン…。


山本君の感想の後に瞳が泣きだした。それも遠慮なく。

聡美ちゃんは興味津々で包装された飴玉を渡してきた。

「次これ描いてみて。」

渡された物を丹念に調べる。

ビニール製の包装紙に包まれたちょっと大きめの飴。

匂いは苺の香りがした。


「色は何色かな?」

「全体的に赤だけど苺のプリントがしてあるよ。」

聡美ちゃんが教えてくれた。

「プリントはわからないかもなぁ…。」

そう答えてゆっくりと指を滑らすと、プリント部分だけ指の滑りが違う。

何度も触れながらイメージを作りだし、そっとスケッチブックに置く。

そして物が小さいだけにあっという間に書き終わると、「はいっ」と言って、トイカメラを渡された。


その場でプリントしてくれるインスタントカメラのようだ。

今度は少し大きい。

プラスチック製で塗装がしてあるところとしてないところがある。

塗装は白でその他は黒だと教えてもらいスケッチブックの上に置く。

置いてからも、どの角度かを丹念に調べる。

複雑な部分もあり、左手で触りながら右手で描く。


描き終わると、どっと脱力感に見舞われた。

「なんだよコレ…。おまえ、本当は目が見えてるだろ!?」

山本君は何に怒っているのかが理解できなかったけど、どうやらそれなりに書けているようだ。


「これマジ?」

聡美ちゃんは信じられないと言いながらスケッチブックと預かった題材3つを持っていき、伊達じいさんに見せているようだ。

ベッドの向こうから「これは…。」とだけ聞こえる。

顔も知らない人に絵を見られる感覚が久しぶりでちょっと照れた。

聡美ちゃんが呼ばれ、菊池ばあさんのところにも持っていく。


「あらあらまぁまぁ…。」

そう言ったっきり反応はない。

ガバッ

突然抱きつかれた。瞳の匂いがする。


「光司のバカ!」

突然怒られた。

俺は一体何をしたのだろう。

「本当にあなたは素敵。素敵過ぎて眩しいくらい!」

どうやら喜んでいたようだった。

「いや、俺には何が何だかサッパリ…。」


「完璧なの!完璧に描いたの!」

「本当!?」

「うん!」

聡美ちゃんがスケッチブックだけを返してくれた。

「これマジやばくなーい?」

とか言ってて何だかおかしかった。


「瞳の魔法のおかげだね。」

何だかとても嬉しかった。

脱力感と共に久しぶりに味わう達成感に見舞われた。

だけど、直ぐに物足りなくなる。


「瞳…。」

そう言ってそっと両手を伸ばす。

彼女は直ぐに手を捕まえてくれた。

もっと手を伸ばし顔を包む。


涙で濡れた頬だ。


彼女は手を離し、俺のすがままになっている。

手をゆっくり上に持っていき、髪に触れ、後頭部から目や鼻、唇、顎、そして首すじから肩、最後に鎖骨辺りへと手を動かす。

髪は肩より少し長く下ろしていた。


にこやかだけど涙が頬を伝い、俺が何も言わずに触れているのに好きにしてと言わんばかりに無抵抗で、ちょっとドキドキしている感じの表情。


そこで手を離し鉛筆を握る。

「え?」

瞳は、まさかっ!?と言った声を上げた。

集中力が再び高まる。

今まで以上に。

一番知りたかった今の瞳の顔。

グッと右手に力がはいる。


「魔法の成果を見せてやる!」

イメージが組み上がる。

想像以上に可愛い。不安になるほど美人だ。


スケッチブックを1枚めくり、そして勢い良く鉛筆を走らせる。

自分でも過去にないほど、なめらかにためらうこと無く。


興奮している。

俺は瞳の絵を描ける喜びに興奮している。

カーッと血が滾る。


もうイメージなのか、現実なのかも区別がつかないほど、リアルな映像が脳裏で踊る。

最後に丁寧に髪を一本ずつ描いていく。

滑らかに、艶やかに。

左手を瞳に伸ばすと、彼女は直ぐに頭を当ててきた。

そう、感触を確かめたかったからだ。

そして細部をまとめて完成。


「光司…。」

俺を呼ぶ瞳の声は、掠れながら震えていた。

ギュッと頭に抱きつかれて身動きが取れなくなる。

「皆さん、今度はどうでしょうか?」

瞳に抱きつかれたまま、俺はさっきの手応えで自信を付けたのか、思い切って病室の全員に向けてスケッチブックを見せた。

「なんだよ…、なんなんだよおまえ!」

山本君はまた怒っていた。

もしかして似てないのかな…?少し不安になる。


興奮していてスケッチブックの位置をあまり気にしていなかった。

いや、目が見えていた時の、無意識に持っていた感触に近かったはず。

「安藤君。ワシはさっき山本君が言っていた、本当は見えているんじゃないか?というのと同じ疑問を持っている。しかも…、絵の中の彼女も美しい…。」

その答えに緊張が解けた。

「そうですか、ありがとうございます。」


「いやいやいや、そんな普通に返事してる場合じゃないわ。マジやばーい。」

聡美ちゃんは相変わらずおかしな日本語を使う。

「絵のなかの瞳さんから、彼女への愛おしさが伝わってくるのぉ。私まで切なくなるわい。」

菊池おばあさんの声も震えていた。


「光司!あなたの絵は…、あなたの絵は、やっぱり色んな人に見てもらわなくっちゃ。絶対に目を治して上げる!だから…、だから、二度と絵を描かないなんて言っちゃ駄目だよ…。」


 翌日から噂を聞きつけた諸先生方からの執拗な目の検査が始まった。

だけど俺にはそもそも眼球が無い。誰もが信じられないと言っていた。






俺は夢と希望を取り戻しつつあった。







スケッチブックに描かれた1000枚目の絵は、奇跡の1枚となった。



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