第6話:“ロイ”

 ロイが雪の上に寝転んで、ポーチから取り出した箱のような物をショットガンの銃身の先端に取り付けている。

 ちょうど拳銃のマガジンのような大きさのそれは、金属か何かで出来ているようで、カチャカチャと微かに硬いものが触れ合う音が、すぐそばに伏せている私の耳にも聞こえて来た。

 あれは、たぶん、サプレッサーってやつだろう。いや、サイレンサーかも知れないけど…って言うか、サプレッサーとサイレンサーってどう違うの…?

「ロイ、それってサイレンサー?サプレッサー?」

私が聞いてみると、ロイは緊張していた表情に微かに笑みを浮かべて

消音器サイレンサー減音器サプレッサーもおんなじ物なんだって。私も知らなかったんだけど」

なんて教えてくれる。

「そうなの…?」

「初めはサイレンサーって呼ばれていたけど、サイレンスって言うほど静かになるわけじゃなから、減音器サプレッサーの方が良いんじゃないか、ってことらしいよ」

私の質問にそう答えながら、ロイはショットガンなのにライフルのように突き出たマガジンを手早く交換してボルトを引いた。

 雪原の向こう、八十ヤードほど先にネコが二匹いる。ロイは、うつ伏せのままショットガンを構えると、迷いなく引き金を引いた。

 カキャンッ!という、まるで空き缶を踏み潰したような音とともにショットガンが火を吹いて、緑色をした樹脂製の薬莢が勢い良く飛び出す。

 立て続けにロイは、もう二回、引き金を引いた。

 カキャンッ、カキャンッ!と耳障りな鋭い音がして、前方のネコ達が雪の上に叩き付けられた。

 それを確かめたロイは、ふぅ、と一息吐いてゆっくりと立ち上がる。私もホッと息を吐き出して、緊張を解きほぐした。

 そしてすぐに、グロックを胸元に握りつつ、すでに雪を払いながら足を踏み出していたロイの後に続いて二人だけの行軍を再開する。

 ネコ達の状態を確かめることもなく、私達は雪原の向こうに伸びるビル群の右側を抜けるルートに復帰していた。

 あれから私達は、ラファイエットパークのある丘を迂回したあの場所でしばらく体を休めて、ラグーナハイツのビル群とラファイエットパークのある丘の隙間を目指して歩き始めた。

 そして、もう半日。ほんの少しの登り道で、足元を取られながら進んでいるせいもあるけれど、それ以上にネコ達の数とそれに警戒するロイの慎重さで、行程はあんまり良いペースで進んでいるとは言い難がった。

 今までが慎重じゃなかったと言うわけじゃないけど、ここにきてロイが周囲を警戒する様子や対応が変わった。

 今までは、こう、スマートな方法で、ネコと出会わないようにしてたし、出会ってもそれを予想していたんじゃなかったって言うくらいの手際で撃退していたのに、ラグーナを目指し始めてからのロイは…何と言うか、執拗だった。

 ネコを見かければ、おびき寄せたり、物陰に隠れて接近して行って撃ち倒したり、さっきみたいにスラッグ弾を使って狙撃したり、なんてことを繰り返している。

 逃げたり隠れたりするんでもないし、出会わないようにと工夫しているわけでもない。そういう細かいことをしている間に、囲まれてしまったりするんじゃないかって思うくらい、ネコ達との遭遇する回数が多い。

 私は、そんなロイを見て、今の状態がそれだけ危険なんだな、と暗に感じ取っていた。

 手にしたグロックを撃つ機会はまだないけれど、それでも歩きながら、セーフティを外して狙いを定め、引き金を引くイメージだけは怠らない。そういう心掛けが、私自身のことも、そしてロイのことだって守るのに必要なことだと思えていた。

 「止まって」

不意に、ロイがそう言った。

 ロイの影からチラリと前を見やると、そこにはまたネコ。距離は、三十ヤード、ってところだ。今度は一匹だけのようだけど…

 「周り、見てて」

そう言うとロイは、膝を付いてスラッグ弾を装填されているショットガンを構えた。

 私はロイを視界の隅に捉えつつ、辺りの様子を伺う。

 ガキャンッ!と、ロイのショットガンが鳴った。その瞬間、私が視線を向けていた十ヤード程先の建物の屋上の影から、ピンと耳を立てた巨大な何かがバッと飛び出してきた。

 シェ、シェパードだ…!

 心臓がビクンと飛び上がった。

「ロイ!」

私はそう叫びながら、グロックのセーフティを外してシェパードの方に突き出す。引き金を引くと、パンッと乾いた音を立てて銃口が跳ね上がった。

「伏せてっ!」

ロイの叫び声が聞こえた次の瞬間、私は空中に放り投げられた何かを見た。

 あれって…今朝持って出た、ブタンのボンベ…?

 空中を舞うボンベに注意を奪われてハッとしていた私を、ドンっと鈍い衝撃が襲った。ロイが私にぶつかって来て、二人して折り重なるようにして雪の上に倒れ込む。

 そんな状態になりながら、ロイはショットガンをガキャンッと鳴らした。

 とたんに、シェパードのすぐそばで何がかカッと瞬いて、ボンッ!と派手な爆発音が鳴り響いた。

 ロイが撃ったショットガンの弾が、ブタンのボンベを撃ち抜いて起きた爆発だった。

 それを間近で受けたシェパードは、慌てた様子で踵を返し、雪原の彼方へと走り去って行く。ロイは、素早く体を起こすと、そんなシェパードに耳障りな音をさせながらショットガンで追撃を浴びせかけた。

 私も、何とか体を起こしてシェパードに向かってグロックの引き金を引いたけれど、シェパードは猛烈な勢いで逃げて行ってしまって、とてもじゃないけど私なんかじゃまぐれでも当たるわけはなかった。

 「ちぇっ…逃しちゃった…」

ロイはそう言って、ショットガンのマガジンを交換し始める。私は、ホッと息を吐いて、ペタン、とその場に座り込んでしまっていた。

 今のは、危なかった…

 そんなことを思った私の心臓は、ドキドキと早く大きく鳴っている。ガシャンと音を立ててマガジンの交換を終えたロイが、

「ありがとう、助かったよ」

なんて言ってくれる。

「ううん…す、すごい、ビックリした…」

そんな言葉しか出てこなかったけど、ロイはクスっと笑った。

 私はロイに手をひかれて、何とか雪の上に立ち上がる。少し膝がガクガクしてはいるけれど…歩くのは、大丈夫そうだ…

 そんな私の顔色は相当悪かったんだろうか、ロイは私の前にしゃがみ込むと、ショットガンを背負い、私をギュッと抱きしめた。

 ロイが私を励まそうって思ってくれていることくらい、分かる。だから私は、素直にロイに抱き着いて、ビックリしたのと…怖かった気持ちをロイに受け取ってもらう。

「心臓が止まっちゃうかと思った…」

「大きかったしね、今のは」

「うん…ゾウみたいだった」

「そうだね…でも、大丈夫。追い払えたから」

そう言ったロイは、ゆっくりと私の体を開放して、ペチペチと私のほっぺたを優しく叩いて

「歩けそう?」

と聞いてきた。

 そうだ、こんなところで止まってちゃ危ない…せめて、身を守れそうな場所まで移動しなきゃいけない…怖がってるときなんかじゃないんだ。

「うん、大丈夫」

私はそう返事をして頷いた。それでもロイが少し心配そうな表情で私を見詰めて来るので、私もロイを見つめ返し、

「ボンベ、あんな使い方をするために持って来たんだね」

と、話題を変えに掛かった。するとロイは、小さくため息を吐いて、心配げな表情を笑顔に変える。

「うん。もちろん、コンビニエンスフードを温めるのにも使うけどね」

そう言ったロイは、ショットガンを構え直して立ち上がった。私も、ポケットに詰め込んで置いたグロックのマガジンを交換して、スライドを引き直し、セーフティを掛ける。

 それを待っていてくれたロイは、私の準備が整ったのを見て

「行こう」

と声を掛けてきた。

「うん!」

私もなるべく力強くなるように答えて、再びロイの後に続いて雪原を歩き始めた。

 そして私とロイは、辺りを警戒しながら、ついにラグーナハイツのビル群の目と鼻の先まで辿り着いた。

 見上げれば、ところどころ雪に外側を包まれたビルが空に向かって伸びている。

 その姿は、真っ白なこの雪原にはおおよそ不自然に思えるほど、人工的な佇まいをしていた。

 そんな私の傍らで、ロイは手帳を広げ、コンピュータで方角を確認している。

 ロイの表情は硬い。緊張と、不安と…もしかしたら、恐怖を感じているんじゃないかって思うほどに、強張った色をしていた。私にも、そんなロイの気持ちが伝わってきて、手と胸と肩にギュッと力がこもってしまう。

 やがてロイは、進行方向を見定め、大きく息を吐いて手帳を閉じた。そして、呟くように言う。

「やっぱり…通らなきゃダメ、なんだね…」

ロイは、まっすぐにビル群の右側。少し窪んだ辺りを見詰めていた。

 「ロイ、少し休憩して行く…?」

私は、そんなロイの様子が心配になってそう提案してみる。スニッカーズを食べて元気になれば…気持ちだってきっと違って来る、ってそう考えていた。でも、ロイは力なく首を横に振った。

「ううん。このまま行く…もう、時間がなさそうなんだ」

「時間…?」

私は、ロイの言葉の意味が分からなくてそう聞き返していた。

 確かに朝出発してから半日以上は経っているだろう。このままのんびりしていたら、夕方になってしまう。そうなったら、こんなネコがたくさんいる場所に留まるのがどれほど危険かは私でも分かる。

 だけど、それでもまだ夕方までは余裕はあるはずだ。それとも、ここを抜けるためには時間が掛かるのだろうか?確かにネコがあちこちにいるんだとしたら、今まで以上に警戒して進まなきゃ行けなくなる。ロイは、そのことを心配しているんだろうか?

 でも、ロイは、そんな私の疑問には答えてくれなかった。代わりに、手に持っていた手帳を、スッと私に差し出してみせる。

「ロイ…?」

「これ、預かってて」

ロイは、ロイの言動の意味がわからず、戸惑うしかない私に、静かな口調でそう言った。そして、私が口を挟むその前に、ロイは私を抱きしめた。これまでで一番力強く、そして、気持ちのこもったハグだった。

 私は脳裏に、母さんが父さんを探しに行く直前、私を同じように抱きしめてくれたことを思い出して、心臓が止まった気がした。

「何があっても、私から離れないでね」

耳元で力強く言いったロイは、すぐに私を開放して立ち上がった。その表情は、何かを決意したような、そんな色をしている。

「ロイ!」

私は、ロイの脚に飛びついた。

 分からない…分からないけど…ロイが、遠くに行ってしまうような、そんな気がした。母さんのように、この手を離してしまったら最期、会えなくなってしまうんじゃないかって、そう感じられる。

 どうしようもなく胸が苦しくて、ロイが何を思ってあんなことを言ったのかも分からないのに、体が震えて涙がこぼれ落ちてくる。

 「レイチェル…大丈夫。約束するよ…」

不意に、ロイの声が聞こえた。

「私は、あなたを一人になんてしない」

そしてロイは、私を振り払うようにして、ザクザクと雪の中を進んで行った。

 私は胸が引き裂かれそうな想いに駆られ、手渡された手帳をジャケットのポケットに押し込んで、ロイに縋りつこうとその後を追う。でも、ロイはまるですべての力を出し切ろうとしているように、雪の中をズンズンと進んでいた。

 重いリュックサックを背負っている私は、ロイが踏み固めた雪の上を歩くので精一杯で、縋り付くどころか、置き去りにされないように距離を保つことしか出来ない。

 そうして私達は、大きなビルのすぐ下の窪地までやって来ていた。

 ビルは、雪の上だっていうのに、五階か六階くらいまでの高さが空に突き立っている。窪地には雪が溜まっていてそこが元々何だったのかは知ることは出来なかった。

 ただ、その窪地の中央辺りに、ポツンを雪から顔を覗かせている。尖った先端の、まるで塔のような何かに見える。ロイの後ろを必死に追い掛けながら近づいて行くと、それは円盤のようなものが縦に重ねられたような形をしていて、その上には奇妙な形をした飾りが、雪に包まれた姿で乗っている。

 そしてその窪地の先には、一面真っ白な雪原が広がっていた。

 ここを超えれば…少なくともネコの数は減るはずだ。危険もなくなるに違いない…それなのに、ロイはどうしてあんなことを…?

 どうして、そんな顔をしてるの、ロイ…!

 私は、目に前の景色を見て胸に込み上がった想いをロイにぶつけようと、息を飲んで、お腹に力を込めた。

 その瞬間だった。

 ガシャン、と背後でガラスの割れる音が聞こえて、ロイが素早く振り返った。そして、ほとんど間もなく、カキャン、カキャン、カキャンッ!と立て続けに引き金を引いた。

 私が事態に気が付いて振り返ると、そこには、私達が背にしていたビルから、たくさんのネコ達が這い出て来る光景があった。

 「レイチェル、私の後ろに!」

ロイがそう叫んだ。

 私は、ハッと我に返って雪原を駆け出し、転びそうになりながら、立ち止まって膝を付き、数十フィート先のネコ達に発砲を続けるロイの背後に回った。

 カキャン、カキャンカキャンッ!と、鋭い銃声が雪面に溶けていく。ネコ達の何匹かは銃弾を受けているようだけど、それでも後から後から湧いて出る。

 パッと見ただけでも、十数匹はいた。

 こんなにたくさんのネコを相手にしたことは、これまで一度もなかった。私達の後ろには隠れるところなんて見当たらない。ブラッドハウンドのときや船のバルコニーのときのように、狭いところに身を潜めて戦うことは出来ない…この広い雪原の上で、私達は、正面からあのネコ達を相手取るしかなくなっていた。

 カキャン、カキャン、カチンッ!と、銃声が微かな金属音で途絶えた。

「あぁ、もう!」

ロイがそう声を漏らして、素早くマガジンの交換に入る。

 ネコ達は、まるでその瞬間を見計らったかのように、身を低くして一気に私達との距離を詰め始めた。

 私は、ギュッと胸を締め付けられ、息も出来ないほどの緊張に襲われながらも、握っていたグロックをネコ達に向けた。

 引き金に指を掛け、力を込めようとしたとき、不意にロイが叫ぶ。

「まだ撃たないで!ギリギリまで引きつけないと、拳銃じゃ倒せない!」

「で、でも、ロイ!」

私は、ロイを見やってそう声をあげる。ロイは、歯を食いしばり、険しい表情ながら、声を張って言った。

「約束は、守る…!」

 そして、マガジンの交換を終え、ボルトを引いたショットガンが、耳障りな音を立てて火を吹く。

 先頭にいたネコが雪に脚を取られるようにして転げた。それを飛び越えるようにして交わしたネコは、着地を見誤ったようにして雪面に激突する。でも、その両脇からは次から次へとネコ達が押し寄せて来ていた。

 私達とネコ達との距離がグングン近くなって行く。

 ロイに拳銃で迎え撃つのを押し留められた私は、ただただそれを見ていることしか出来ない。そんな私に、カキャン、カキャンッ!とショットガンを打ち続けていたロイが叫んだ。

「レイチェル!私のポーチから予備のマガジン出して!赤いシェルの方!」

「う、うん!」

ハッとして、私はロイの腰に飛び付いた。ポーチを開けると、中から三本、赤いショットシェルが装填されたマガジンを取り出す。

 「あと二発で切れる!」

ロイがそう叫んだ。

 その言葉で、私はロイが何をして欲しいかが分かった。

 カキャン、カキャンッ!と二発を撃ち終えたロイは、マガジンを雪面に落としながら、後ろ手を私に向ける。

 私は、ロイのその手に、素早くマガジンを手渡した。

 ロイはそれを受け取ると、流れるような動作でショットガンにセットし、ボルトを引いて再び引き金を引き始める。

 赤いショットシェルは、散弾だ。距離が近付いて来ているから、一発だけのスラッグ弾よりも、弾が広がって面で相手を狙える散弾の方が欲しかったのだろう。

 ロイが連続で引き金を引くと、甲高いサプレッサーの音とともにネコ達が何匹かいっぺんに雪面に転げた。

 でも、それを受けたネコ達は、不意に進路を左右に大きく変えた。左に二匹、右に四匹が私達を取り囲むようにして散る。距離はもう、十数ヤードしかない…!

 「レイチェル、左!足元を狙って!」

ロイが再び叫んだ。私は咄嗟に、握っていたグロックを両手でしっかりと持って、左に抜けた二匹のうちの、トライカラーの方の足元に狙いを付ける。

 カキャン、カキャンッと右に抜けた四匹に銃弾を浴びせ掛けているロイを背にして、私は引き金を引いた。

 パンッという破裂音とともに衝撃が腕に伝わって、銃口が跳ね上がる。足元を狙ったからか、跳ね上がった銃口がちょうどネコの胴体を捉えて、腰の辺から微かに血煙が上がった。

 ビクンと体を反応させたトライカラーのネコは、しかし、ほんの少し足を緩めるだけで、倒すどころか追い払うことすら出来ていない。

 ネコとは言っても、今やライオンかトラほどのサイズがある。グリズリーなんかに拳銃が効果がないように、あの大きさになると、いくらグリズリーほど脂肪がないネコだとしても、急所に当てなければ効果が薄いんだ…!

 「ロイ…!」

私は、再びネコに狙いを定めながらロイを呼ぶ。拳銃じゃ、どうにもならないよ、ロイ…!

 だけど、そんな私に、ロイは叫んだ。

「撃って!」

カキャン、カキャンッ!とロイが、右に向かったネコへ未だに引き金を引いている音が聞こえる。倒せているのかは、背中側だから分からない。

 でも、とにかく…撃つしかない…!

 私は、さっきと同じようにして足元に狙いを付けて引き金を引いた。

 再び衝撃が腕を襲って、ネコの足元に雪煙が立つ。

 あぁ、外れた…!

 それでも私は、跳ね上がった銃口を再びネコの足元へと向けた。倒すことも追い払うことも出来ない。でも、当たれば痛いはずだし、さっきも一瞬だけは反応していた。せめて、ロイが右のネコを倒し切るまでの時間を稼ぐしかない…!

 私は、ロイが必ず掩護してくれると信じて三発目を撃った。今度は、血煙も雪煙立たない。ネコの背後に抜けて行ってしまったようだった。

 その瞬間、ネコがクネっと体の向きを変えて、私達の方に突進して来た。

 ほんの一瞬、瞬く間に距離が数ヤードのところにネコが迫る。

 私は思わず息を飲んで、慌てて跳ね上がったグロックでもう一度狙いを付けようとして、気が付いた。体が動かなかった。

 まるで凍り付いてしまったみたいに、いうことを聞いてくれない。

 ネコが勢い良くこっちを目掛けて飛び掛かって来る。そんなネコの鋭い眼光と牙に縫い止められ、私は背中を走る恐怖に、体を支配されていた。

 次の瞬間、私は何か強い力に跳ね飛ばされて、雪の上に転げていた。

 そんな私が見たのは、体の向きを変え、素早く引き金を引く、ロイの姿だった。

 カキャンッ!と音がして、ズザッとネコが雪の上に倒れ込む。しかし、その後ろに隠れるようにしていたトライカラーの方が、ロイの散弾を受けないままにロイに飛び掛かった。

 ロイは素早く私の上に倒れ込れこむようにして身を投げて来た。そのすぐ脇を、ネコがすり抜け、数ヤードのところですぐに足を付いき、態勢を整え直す。

 そしてほんの一瞬で、ネコは再び私達に向かって身を屈めた。

 カチンッ、と金属同士の触れ合う小さな音がした。

 ロイのショットガンの引き金が立てた、空撃ちの音だった。

「あぁっ…!」

ロイが、息を飲んだのが分かった。

 ネコが雪を蹴って、私達へと飛び掛かって来る。

 ほとんど、反射だった。

 私は雪の上に倒れ込んだまま、グロックを片手で、ネコに突き出していた。そして、ネコが雪を蹴ったのとほとんど同時に、私の手を包み込むようにして握ったロイの手に支えられて、私は、無意識にネコの首元に引っ付いていた何かに向かって引き金を引いた。

 鈍い衝撃とともに、ボンッ!と、耳を貫くような破裂音が鳴り響き、ネコは、何かに弾き飛ばされたような勢いで雪の上に崩れ落ちた。

 煙の立ち上る銃口を見詰めながら、私は、ネコの首元にくっ着いていたのが、ロイの持っていたブタンのボンベだったことを理解していた。

 それは、爆発があったからじゃなかった。まるでグロックの引き金を引く直前の光景が、頭の中でスロー再生されているように思い出されていたからだ。

 そしてその映像のせいでまるで現実のように感じられなくて、頭の中が真っ白になっていた。

 それでもなんとか、私は、とにかく、息を吸おうとした。呼吸すら忘れていた私は、胸に入って来た冷たい空気で我に返って、自分の上にロイが折り重なったままでいることに気が付いた。

「ロイ…ロイ、大丈夫…?」

そう声を掛けてみるけれど、ロイは反応しない。

 ふと、全身に何かが感じられる。それが何かに気が付いた私は、再び、ロイの名を呼んでいた。

「ロイ…ねぇ、ロイ…!」

ロイは、震えていた。

 全身をガタガタと震わせ、まるで熱病か何かに冒されているときのようだ。

 ロイ…まさか…ケガしてるの…?

 私はハッとして、圧し掛かって来ていたロイの下から這い出して、改めてロイの様子を見やる。

 何処かから出血があるわけでもない。見る限り、骨を折っているような様子もない。それでもロイは、ガクガクと、目で見て分かるほどに震えている。

 私は、ロイの体を抱きながら、周囲を見回した。

 あたりには、ネコの死骸が散らばっている。未だにビクビクと体を震わせているのもいるけれど…とてもじゃないけど、生きているとは思えない状態ではあった。

 ビルの方にも、もうネコの姿はない。

 …私達、助かったんだ…

 それを確かめてから、私は再びロイに視線を戻す。 

「ロイ、ロイ!しっかしして、ロイ!」

私はそう声をあげてロイの体を揺すった。

 するとロイは、まるで全身の力が抜けてしまったかのように、震える腕で体を支えながら顔をあげる。

 私は、その顔を見て、一瞬、ギュッと胸が詰まった。

 ロイは…涙をいっぱいに流して、泣いていた。 

 そのままフラフラと雪の上に何度か崩れながらも立ち上がったロイは、おぼつかない足取りで歩き出した。

「ロイ…!」

私は、リュックサックを置き去りにして歩き始めたロイに飛びついて、なんとかその体を支える。

 ロイは、そのまますぐそばにあった、雪から飛び出たあの奇妙な塔のようなものの下まで歩くと、その前で膝を折り、雪の上に突っ伏した。

 やっぱり、どこか、ケガをしてるに違いない…手当て…手当てをしないと…!

 私は、包帯や傷薬なんて持ってもいないのに、とにかくそう思ってもう一度ロイの体の様子を確かめる。でも、どこからか出血している様子はない。骨折もしていないみたいだけど…でも、見ただけでは分からないかもしれない。も、もしそうだったら、えぇと、そう、添え木…添え木をしないと…

 半ばパニックになっていた私は、そんなことを思いながら震えるロイの体を、とにかく支える。

 でも、そんな私の耳に、ロイの呻くような声が聞こえた。

「ロイ…ロイ…敵は、とったよ…ねぇ、ロイ…」

うわ言のようでもあり、誰かに話しかけているようでもあった。

 ロイは、不意に、その両腕で、塔の下の雪をかき集め、まるで何かを懐かしむように、すがるように抱きしめる。

「ロイ…私、やったよ…ロイ…」

ロイは、そう繰り返している。その頬には、大粒の涙がとめどなく流れ出ている。

 ロイは、自分に話しかけているの…?どうして?

 私は、急に不安になった。安心して気が抜けてしまっただけなら、まだ良い。

 今の戦いは、明らかに今までとは違った。ロイも私も必死だったし、最後の場面は本当に危なかった…どうしてネコの首にブタンのボンベがくっついていたのか分からないけど、きっとロイが何かを仕掛けてくれておいたのだろう。でも、あんな事態を経験してそれをなんとか切り抜けたロイの心が壊れてしまったんじゃないか、って、そう感じられた。

 「ロイ、ロイ!ねぇ、しっかり!」

私は、そう言ってロイの肩を揺する。するとロイは気が付いたように顔をあげ、そしてバッと腕を伸ばしてきて、私をギュッと抱きしめた。

「…もうちょっと…もうちょっとで、やり遂げられる…私、頑張るよ、ロイ…」

ロイは、掠れた静かな声でそう言った。

 その言葉に、私は確信する。うわごとや、自分に言い聞かせているんじゃない。ロイは確かに誰かに向けて、この言葉を発している。ロイが、“ロイ”と呼ぶ誰かに、だ…。

 「ロイ…大丈夫だよ…ロイ」

私は、ワケが分からなかったけど、とにかくそう言ってロイの背を撫でた。とにかく、ロイは今、何か強い感情に揺さぶられているんだ。私はそれをなんとか受け止めてあげたい。今まで、ロイが寂しさや不安、悲しさを全部受け止めてくれたように。

 それからロイは私にすがるように抱きつきながら、しばらくの間、まるで子どもみたいにしゃくりあげ、泣き続けた。

 ロイの泣き声は、雪原に響くわけでもなく、ただただ、私の肩に押し当てられた口から、私の心と体に伝わってきていた。

 どれくらい経ったか、ロイはようやく気持ちを整えて、クスン、と鼻をすすりながら私を解放してくれた。

 その顔は、涙に濡れ、そして私の肩にはロイの鼻を繋ぐ鼻水の架け橋が出来上がっている。

「…ごめんね」

ロイは、泣いてしまったことなのか、鼻水を擦りつけたことを、なのか、とにかくそう言って謝り、涙を拭き、鼻水もグイっと拭って見せた。

「ううん、平気…いつもは私が頼ってばっかりだったから…少しでもお返しができて、良かった」

私がそう言うと、ロイは嬉しそうに笑ってみせる。

 それからロイは、そのままペタン、と雪の上にお尻を落として座り込むと、ふう、と深呼吸をして口を開いた。

「ここから先は、真っ白な未来」

それは、私に言うでも、さっきの“ロイ”と呼ぶ誰かに告げるでもない、たぶん、ロイ自身に向けられた、決意の言葉のように感じられた。

「どういう、意味?」

私は、さっきのロイの言葉への疑問を含めて、ロイにそう尋ねてみる。するとロイはもう一度大きく深呼吸をして、言った。

「さっきの預けた手帳…開いてみて」

手帳…?

 私はロイに言われるがまま、ポケットに押し込んでいた手帳を引っ張り出して、恐る恐る表紙を開いた。

 そこには、一枚の古びた写真が挟まっていた。まるで、数十年に撮られた写真のように、色あせて、ヨレヨレで、端っこなんかは擦り切れてボロボロになってしまっている。

 でも、そんなことは、あり得なかった。

 だって、だってこの写真に写っているのは…私と、私の両親…母さんと、父さんだ…

 私は慌てて、自分の手帳を取り出して開く。そこにはちゃんと、私がシェルターで心の支えにしていた、家族三人で撮った写真が挟まっている。

 私は、二枚の写真を見比べた。それは、まったく同じものだった。古いか新しいかの違いはあっても、そこに写っている三人の笑顔も、背景の家の中の様子も、何一つ、違うところはない。

「母さんと父さんは、私の名前を付けるときに、ケンカをしたらしいんだ」

不意にロイがそう言ったので、私は顔をあげた。私を見つめるロイの視線は穏やかで、まるで私を愛くしむようでもあり、哀れんでいるようでもあった。

「結局二人は、私にそれぞれが付けたかった名前を、両方付けたの」

まさか…そんなこと、ない。あり得ない…だって、それは…その話は……

 私の母さんと父さんが、私に話してくれたことだったから…

 だけどロイは、混乱している私を確かめながら、それでも続けた。

「私の本当の名前は、ロイじゃないんだ。私は…レイチェル・オリビア・ヤング…」

呼吸が、思考が、停止した。

 そんな私に、ロイは、優しい笑みを作って、言った。

「…私は、十年後の未来から来た、あなた自身なんだよ」

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