022.黙々-Dumb-
1991年5月26日(日)PM:13:11 中央区特殊能力研究所付属病院四階八号室
静かに瞼を閉じる久下 春眞(クゲ ハルマ)。
古川 美咲(フルカワ ミサキ)は急かす事はなく、じっと彼を見ている。
しばらく二人はそのままだった。
閉じた瞼を、春眞ゆっくりと開く。
肺一杯に空気を吸い込んで吐き出す。
その後、少し間を開けてから、続きを語り出した。
「俺達は人間にも鬼人達にも、恨みと怒りと絶望しか感じなくなっていた」
「そうなっても仕方ないかもしれんな」
「そんな中、塩辛は俺達にいくつか提案してくれた。これからは案内された隠れ家に住んでいい事が一つ。後は有下は置いてくから好きにしていいが、友人の方は連れて行くのを許して欲しいという事だった」
「しかし、そのまま有下を生かし続けるならば抵抗するのではないか?」
「そうだな。そこは塩辛が解決してくれた。有下には、変な仮面を被せて抵抗出来ない様にしてくれたのさ。仮面を被った有下は、本当に抵抗出来なかったようだった」
仮面という言葉に、少しだけぴくりと動いた古川の眉。
しかし、彼女は春眞が続きを話すのを待った。
「それと残りの五名の行方は調べてみると約束してくれた。その後の塩辛の調査で、他の奴らは何処かの企業に売られたらしいという事まではわかった。だが結局、その企業の特定までは出来なかったようだがね」
「それからどうした」
「有下に全てを話させたさ。若い鬼人達と人間達を誑かし、眞彩達を誘拐。邪魔したものと目撃したものは有下が殺したそうだ」
様々な感情が交錯し始めている春眞の瞳。
「だがその為に、俺達は有下達と同じ事を、いやそれ以上の事をしてしまったがな」
「どうゆう事だ?」
「塩辛の情報で、有下には和希という妹がいる事がわかった。俺達はその和希って女を拉致したのさ。そして全てを話さなければ、お前が眞彩にした事を、妹の和希にもするぞって脅したのさ。そしたら素直に話しやがった。糞でも実の妹は可愛いって事だろうさ」
春眞の顔が禍々しく歪んでいく。
それに比例するかのように古川の表情は、怒りに満ちていった。
「だがお前達は有下の妹に手を出した、そうゆう事だな」
「その通り。あんたは今この場で、俺を俺達をぶち殺したいと思っているだろうな」
「ああ、そうだ。お前はお前達は・・・」
憎悪にも近い、怒りの感情を宿す古川の瞳。
「眞彩は隔離に近い状態にしてたから、おそらくこの事を知らないがな」
「ぶち殺すのは後だ、とりあえず結末まで聞いてやる」
古川から迸る魔力。
少しだけ恐怖を感じている春眞。
素知らぬ振りをしているが、微かに汗ばんでいる。
「それじゃとっとと続きを話すか。俺達はその時完全に狂ってた。いや、狂ってたなんて生易しいものじゃないかもしれんな」
言葉を一度止めた春眞。
温くなったコップの水を一口飲んだ。
「眞彩は時折、三井さんが欲しい、三井さんとのが欲しいとか、うわ言のように呟く事があった。そして徐々にだが、崩壊した精神が回復の兆しを見せていた。それが何を意味するのか、その時に気付くべきだったがな。だがそれだけで何かわかる奴はいないだろうさ」
禍々しさの中に、悲しみの瞳をみせる春眞。
「ある時塩辛が訪ねてきた。そして俺達に協力して欲しい事を話し始めた。三井を捕まえる事と極 伊麻奈(キワ イマナ)を誘拐する事。目的は聞かされなかったが、俺達は協力する事にした。そしてその為の仕掛けを、いろいろと用意してくれた」
「人形や隠れ家の罠の事だな」
「そうだ。俺達が極 伊麻奈(キワ イマナ)を誘拐した上で、うまく立ち回れば鬼人族(キジンゾク)同士のいがみ合いを、悪化暴走させる事も出来るだろうとも考えた。それと三井を捕まえる事が出来れば、眞彩の願いも適える事が出来るかもしれない。俺達はそう思った。魔術もその時から、塩辛に手解きを受け始めた」
「だが結局」
「そうだ。失敗に終わった」
「そんな時、最初に気付いたのは誰だったか? 眞彩が子供を身籠っている事がわかった」
「もしかして、報告にあった赤子というのは」
「そうだ。父親が誰かもわからず、わかったとしても既に死んでいるだろう。だが気付いた時には遅かった、産むしかなかったのさ。それでも、母親になるという使命感なのか? 眞彩の精神は歪ながらも、更に回復していった」
複雑な表情の春眞。
「そんな時、妻子を何者かに誘拐され見つける事も出来ない男。自身もその後何かの実験体にされたらしい、長谷部という男の話しを塩辛から聞いた」
「長谷部 和成(ハセベ カズナリ)か」
「確かそんな名前だったと思う」
春眞は、コップに残っていた水を少し飲んだ。
「なんとか眞彩の出産も無事終わり、計画の準備を進めている最中だった」
「妹の精神はどうなっていたんだ?」
「狂気めいた事を言う事はあったが、ほぼ回復していた」
「狂気めいた事?」
「三井さんとの子供が欲しい的な事さ。一年前あの事件の後、眞彩が生きる希望を失わなかったのは、三井さんのおかげだったと今では思っている。あの人は何度か見舞いに来てくれていたようだ。眞彩から少しだけ聞いた事がある」
春眞は呼び捨てから、さん付けになっている事に気付いていない。
「そうか。生きる希望か」
「その後しばらく現れなかった塩辛が、長谷部が捕まった事を教えてくれた。塩辛本人は何気ないつもりだったんだろうがな」
遠い目をする春眞。
「同情だったのか憐憫だったのかはわからない。俺と長眞はそれぞれの魔術を試す事もかねて、塩辛に長谷部の護送車を襲撃する事を提案した」
一度、深く息を吐いた長眞。
「塩辛はしぶしぶ了承し、後日仲間らしき奴らを五人連れてきた。そいつらも塩辛同様に、黒いローブに、仮面をつけていて、どんな奴かは知らないがな」
「こんな仮面か?」
古川は資料の中から写真を取り出した。
春眞に、その中の一枚の写真を見せる。
「そうだな。そう言えば有下兄妹に被せたのも、そんな仮面だったな。塩辛ともう一人は、それとは違う英語が書かれていた気がするがな」
「仮面の事はまあいい。続きを話せ」
「わかった。そうして長谷部の護送車の情報を俺達は塩辛から得た。そして襲撃したのさ。長谷部の野郎、助けたのにすぐ一人でどっか行きやがったがな」
「それでその後どうした?」
「そうして自信を得た俺達は極 秦斜(キワ シンシャ)を黙らせてから、極 伊麻奈(キワ イマナ)を誘拐した」
「何故極氏を殺さなかった?」
「紅髪の鬼が襲撃したって言う、目撃証言が欲しかったからさ」
「なるほど。だが豊平区から、中央区に出て来ている時を襲ったのは何故だ?」
「塩辛の情報で、あんたと三井さんの所属が何処かは、その時は知っていたからな。もしかしたら俺達を止めてくれるのを期待していた、のかもしれないな」
淋しそうな悲しそうな表情の春眞。
「そうか」
「出来ればもっと早くに知りたかったが」
春眞は更に悲しげな表情になる。
「とりあえず事件に至る経緯と、概要はわかった。また夜にでも来る」
「ぶち殺すんじゃなかったのか?」
「ぶち殺すのは簡単だが、それじゃ罪を償わせる事にはなるまい」
「そ・・そうだな」
春眞はその時の古川の視線に底知れぬ恐怖を感じていた。
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1991年5月26日(日)PM:13:56 中央区特殊能力研究所付属病院四階八号室
古川が去った後、運ばれてきた食事を食べる春眞。
片方の拳がうまく使えない事に、彼は不便を感じている。
それでも一人黙々と腹に収めていった。
「負けた事で逆にスッキリしちまったのだろうか? あいつ等への恨みはもちろん消える事なんぞないだろうが」
一度スプーンを置いた春眞。
コップに残っていた温くなっている水。
構わずに喉に流し込んだ。
「生きて罪を償えって事なのだろうかね? そう言えば、飯を不味く感じるのはいつ以来だろうな? うまさにしろ不味さにしろ、感じるってのは良い事なのかもな」
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