1章 はじまり

 普通の日だった。

 雨は降っていない。風も強くない。気温は低かったけど路面が凍っていたわけではないし、ただの晴れた冬の日だった。

 その日は土曜日で仕事もなく、俺は自宅で過ごしていた。彼女は仕事が溜まっていたらしく、休日返上だと笑っていた。そもそもほぼフリーランスで広告ライターをしている彼女に休日の概念があるのかどうかは分からないが、世間は休日。休みを満喫する人々を横目に働くのはしんどいだろう。たしか労いの言葉を送っていたと思う。

 彼女はよくバイクに乗る。大学に入ってからの移動手段はほとんどバイクらしい。道も覚えられるし満員の電車に乗る必要もない、そのうえ気を遣わずに済むという彼女らしい理由だった。

 その日は外に出かける用事があると言っていた。基本的に仕事は家でこなす彼女だが、ネットの情報だけで広告は書けない。その場に赴くのが仕事をするうえでの彼女の決まり事だった。写真を撮ったり、周辺を歩いてみたり、必要があれば人に話を聞いたりする。思ってたより人との関わりがある仕事だよ、と言っていた彼女は楽しそうだった。


「うめちゃん…!」


 今にも泣きそうな声をした友人から電話がかかってきたのは、夕方近くだったと思う。あまり覚えていないけれど。


「どうした、なんかあった?」

「沙織が…!うめちゃん早く来て!沙織が!」

「沙織がどうしたの、お前今どこにいんの」

「病院……」


 彼女の名前を出したのは、彼女の幼馴染である真誠だった。

 俺は冷静になろうと思いつつ、友人の涙声と彼女の名前に慌てていた。


「うわっ」

「うめちゃん!?」

「いや、大丈夫だから。で、病院の名前は?」


 携帯を片手に家を出る準備をして、写真立てを倒してしまった。伏せられた写真立てを直そうと手を伸ばして、止めた。

 こんな事してる場合じゃない。早く行かないと。

 写真立てを倒したまま、俺は慌てて家を出た。




「うめちゃん!」

「麻生」


 病院についてタクシーを降り、玄関前で声をかけてきたのは彼女の従兄弟だった。


「よかった、俺も真誠から連絡もらって今着いたとこなんだ」


 麻生が真誠から聞きだしたことによると、どうやら彼女はバイクで事故を起こしたらしい。子供がどうとか言ってたけど、詳しいことはあいつ焦ってて聞きだせなかったんだ。どこか緊張した様子の麻生はそう言って黙り込んでしまった。


「あの、救急搬送された立花沙織ってどこに…」

「ご家族の方ですか?」

「ああいや、友人…?」

「一緒に若い男がいると思うんですけど、そいつに呼ばれて」


 従兄弟は家族に入るのだろうか。そりゃ入るか。でも俺は全くの他人だよな。疑問形で友人と答えた麻生に小さく感謝しつつ、看護師に話をつける。真誠に確認しに行ったのだろう、しばらくして戻ってきた看護師の隣には真っ赤に目を腫らした友人の姿があった。


「うめちゃん、達也」

「真誠…」


 すいませんがお名前を、と看護師が言った。お見舞いで名前を聞かれるのは初めてだった。隣で麻生が不思議そうな顔をしていたけど、多分俺もそんな顔なんだろう。


「梅野悠です」

「麻生達也です」


 ササッと何かに書きとった看護師は、真剣な顔で俺たちに向き直った。


「ご案内します」


 すごく、嫌な予感がした。


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Spica らぎ @snow__ragi

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