掌編集2 心マルチプル
石屋 秀晴
願い
「もっとふさわしい人が居ると思うの。もちろん、わたしたちお互いにね」
「君は見つけたのか。ふさわしい人を?」
「……ええ。見つけたわ」
酒場にしつらえられた舞台の上では、まだ演目が続いている。
南米では歌と演奏のみを主体とした音楽が盛んで、ここのように歌劇を見せる店は少ない。
「珍しいから」という現地ガイドの勧めで見に来てみたが、なかなかのものだ。
冒頭から、恋人同士らしき二人は険悪なムードだった。
二言三言のぽつぽつとした応酬から、たちまち激しい口論となる。両者ともに舌鋒は鋭く、けして引かない。
中盤にさしかかると、ついにたまりかねた様子の女が、剣を手にして男へと切りかかる。
さて男のほうはと見ると、なんとこちらも剣を抜き、目を見張るような剣劇が始まる。古代の伝説に材を取った物語らしいが、この展開にはいささか度肝を抜かれた。
女の情念の力か、男の遠慮のせいなのか。意外なことに、女は屈強そうな恋人を見事打ち据える。
その後女は男をおいてどこかへ行き、長々とした哀切な歌を聴かせたあと、静かに身を横たえる。
すると倒れていた男が息を吹き返し、女の名を何度か呼んだ後、がっくりと膝をつく。
ケーナによる物悲しくも湿度の低いメロディーが、しんとなった酒場の壁に染み入るように消えゆくと、一転、辺りはやんやの大喝采となる。これで幕のようだ。
さっそくガイドから解説をしてもらおうと思っていると、あの女の役者はどうだったかと逆に質問を受けた。
正直に、若いのに演技は真に迫っていたし、歌もかなりのものだねという風に答えると、あいつは俺の娘なんだと言ってガイドは破顔した。どうやら珍しいからというだけの理由で連れてこられた訳ではなかったらしい。
その流れで、あんたの家族はと訊かれた。
一度金持ちの女と結婚したが捨てられたよと、私は簡単に答えた。
ガイドはばつの悪そうな顔を隠しもせず、一杯奢るよと言って、そっと肩を叩いてくれた。
その後ようやく聞き出せた歌劇『
一番最後に女が横たわったのは、山の神に命を捧げて死んだということだったらしい。
もともと女は神への生贄として選ばれた身であった。彼女は、神を殺してでも儀式を阻止してやると言う恋人を自らの手で退け、運命に殉じていったのだ。
そうしないと愛する人を守れなかったのさ、というガイドの言葉を、私はうわの空で聞いていた。
離婚した直後に倒産した彼女の会社。数年して遺品の整理のために赴いた彼女の殺風景な住居。交際相手の存在を示すような物はないのに、机の引き出しには私の写真だけが一葉、残されてあった。
当時は馬鹿にされたような気分でそれを見ていたのだが。
『
『私を助けないで』という意味だと、ガイドは言った。
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