夏の重力

雷星

夏の重力

 夏。

 うだるような暑さと、まばゆいばかりの陽の光が、生きる気力さえ奪っていく。このまま干からびてしまえればどれほど楽なのだろうと、笹木リオは思うのだ。もっとも、そうした一時の感情に任せて日に焼かれようなどとは微塵も考えないが。

 抜けるような空の青さと、陽光を反射する雲の白さがただただ目に痛い。吹き抜ける風は生ぬるく、べとつく肌にまとわりつくような気持ち悪さがあった。

 夏の長期休暇は、実家で過ごすのが常だった。友人や知人と遊び回るのもいいのかもしれないが、田舎でまったりと過ごすのも悪くはない。都会での暮らしに疲れている、というのもある。

 ただ、田舎に帰ってくると困ったことがあった。鮮烈な思い出が蘇るのだ。あの夏の記憶。伊藤サラという少女の想い出。

 いや、夏になれば、どこにいようと否応もなく思い出してしまうに違いない。それほどに強烈で鮮明な記憶なのだ。

 いまの彼女の根幹を作り上げたと言っても過言ではない出逢いだった。

 そして、伊藤サラのことを思い出すと、逃れようのない気恥ずかしさと、蒸せ返るような甘ったるさで身悶えしてしまいたくなる。あの頃は自分も若かったのだ、と一言で切り捨ててしまえるほど、年を取ったわけでもない。あの夏に胸の内を燃え上がらせた熱量は、十年たったいまでも胸の奥底を燻らせているのかもしれない。

 伊藤サラは笹木リオにとって青春であり、色褪せた記憶の中に燦然と輝く夏の太陽だった。

 その名を思い浮かべるだけで、雲ひとつない青空が脳裏に広がり、まばゆい太陽に目を細めたくなる。降り注ぐ日の光を反射するのは、透き通るような湖の青で――そこまで思い出したときには、笹木リオの意識は十年前の夏に跳んでしまうのだから困ったものだ。


 伊藤サラという少女が突如として笹木リオの目の前に現れたのは、リオが通う学校の中間テストも終わり、夏休みを目前に控えた七月の半ばだった。

 突如として、というのも、時期的に転校などあり得ないものだという先入観があったからだ。

 いけすかない担任が伊藤サラを連れて教壇に立ったとき、教室内にちょっとしたどよめきが生まれたほどだった。そのどよめきの一部がすぐさま歓声に変わったのは、担任が連れてきた少女の容姿のせいだろう。

 まるで人形のような――そんなありふれた形容詞は、彼女にこそ相応しいと思えた。

 同性のリオがどきっとするほどだ。思春期真っ只中の男子たちが興奮するのも無理はなかっただろう。もっとも、しばらく収拾がつかなかったのは、伊藤サラだけのせいでもあるまい。

 待ち望んだ夏休みを前に、誰も彼もが浮かれていた。

 かくいうリオも、きっと、浮かれていたのだろう。

 でなければ、見惚れて、伊藤サラの自己紹介を聞き逃してしまうなんていう失態は犯さなかっただろうし、なにより、彼女にときめきを覚えたりしなかったはずだ。

「少しの間だけどよろしくね」

 真後ろの席からかけられた声に動転して頭の中が真っ白になりかけたのは、それだけリオが茫然としていたからだろう。

 慌てて振り替えると、伊藤サラが柔和な微笑みを浮かべていて、リオは、心臓が飛び出そうなほどの衝撃を受けた。

 冷静に考えれば、この教室で空いている席といえばそこしかなかったのだが、そのときのリオには、伊藤サラがそこに座るとは思いもよらなかったのだ。

「ねえ、聞いてる?」

 驚き、固まっていると、サラが目を細めてきたので、リオは慌てて首を縦に振ったものだった。

「こ、こちらこそ!」

 リオがぎこちなく笑い返すと、サラは屈託なく笑った。その笑顔の眩しさに思わず見とれてしまったのはいうまでもない。

 それが伊藤サラとの出逢いで、笹木リオが夏という季節に言い知れぬ重力を覚えるようになったきっかけだった。



「えーと、笹木さん? だっけ」

 伊藤サラに声をかけられるだけで動揺する自分に多少の苛立ちを覚える。それでも、彼女の声に胸が高鳴ったのは事実で、それがいったいどういった類の感情なのか考えるのは恐怖に近かった。

 答えを導き出せば、いまの生活が一瞬で崩れ落ちてしまいそうで。

 だからリオは、努めて無心であろうとした。

「そうだよ! 笹木リオ!」

「ふふっ」

「なっ、なに……?」

「いや、ごめんなさい。笹木さんって、いつも元気なんだなって思って」

「そうかな」

 リオは、首を傾げたが、頭の中では理解していた。リオという少女は、元気という言葉からはかなり遠い立ち位置にいる人物だ。いつもむすっとしている、というのが周りの評価であり、もっと笑ったほうがいい、と友達にいわれるほどだった。

 なぜつまらないときに笑わなければならないのか。不平や不満があるわけではない。ただ、つまらないのだ。ありきたりな日常、くだらない友人関係、取るに足らない学生生活――なにもかもが、リオから表情を奪い去っていた。青春の日々は、このまま色褪せていくのだろうと思いかけてさえいたのだ。

 しかし、伊藤サラが目の前にいる。たったそれだけの事実が、リオの目に映る世界の色を変えてしまった。灰色から薔薇色へ。その劇的な変化は、いつも通りの放課後の教室の光景さえも一変させている。窓から差し込む夕日の美しさに気づけたのも、伊藤サラのおかげなのだ。

 教室にはリオとサラだけしかいない。みんな部活に忙しいのだ。暇を持て余す学生など、部活に身を入れていないリオか、転校してきたばかりのサラくらいのものだろう。邪魔ものがいないというのは嬉しい半面、沈黙が続いたのには参った。

 ただ夕日の中で見つめ合うだけで時間が過ぎていく。完全な静寂ではない。時折、屋外で部活動に精を出す学生たちの声が、ふたりの間に横たわる沈黙に小さな穴を開けた。だが、それだけだ。沈黙に開いた空隙は瞬く間に消えてなくなり、再び、サラとの間には得体の知れない空気が生まれた。

 リオは、沈黙を破る言葉も思いつかず、ため息さえ浮かべることもできなかった。ただ、彼女の目を見つめるしかできない。

 見れば見るほどきれいな顔だった。つややかな黒髪はゆるやかなウェーブがかかっていて、手入れされた眉は細く、美しい曲線を描いている。二重瞼に長い睫毛、褐色の瞳は水晶のように透明で、その瞳に自分が映りこんでいるのか確認したくなったが、それには極限まで近づかなければならないだろう。さすがにサラにそこまでの根性はなかった。

 背丈はリオとあまり変わらない。が、プロポーションはサラのほうがより女性的であり、リオにしてみれば羨望の眼差しを向けざるを得なかった。胸の辺りなど、見比べれば見比べるほど恥ずかしさで死にたくなってくる。どうせなら男に生んでくれればよかったのに、と思わないではない。

 自分には似合わないブレザーだって、サラが身に付けると、別物のように可愛らしく見えた。

(神様は不公平だな)

 しかし、そんな不公平な神様の気まぐれな采配がなければサラとの出逢いもなかったというのならば、感謝こそすれ、文句をいうつもりにはなれなかった。まだ知り合って数時間。まともに会話をしたという記憶はない。だがそれでも、彼女の存在は、リオの心を急速に占有しつつあった。

「笹木さん、部活に顔を出したりしなくていいの? 授業が終わってからずっとそうしてるけど」

「今日はそんな気分になれなくて」

「そうなの? 気分でも悪いの?」

「い、いや、そういうわけじゃないけど」

 あなたから目が離せないからなどとは言い出せるはずもなく、曖昧に誤魔化した。

 時は緩やかに流れている。まるで世界中の時間が自分のためだけにその速度を緩めてくれているかのように。実際はそんなことはないのだろう。だが、体感している時の流れこそがすべてで、それだけでいいのだ。本当のことなど、いまはどうでもいい。

 このゆっくりと流れていく時の流れの中にこそ、青春は輝いている。


 結局、ふたりで帰ることになったのは、リオが暇を持て余していたのと、サラがこの街に不慣れだということもあった。

 ふたりきりの帰り道、緊張しすぎたのか、なにを話したのかさえ覚えていない。とりとめもないことだったのだろう。夕日を浴びるサラの綺麗な顔が、よくほころんでいたことだけは記憶に残っていた。

 見慣れたはずの町並みが、いつもと違った景色に見えたのは、きっと隣を歩くひとのせいだ。夕焼けが生み出す陰影の鮮やかさが、網膜に焼き付いている。

 サラの家は、リオの家から学校までの道程の間にあった。日中は白壁が目に痛いばかりの真新しいマンション。引っ越してきた家族が暮らすにはちょうどいい物件といえた。

「笹木さんって楽しいひとね」

 マンションの前で告げられた一言にどきっとした。よくよく考えれば、なにげない一言なのだが、そのときのリオの精神状態では舞い上がってしまうのも無理はなかった。

「伊藤さんこそ」

「なにもしてないのに?」

 いたずらっぽく笑った彼女に心惹かれるのは、むしろ必然だったのだろう。


 ほどなく、夏休みになった。

 いつもなら瞬く間に色褪せ、記憶の片隅に追いやられていくはずの長期休暇は、伊藤サラというたったひとりの少女が存在したことで、終生忘れ得ぬひと夏となったのは不思議という他ないだろう。

 伊藤サラが転校してきてから夏休みが始まるまでの数日間は、笹木リオの人生始まって以来の幸福期間であり、精神的にもっとも充実していた日々であることは疑いようがなかった。

 朝、目を覚まし、学校に向かう途中で彼女と合流し、他愛のない言葉を交わしながら、退屈なはずの一日が薔薇色に染まっていくのを感じる。

 教室でも、校内でも、いつも一緒にいた。取り立てて話題がなくとも、言葉がなくとも、ただ側にいるだけで良かった。同じ空間にいる、ただそれだけで充足感が得られた。

 サラが男子と会話するのより、女子と言葉を交わすことに嫉妬を覚えたのには参ったが。

 友人にさえ、あなたは変わった、などといわれるほどだ。外面的にも相当な変化があったのだろう。

 それも当然のことだと想う。

 リオは、生まれて初めて、恋というものを体験していた。

 初恋が同性というのはどうなのだろう。相談しようにも、適当な相手も見つからない。ただ胸の内に秘めておくしかない。表情に現れてしまうのを止めることもできないが。

 そんな日々も、夏休みが始まれば終わってしまうのではないか、という漠然とした不安とも予感ともつかない感情に掻き乱された。

 が、結局のところ、そうはならなかった。

 むしろ、ふたりきりの時間が増えた。

 伊藤サラの両親は仕事で家を開けることが多く、十四歳の少女に過ぎない彼女にしてみれば、持て余した時間を数少ない友達に費やすのは必然ではあったのだが、リオにとってみれば、そんな理由などどうでもよかった。

 サラとなら、一日中一緒にいても飽きなかった。

 毎日のようにどちらかの家に入り浸った。勉強をしたり、ゲームをしたり、たまには外出してプールにいったこともあった。

 サラの水泳技術は、運動が得意なリオが驚くほどだったが、それよりもプロポーションの良さが周囲の目を引いたのはいうまでもない。中学生には見えない肢体のサラの隣にいると、自分の貧相な体の惨めさが際立ったが、考えないようにしていた。

 夏。

 真昼の太陽は、容赦なく陽光を降り注がせている。屋内プールの水面が、太陽光線を乱反射して眩しかった。

 浮かれた子供たちのはしゃいだ声が、プールに響き渡る。

「この夏が永遠に続けばいいのに」

 サラがぽつりとつぶやいた一言が、どうしても耳に引っ掛かっていた。普通に考えれば、いまが充実しているから永遠に続いて欲しい、という意味に取れるのだが。

 そのときの彼女の憂いを帯びた横顔が、それ以外の真意を窺わせた。


 夏が終わりに近づくに連れて、サラの口数が多くなった。まるで思い残すことのないように振る舞っているかのようで、リオは不安を覚えずにはいられなかった。

 だけれども彼女は、サラに余計な心配をさせたくなくて、強がらざるを得なかったのだ。

 なんであれ饒舌に語るサラに笑顔で応対し、彼女が望むならなんだってしてあげようと想った。全身で受け止め、全霊で返そうとした。

 それが、初めての恋というものだろう。

 なんの経験もなければ、知識もなく、対処法など思い付くはずもない。

 夏が暮れていく。

 ここ数日、うだるような暑さが続き、さすがのサラも口数が少なくなっていた。

 それでもリオから離れなかったし、リオも彼女の側にいることが当然だと想っていた。

 当たり前の、ふたりきり。

 手を繋いでいることが多くなった。部屋の中にいても、外にいても、人前でも。視線など、気にもならなかった。

汗ばんでも、離そうともしなかった。多少の後ろめたさはある。道徳的には間違いなのだろうという理性が働いてもいる。恋愛とは男女間でするものだという一般的な通念は、リオの頭の中にも蠢いている。

 しかし、それでも、リオは彼女と繋がっていたかった。

 手を離さない以上、サラもそう想ってくれているのだろうと想えて、ただ嬉しかった。通じ合っている。たとえそれが思い過ごしでも構わない。一方的な勘違いでもいい。裏切られ、踏みにじられようとも、リオは自分の本能に抗えなかった。

 本能。

 そう、本能だ。本能が彼女を求めている。サラを欲している。手を繋いでいるだけじゃ物足りない。もっと、もっとと叫び声を上げている。

 だから、夏が終わってほしくなかった。

 夏が終わったら、サラはどこか遠くへ行ってしまうのだ。漠然とした予感は、いまや確信になりつつある。最初に出会ったとき、最初の会話が脳裏を過る。

『少しの間だけど、よろしくね』

 当初その言葉は、転校から夏休みまでの日数の短さを指しているのかと思ったが、どうやらそうではないらしいということは、夏休みをともに過ごしているうちにうっすらと感づいていった。

(少しの間……夏休みが終わるまでの……)

 そう考えると、リオの胸が詰まった。

 九月まであと一週間しかなかった。もっと早くに気づいていれば、と後悔したところで、結局何も出来なかったのではないかという自嘲が浮かぶ。どうしようもないのか。どうすることもできないのか。この想いを届けることも、彼女の望みを叶えることも。

 そんなことばかりが、リオの頭の中を渦巻いていた。

 リオの懊悩が、サラに伝わったのかどうか。

「ねえ、わたしをどこかに連れてって。どこでもいいの。ふたりきりになれる場所なら」

 彼女はそんなふうに告げてくると、いつものようにいたずらっぽく笑った。雲ひとつ見当たらない空の下、その笑顔は太陽よりもまぶしく感じられて、リオはただ胸を高鳴らせた。ふたりきりになれる場所。

 恋する乙女には、心臓が飛び出すような呪文に違いなかった。

(ふたりきりに……)

 思いつく限りでは一箇所しかなかった。

「行こう」

 リオは、意を決した。

 あの場所なら、ふたりきりになれる。ふたりきりになったら、どうなるというのだろう。疑問は胸の中にしまい込み、ただ目的地への道程のことだけを考えた。

 住宅街を抜け、川へ向かう。自転車の後ろに乗せたサラがリオの腰に回した腕の感覚が、リオの動悸を激しくさせた。腕だけではない。サラの体が、胸が、リオの背に触れていた。一日中手を繋ぎ、指を絡ませ合っているとはいえ、ここまで体が密着することはなかったのだ。とはいえ、意識を集中するわけにもいかず、悶々とした感情を抱えたまま、リオは目的地を目指した。

 街を東西に分断する川に架かる橋を渡る。やや都会的な東側と、田舎としか言い様のない西側では、街の様相が大きく異なっている。緑豊かな山々と、いくつかの寺社仏閣、道路は整備されているとはいえ、見渡すかぎりの田畑が、東側の景色とはまるで違っていた。

 サラも初めて見るこの街の別の姿に興味を持ったようだった。

 説明もそこそこに、目的地の山に向かう。国道を逸れ、閑散とした田舎の町並みを抜け、山へと続くスロープに至る。低い山だ。緩やかな傾斜を登りきるのに大した労力はいらなかった。それこそ、リオが体力馬鹿と言われる所以なのかもしれないが、彼女はそうではないと思いこむことにしていた。山は低い。たとえ二人乗りの自転車であっても、息を切らせず登り切ることくらい簡単なはずだ。

 山を抜ける車道、その途中で自転車を止めた。山頂に向かうわけではないし、そもそも、車道は山頂には続いていない。ひとがひとり通れるような山道を進まなければならなかったが、サラは特に気にもしていないようだった。夏の暑い盛り。鳴いているのは蝉だけではない。夏の虫の大合唱が、そこかしこから聞こえてきている。山中では耳に痛いほどだ。それにはさすがのサラも困ったような顔をしたものの、それだけだった。

 山の中は既に人気はない。生い茂る木々と無数の枝葉は天を遮り、痛いばかりの日光はほとんど差し込んでこなかった。木陰の涼しさと木漏れ日の穏やかさは、真夏の日中であることを忘れさせた。

 十数分ほど歩いただろうか。

 山間を流れる小川を辿り、ようやくリオの目指す目的地に到着した。

「綺麗……」

 サラが感嘆の声を上げただけで、リオの小さな胸は充たされた。

「ここは地元のひとには結構知られてるけど、ほかになにがあるわけじゃないから人気ないのよね」

 子供のころからなにひとつ変わらない景色に、リオは胸を撫で下ろす思いだった。この山の近所に住む従兄弟に連れられてここに来たのが随分昔の話で、それから数回訪れたものの、それも何年も前の話だった。水質や環境が変化している可能性も考えられなくはなかったのだが、それも杞憂に終わった。

 近隣の住民には有名過ぎて飽きられ、魚が釣れるわけでもないので釣り人が遠征してくることもない。故に荒らされもせず、ゴミが散乱することもなく、あるがままの自然の姿がそこにあった。

 木々が生い茂る山間に突如として出現する広大な空間。緑の天蓋に開けられた大きな穴には夏の空が覗き、地には、ただただ圧倒されるほどの透明度を誇る湖が存在している。

「あるのは、空の鏡だけ」

「空の鏡……」

「受け売りだけどね」

 笑いかけようと隣を見ると、湖を見つめるサラの横顔の美しさに息を止めなければならなくなった。

 彼女は、空の鏡を見ている。湖面に輝く太陽を映す瞳は、紛れもなくきらめいていた。いや、光を帯びたのは瞳だけではない。リオには、サラのすべてが輝いているように見えたのだ。

 息を飲む。

 幻想の中にいるかのような感覚に心が震えた。

 人のいない湖。ふたりきりの空間。夏の風。湖面が揺れ、波紋が光を散乱させる。乱反射する光を浴び、きらきらと輝くサラの姿は、陳腐にいえば天使のようで。

 リオは、しばらく言葉を失った。

「夜は……星の鏡になるのかしら?」

 サラが、この湖に興味を持ってくれたことは嬉しかった。気に入ってくれてもいるのだろう。

「うん。……夜まで待ってみる?」

 恐る恐る、聞いた。このまま、何時間でも彼女の横顔を見ていたい、その一心ででた一言だった。口に出した瞬間、後悔があった。サラの家は、時間に厳しい。それは痛いほど知っていたはずなのに、言葉にしてしまった。

 一瞬、世界中の時が止まったのような感覚が、リオの意識を支配した。

 サラがこちらを見ていた。天使の横顔が微笑んでいる。まるでこちらの心の奥底まで見透かしているかのような、

「そうね。それもいいかな」

「いいの?」

「だって、せっかくふたりきりになれたのよ。いつまでだって、こうしていたいじゃない」

 そう彼女が笑った時、言葉に出来ないほどの喜びがリオの意識を埋め尽くした。

 

 湖岸に敷いたレジャーシートの上で、ふたりは飽きることなく喋り続けた。いや、言葉を交わすのを止めるのが怖かったのかもしれない。とにかく、なにかを話していなければならない気がした。ふたりの間に空白ができることをひどく恐れた。そうしていないと、ふたりだけではいられなくなってしまう気がしたのだ。

 ふたりだけの時間。

 ふたりだけの世界。

 ふたりだけの――。

 確かにそのとき、世界にはリオとサラのふたりだけしかいなかったのだ。他者の視線も干渉もない。あるのは夏の風景であり、夏の音であり、無意識のうちに意識の外側へと消えていく程度のものでしかない。

 だから、なのかもしれない。

 サラが積極的になったのは。

 手を繋いでいるだけでは物足りないとでもいいたげに腕を絡め、ついにはリオは押し倒された。流転する視界。輝く湖面、遠い木陰、真っ青な空が見えた。そして、熱を帯びた少女の瞳が映りこんでくる。長い髪が、揺れた。

「好きよ」

 囁きがリオの鼓膜を震わせるより早く、サラの唇がリオの唇を塞いだ。頭の中が真っ白になる。真っ白な空白。なにも考えられない。なにが起きたのかさえ理解していなかったのかもしれない。意識が飛んで、どこかへいってしまったような錯覚。けれども本当は、この甘く濃密な接触を認識し、堪能しようとしている自分に気づいている。真っ白だった世界が薔薇色に染まって、目の前の少女の顔さえも輝いて見えた。それもすぐに直視していられなくなる。口づけがあまりにも情熱的だったのだ。体の芯から熱くなっていく。劣情さえも刺激されていくのがわかる。唇を割って入ってきた彼女の舌と自分の舌が絡み合う。持て余していた両手がいつの間にか彼女の腰に回っていた。しかし、それ以上のことはなにも考えられなかった。舌を絡め合うだけで精一杯――というよりも、それで十分だったのかもしれない。

 鮮烈で官能的なひととき。

 愛の実在を確かめ合うように。

 奇跡の所在を探しだすように。

 ふたりだけの時間は静かに過ぎていった。


 いつの間にか頭上には星が瞬いていて、ふたりの気持ちが通じあったことを祝福するかのようだと、サラは微笑んだ。大きな月と、無数の星々。田舎の空は都会よりも何倍も透明で、夏であっても星がよく見えた。夜の闇は決して深くはないものの、山に落ちる影は少女たちに恐怖心を与えかねないものだ。人気のない山の中。リオは、サラの腕にしがみついている自分に気づいていた。

 鏡に例えられる湖面は、夜空をそのまま投影しているかのようで、天にも地にも星が満ちていた。

「素敵ね」

 サラがうっとりとつぶやく横顔の美しさこそ素敵なのだと声を大にして叫びたい衝動に駆られる。が、どうにか堪えることが出来たのは、少女の背中があまりにもか細く見えたからだ。

「永遠なんて、ないのかな」

 サラが、不意にそんなことをつぶやいた。彼女が何気なく口にした言葉は、リオの頭の中に強烈に響いた。きっとサラはそんなこと考えてもいないに違いない。ただ漠然とそう思っただけなのだ。それでも、リオは考える。

「永遠……」

 反芻する。永遠。たとえばこのふたりきりの時空が永遠に続くのなら、どれだけ幸せなのだろう。だれにも邪魔をされず、無限に長く愛を確かめ合えたら、どれほど素晴らしいのだろう。

「わかってる。そんなものはないって。でも、悲しいじゃない」

 サラが腕をほどくのを止められなかったのは、そこに彼女の強い意志が感じられたからだ。邪魔はできない。障害にはなりたくない。

 リオは、持て余した腕で自分の膝を抱えると、サラが立ち上がる気配にびくっとした。幸福で満ちた世界に、小さな恐れが影のように忍び寄ってきているのがわかる。暗い影。抵抗することはできない。

 夏が、終わろうとしている。

「あなたに出逢ってしまったのよ。あなたを知ってしまった。あなたを好きになってしまった」

 出逢わなければよかったのか。知らなければよかったのか。好きにならなければよかったのか。

 確かに、そうなのかもしれない。

 密やかに認める。

 サラと出逢わなければ、リオはいつかどこかで普通の恋をしていたのかもしれない。サラを知らなければ、サラを好きにならなければ、こんな想いを抱かずに済んだのかもしれない。夏の終わりを恐れずにいられただろう。それはきっと平穏で、けれども退屈な、いつもの日々なのだ。

 リオは、顔を上げた。そのまま立ち上がり、湖岸に立ち尽くす少女の背中を見つめる。降り注ぐ星明かりと、湖面に反射して立ち上る光の中、サラの姿はいつも以上に輝いて見えた。

「わたしは、あなたを好きになれてよかったよ」

 サラが、はっとこちらを振り向いたとき、リオは彼女を後ろから抱き締めていた。力強くはない。優しく、ただサラのすべてを包み込むように。

「あなたに出逢えてよかった。あなたを知ることができて、本当によかった」

「……ありがとう」

 リオの手に、サラの手が重ねられた。柔らかな感触。彼女の想いが伝わってくるかのようだった。

「大好きよ」

 リオは、ただそう告げた。それ以上はなにもいわなかった。いや、いえなかったというべきだろう。いいたいことは山ほどあったはずだ。伝えたい想いはいくらでもあったはずなのだ。

 けれど、彼女の震える体を抱き締めるリオには、それが精一杯だった。

「わたしもよ」

 サラが、触れ合った手を強く握り締めてきた。

 ただ強く、ただ優しく抱き締める。

 この瞬間を永遠に留め置くように。

 この愛を永遠に風化させないように。


 やがて夏が終わり、秋の気配が到来するより早く、伊藤サラはリオの前からいなくなった。行き先も告げずに去っていったのは、未練を残したくなかったからだろう。ひと夏の夢は終わったのだ。

 けれども、リオの夢は覚めなかった。

 十年後の今日に至るまで、彼女はあの夏を探し続けている。

「もう一度、逢いたいな……」

 十年前の夏から舞い戻ったリオは、窓の外に広がる空の青さに目を細めた。

 今年の夏は、一段と暑い。

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夏の重力 雷星 @rayxin

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