第4話:もしも…

 「ロイ…あれ…! ビルが見える…」

「うん。サンフランシスコの市街だね…」

まるで冷凍庫を開けたときのような白いモヤの煙るその向こうに、雪化粧を施されたビル群がそそり立っている。

 ワンマーケットプラザのビルに、先端の尖ったガス会社のビル。その手前には、大手の銀行のビルと、ハイアットホテルの傾斜した独特の形をした建物も見える。

 真っ白に染まって見違えるようだけど、でも、そこは間違いなくサンフランシスコの中心部だ。

 船を出発してどれくらい歩いたか、私達は、サンフランシスコのノースビーチ周辺に辿り着いていた。ここに来るまでにネコ達とは出会わず、海の上に積もった雪も平らだったし、昨日ほどの距離歩いたわけでもなかったから、体の方はまだなんとか元気だ。

「ちょっと南にそれ過ぎちゃったかも…」

ロイは、腕のコンピュータを睨みつつ、そんなことを呟く。

「近づかない方が良いんだよね…?」

「うん」

私が今朝の話をすると、ロイはコクっと頷いて答えてくれた。

 コンピュータと景色とを見比べたロイは、ビル群を左手に見てずっと右、西の方を指差して

「こうして見ると、やっぱり、あっちの方角じゃないとダメみたい」

と、少し難しい表情で言う。市街を避けてビーチからサンフランシスコに入る、と言っていた通りだと思うんだけど…どうしたんだろう?

「何かあるの、ロイ?」

不思議に思ってそう聞いてみると、ロイは肩をすくめて

「サンフランシスコは、坂の多い港街」

とだけ言う。

 その一言で、私もロイの心配していることが手に取るように分かった。

 サンフランシスコの街は金門海峡を形作る南側の半島の北端にある。そしてその半島を形成しているのがサンタクルーズ山脈に繋がる山並みだ。サンフランシスコは、半島のちょうど真ん中を走るその山並みを頂点にして広がっている。

 市街の中心部だけはなだらかだけど、それ以外の場所はどこへ行っても山の麓のような坂ばかりだ。

 そして、父さんのいる研究所はその山の頂上付近。ツインピークスって呼ばれてる双子の山のすぐ近くの、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の構内だ。

 要するに、この方向から研究所に向かおうとすればちょっとした登山になる。この、気を抜くと足を飲み込もうとする雪の中で、だ。

 「スキー板でもあれば楽かな?」

考えるだけでも疲れてしまいそうな気がしたから、そんなことを言ってちょっと気持ちを切り替える。

「スキーなんてやったことないよ」

ロイが笑顔でそう返事をしてくれたので

「私もない」

と正直に白状して、笑顔を返す。

 それにまた笑顔を浮かべてくれたロイの後ろに着いて、私はザクザクと雪を踏みしめ移動を再開した。

 ロイは、海の上を歩いている間はずっとショットガンを背負ったままだった。見通しも良かったし、ネコ達が近付いて来ればすぐにでも気が付けたから、それほど緊張していなかったんだろう。

 でも、そんなロイが、ここへ来てそっとショットガンを両腕に抱えた。海の真ん中と違って、ここは元々は街だった。昨日ロイが言ったように飼い犬や飼い猫があんな姿になっているんだとしたら…これからは緊張感を持った方が良いだろう。そんな意識をしなくたって、そもそもロイが銃を構えたら私は緊張せざるを得ないけど。

 私は、背筋に這い始めた悪寒に負けないように、周囲を注意深く見回しながら、ロイの後へと続く。ロイも辺りを見回して、ネコ達の姿がないか、つぶさに観察していた。

 私達は、歩いた先にあった小さな丘へと這い上がる。その先に見えたのは、目の前に立ち塞がるようにして広がる真っ白な山だった。

 普段は建物が並んでいて海岸線から見上げても坂らしさを実感出来なかったしけど、今はあちこちでこぼこと建物が埋まっているらしい形跡こそあるものの、全体を見ればまるでエクストリームスポーツでもするような場所のように見えた。

 私は、これから目の前の山を登るんだ、ということを考えて、一瞬、頭から血の気が引いてクラっと膝から崩れそうになる。

「目眩がするね」

ロイも同じのようで、私を見やってそう言った。

 でも、ロイはそれからすぐに

「まだちょっと早いけど、今日のところは休める場所に行こう」

と、左腕のコンピュータをいじり始める。

 確かに、今からあの山を登り始めて夜にでもなったら遭難しちゃうかも知れない。

 ロイは胸元から取り出した手帳とモニターを見比べて、ボタンをいくつか操作しながら何かを確かめている。

 そう言えば、ロイのあのコンピュータは一体何なんだろう?いつもああして手帳と見比べているけど、そういえばあれがどう役に立っているかはボンヤリとしか分からない。

 小さなモニターに、ボタンがいくつか付いていて、マジックテープみたいな布を腕にグルッと巻きつけて装着している。ウェットスーツの袖口にケーブルが伸びているから、きっとあれでバッテリーから電気を貰っているんだろうけど、あんなコンピュータは見たことがない。

 スマートフォンみたいなものなんだろうか?これまでの行程で、あのコンピュータには地図を見たり現在地を知る機能があることや、こんな真っ白な世界で方位を知ることも出来るらしいのはなんとなく分かった。

 他の機能は知らないけど、普通の家電のお店やなんかには置いてない代物だろう。少なくとも私は見たことがない。

 「ロイ。そのコンピュータ、他に何が出来るの?」

私はふと、ロイにそう聞いてみた。するとロイは、チラッと私を見やって

「気になる?」

なんて聞いてくる。

「うん。あ、深い理由はないんだけど…」

私が答えると、ロイは一度コンピュータのモニターに視線を戻してから、また少し操作をしてから再び私を見やって

「今夜教えてあげる。ひとまず、少し北へ回って行った方に大きめのアパートがあるから、そこへ行こう」

と笑顔で言い、それからフラッと私のすぐそばまで来て身をかがめると、不意に私の体をギュッと抱きすくめた。

「ロイ…!?」

「シッ。静かに」

私が驚いて声をあげるとロイは耳元で静かに囁く。ロイはそのまま、私の体を抱きかかえつつ、膝をするようにしてほんの僅かに盛り上がった雪山の影まで移動した。

 「どうしたの、ロイ?」

「あれ。見える?」

私が聞くとロイはそう言って私を後ろから抱くように体制を入れ替え、ゴムのような手袋をはめた手で、雪原の向こうを指差した。

 私は、ハッとして息を飲む。

 そこに居たのは、ネコじゃなかった。少し詰まった鼻先に、長く垂れた耳。茶色い毛並みに、ヒョロっと細長い尻尾。それはまるでイヌの姿のようだった。

 でも…でも、その大きさは…まるで距離感がおかしくなってしまっているかのようだ。ウマか…ウシ…ううん、それ以上に大きいかも知れない…

「ロイ…あ、あれって…」

「ブラッドハウンド」

私の問に、ロイはまた短く答え、そっと私の手を取った。

「あの種は耳は良くないけど、鼻が良いんだ。こっちが風下にいる間に移動しよう」

そう言ったロイは笑っていた。でも、けっして絶対に大丈夫だと思っているわけじゃない、っていうのが感じられる。笑顔だったけど、ロイの顔付きは、寒さ以外の何かで微かに強張っていた。

 それを見た私も、胸を押し潰されそうな何かに体を支配されそうになりながら、それでもロイの手をギュッと握り返して

「分かった」

と、頷いて答えた。



***



 私達はそれから、足早に雪道を歩いたその先で、まるで洞窟のようにポッカリ空いたアパートのバルコニーらしい場所を見付けた。

 ロイがショットガンを構えて中に入って、バルコニーが見えていた部屋から廊下に出て、別の部屋のドアを蹴破ってそこを休憩の場所と決めた。

 その部屋も、バークレーのアパートや船のときと同じでバルコニーまで雪で埋まっている。これはもちろん、外から襲われないようにする備えだっていうことが、船のときの経験で分かっていた。

 私達は、あのブラッドハウンドの嗅覚を警戒して、火を使ったコンビニエンスフードを控え、ロイの持っていた固形のクッキーみたいな非常食を食べるだけにした。ロイには申し訳ないけど、やっぱり美味しくはなくって、無理矢理お腹の中に押し込んだ、って感じだ。

 匂いが残らないように、食べ終わったレーションの包み紙を、ロイが部屋にあった冷蔵庫の中に丸めて投げ込む。冷蔵庫は、一番匂いやなんかが漏れないらしい。考えてみれば、中の温度を保っていられるくらいの気密性があるんだ。ロイの言うことに、私は素直にすごいな、なんて思ったりしていた。

 そんなロイはこれまでずっと私に安心感を与えてくれている。でも、今のロイは違う。ううん、あのブラッドハウンドを見かけてからのロイは、私が見ても分かる程に緊張していた。

 今も、ロイはベッドには横にならずに部屋の真ん中に座り込んで、ショットガンを抱えたまま、全身の神経を尖らせるような気配を放っている。ロイがそんな状態なのに、私が安心して眠っていられるはずがない。

 結局私もベッドで眠ることが出来ずに、撃てもしないグロックを握りしめて、ロイに寄り添うようにしてカーペットの上に座り込んでいた。もちろん冷えてしまうから、ブランケットを一枚敷いて、もう一枚を二人で被ってはいるけれど。

 「寒くない?」

寄りかかっていた耳元で、ロイが静かにそう声を掛けてくれた。

「うん、平気」

私はそうとだけ応える。ベッドでブランケットを被るのに比べたら寒いのは言うまでもないけど、それでも、凍えてしまうほどではない。ロイのウェットスーツ越しに電熱の暖かさも伝わって来ているし、そもそも私は防水のズボンとダウンのジャケットを着たままだ。

「そう」

ロイは、やっぱり静かにそう返事をして、全身に漲らせていた警戒感をほんの少しだけ緩めた。カシャリ、とショットガンの金属が触れ合う音がしたと思ったら、ロイの左腕が伸びてきて私の体をギュッとそばに引き寄せる。

 「昼間の話だけどね」

ポツリと、ロイがそんなことを言い始めた。

「少しだけ、教えておくね。これの使い方」

ロイの言葉とともに今度は右手が伸びてきて、肩越しからちょうど私の目の前に姿を表していたコンピュータを指差した。

 改めてこうして近くでみると、想像していたよりもゴテゴテしている。全体はロイの着ているウェットスーツに似たグレー。防水のためなのか、硬そうなゴムのような外枠がいくつものスクリューでしっかりと固定されている。そのゴムに包みこまれるように、スマートフォン程度のモニターがある。モニターはちょうど腕時計をしているような位置にあって、腕の方にスイッチが五つ。ひとつは真っ赤に色付けされていて、残りの四つは黒。良く見ると、それぞれに文字が書き込まれている。

 Up、Dn、Ent、Can。つまり、アップ、ダウン、エンター、キャンセルで、これは操作に使うスイッチのようだ。機械はそれほど得意じゃないけど、これくらいのスイッチで操作できるなら、覚えられそうな気がする。

 思えば、私はロイに助けられてばかりだ。そんなことを考えたくはないけど、もしロイに何かあったときでも、これの使い方を覚えておけば、ロイを助けてあげられるかも知れない。

 そう思って私がロイの言葉に耳を傾けた矢先、ロイはまるでたった今、私が考えたことを読み取ったかのように言った。

「私にもしものことがあったときは、迷わずにこの赤いスイッチを押して」

同じことを考えていたはずなのに、いざその言葉がロイ自身の口から聞かせれると、とたんに心臓がギュッとなる。 

 「それ押すと…どうなるの…?」

それでも私は、恐る恐るそう聞いてみる。するとロイは、私に回した腕に微かに力を込めて言った。

「これは、ショートカットキー、かな。事前に割り当てた機能を自動で起動させてくれる。ディファイブリレーター、って分かる?」

ディファイブリレーター…確か、心臓マッサージをする機械…のことだ。

「あの、『離れて!』『クリア!』、みたいなやつ…?」

私が言ったら、ロイはクスっと笑ってくれた。

「そう、それ。今はそれを割り当ててある。心臓しんとうにしか効果はないから、私も十分気を付けるけど…どうしても避けられないことがあるかも知れない。そのときは、お願いね」

ロイの言葉に、私は一瞬、彼女があのブラッドハウンドに食い千切られる様を思い浮かべてしまって身を凍らせた。そんなことに、なったら、いくら心臓マッサージをしたって助からないだろう…

 そんな私はなぜか、ここで分かった、と言ってしまったら、ロイが無茶をして死んでしまうんじゃないか、って思えてしまっていた。

 そうして返事を出来ないでいたら、ロイは左腕でギュッと私を抱きしめて

「ごめんね、イヤだったね、こんな話…」

と静かに謝る。

 でもそれにすら、私はどう答えていいかが分からなかった。

 だって、ロイがいなくなったら、私はきっと無事ではいられない。ううん、怖いのは、そのことじゃない…私は…私は、一人ぼっちになるのが怖いんだ。ロイが死んじゃって、私一人で生き残ってしまったとしたら…そう考えることが、私には怖くて怖くてたまらなかった。

 だって、ずっと一人だったから…大学のシェルターで、帰って来ない母さん達を待ち続けたあの頃の寂しさは、心が壊れそうなほどだった。たった一人で、世界に取り残されたような、そんな感覚だったんだ。

 いつの間にか震え始めていた私の肩を、ロイがそっと撫でてくれる。だけどロイはそうして私をなだめてくれながら、静かに、落ち着いた声で、もう一度噛みしめるようにして言った。

「もしものときは、絶対に赤いスイッチを押すこと…必ず、覚えておいてね…」

 そして次の瞬間、私はロイに抱き上げられた。

 えっ…ロイ!?

 そう声をあげようとしたときには、私の体は宙を舞っていた。

 世界が、まるでスローモーションにでもなったみたいにゆっくりと動いている。

 ガシャン!と音がして、ケミカルライトに薄っすら照らされた部屋のバルコニーのガラスが砕け散り、そこから、大きな毛むくじゃらの何かが勢い良く飛び込んできた。

 ドン!という重たい銃声を聞いたのと、私の体がベッドにボンっと跳ねるのとは同時だった。

 血煙を振りまいて、その毛むくじゃらの巨大な動物の前足が一瞬、引っ込んだ。でも、息を吐く暇もなく、今度はさっきよりもさらに勢い良く部屋のそしてさらに大きな物が部屋の中に飛び込んできた。

「走って!」

 ロイがそう叫んだときには、バルコニーに面した窓から、大きなイヌの上半身が侵入して来ていた。

 まさか…私達のニオイを嗅ぎつけて、雪を掘って来たの…!?

 ガウっと唸り声とともに巨大なブラッドハウンドが素早く頭を振った。先の詰まった鼻面に弾かれて、ロイが激しく壁に叩き付けられる。

「くふっ…!」

そんな声を漏らして、ロイはショットガンを取り落とし、床に崩れ落ちた。

「ロイ!」

私は、ロイに言われた通りには逃げなかった。ううん、逃げられなかった。だって目の前には私をひと飲みに出来そうなほどの大きなイヌの頭がある。部屋から出るためのドアは背後にあるけど…全身がすくんじゃって、とてもじゃないけど立てるような状態じゃなかった。

 ブラッドハウンドは狭い室内に無理矢理体を押し入れて来て、ついにその長い前足で壁のそばに転がったロイの体を抑え付ける。

―――ロイ…!

 私は、とっさに握っていたグロックをブラッドハウンドの顔に向けていた。狙いを定めて引き金を絞る。だけど、弾が出ない…衝撃も、銃声もしない…

 ど、どうして…!? そ、そうだ、ス、スライド!スライドを引いて…!

 私はそう思ってスライドに手を掛け思い切り引っ張ったけれど、それはビクとも動かない。何かがロックしちゃってるのか、壊れてるのか、とにかく機関部に弾を送り出せない。

 タメだ、これじゃあ、ロイが…!

 そう思った次の瞬間、パンパンッ!と続けざまに乾いた銃声が響いた。見るとロイが、自分を抑え付けいたブラッドハウンドの前足に、太ももから下げていた拳銃を撃っていた。

 ロイは撃った弾は指先にめり込み、ブラッドハウンドはギャンッ!と鋭い悲鳴をあげて、ロイの体から前足を引く。

 その刹那にロイは飛び起き、ショットガンガンを拾って私のいるベッドに飛んで来た。

「その銃、スライドが凍ってる!」

そう言ったロイは私に自分が使っていた拳銃押し付けると、そのまま私を片腕で抱いて部屋のドアをショットガンで吹き飛ばし、廊下の方へと駆け出した。

 ブラッドハウンドは、体が大きすぎてあれ以上中に入って来れなかったのか、追いかけてくる気配はない。

 そのことを確かめてから私は、私を抱いてくれていたロイを見やった。

「ロイ、大丈夫!?」

「うん、あれは平気…でも、まだ来るから、注意して…!」

ロイはそう言うなり私を廊下に下ろして、腰のポーチから取り出したケミカルライトを廊下にいくつもバラ撒き始める。

 そしてロイは、こんなときだと言うのに素早くベストから手帳を取り出して開いた。

 素早く目を走らせたロイは

「5-A号室…!」

と鋭く口にして顔をあげた。

 私もとっさに辺りのドアに目を走らせようとして、すぐに目の前にあった扉に「5-A」と書かれたプレートが張り付いているのに気が付いた。

 「ロイ! ここだよ!」

私が怒鳴ると、ロイは目にも止まらぬ動きで私を振り返った。その表情は、明らかに、鬼気迫る色だった。

 「そこから来る!離れて!」

そう叫びながら突進してきたロイに、私はドンと勢い良く突き飛ばされた。ふわりと体が宙に浮いた次の瞬間、バンっと5-A号室のドアが弾け飛んだ。

 ロイがそのドアの直撃を受けて再び壁に叩き付けられ、床に崩れ落ちる。そして5-A号室からは、あの巨大なブラッドハウンドが狭い玄関口から顔を突き出し、頭を廊下に出現させていた。

 ロイは、ブラッドハウンドの鼻先に押し付けられたドアと壁との間に挟まれてもがいている。

 私は、今度こそロイに持たされた拳銃のスライドを引いた。

 全身に力を入れて構え、廊下に大きな顔だけ出しドアと壁に挟まれたロイを引っ張り出そうともがくブラッドハウンドの頭に狙いを定めて引き金を引いた。

 パンッと言う軽い音と、それに似合わない反動が腕を襲って銃口が私の頭の上まで跳ね上がった。

 弾は当たったのかどうなのか分からないが、ブラッドハウンドの様子には変化がない。ブラッドハウンドはロイを引っ張り出したいのか、鼻先で必死にドアをどけようとしている。

 私は焦る気持ちを押し込んで、深呼吸をし、そして再びブラッドハウンドの頭に狙いを定めて引き金を引いた。

 パンッという音とそして、ギャンッという悲鳴が聞こえた。みればブラッドハウンドは目に傷を追っている。

 やった…当たった!

 私はそれを確かめてそれから、立て続けに引き金を引いた。反動で跳ね上がる銃口をブラッド何度もブラッドハウンドの頭に向けなおしてとにかく撃ち続ける。

 弾は、当たっているのかどうか分からない。でも、ブラッドハウンドはロイを押し付けるのをやめて、モゾモゾと首を後ろに引こうとしているのが分かった。 そんなとき、不意に、ドンッと重い銃声がし、ブラッドハウンドがギャワワッと激しく悲鳴をあげた。

 ブラッドハウンドは壁をきしませて、勢い良く首を引っ張りドアを向こうへと引っ込んで行った。

 今のはショットガンの銃声だった。ロイが、撃ってくれたの…?

 そう思って、私はドアと壁との間に挟まれていたロイを見やって、思わず息を飲んだ。

 ロイはドアと壁の隙間で力なく倒れ込み、ショットガンを抱えたままで、ぐったりと身動きしていなかった。

「ロイ…!ロイ!」

 私は拳銃を投げ捨て慌ててロイの元へと駆け寄った。ドアを除け、背中から両脇に腕を入れて、5-A号室の前からほんの数フィート離れたところにロイを引きずって行く。

 「ロイ! ねえ、ロイ!」

 そう声を掛けてみるけれど、ロイはピクリとも動かない。それどころか…ロイは、呼吸すらしていなかった。見る限りどこか大きなケガをしている様子はない…でも、確かにロイの呼吸は止まっている。

 「ロイ…ロイ!しっかり…!」

私はそう叫んでロイの体を揺するけどロイはピクリとも反応しない。

 ロイ…嘘でしょ…?

 背筋が凍った。胸が苦しくなって、目がじんじんと熱くなってくる。

 動かないロイを見て、私はようやく気が付いた。確かに一人になるのは怖いし寂しい。でも、それが理由なんかじゃなかった。私は…私は、ロイに死んでほしくない…一人になってしまうからじゃない。寂しいからじゃない。ロイがいなくなってしまったら、悲しいんだ。

 母さんも父さんもいない中で、ロイは私を守ってくれていた。私を支えてくれていた。まだたった三日だけど、それでも私は、家族のようにロイに安心出来たし、家族に向けるような気持ちをロイにも抱いていたんだ。私、ロイが好きになったんだ…母さんや父さんを大好きだったのと同じように…!

 私は、ロイの様子に取り乱だしていた。頭の中はゴチャゴチャで、いろんな感情がない混ぜになってしまっていた。涙はボロボロ溢れて来るし、私にも電気ショックが必要なんじゃないかって思うくらい胸が来るしい。でも、だから私は、とにかく必死にロイの体の下から左腕を引っ張り出して、無我夢中でコンピュータの赤いスイッチを押した。

 その途端、モニターが真っ赤に染まって、そこに文字が映し出される。

<Defibrillator Activating...>

そしてすぐに、モニターに表示されたのは、赤い文字のカウントダウンだった。

 そうだ…電気ショックが流れるんだ…!私は咄嗟にロイが握っていたショットガンを手にして、数歩距離を取る。

 すると不意に、ビクンとロイが体を波打たせた。それでも、ロイは動かない。

「ロイ!ロイ、しっかりして!」

私がそう声を掛けている間に、ロイは電気ショックで再び体を跳ね上げた。

 そして次の瞬間、

「かはっ…!ゲホゲホゲホっ…!」

と突然ロイが体を丸めて咳き込み始めた。

 「あぁ…っ」

私は、思わずそんな声が喉の奥から漏れ出た。そして私はすぐに

「ロイ…!」

と叫んで、彼女に飛び付いていた。

 「ロイ、ロイ…!大丈夫…!?」

私はロイの体を抱きしめながら、そう叫ぶ。

 ロイは何度かケホケホっと、咳をして、それからヒューヒューと息を整えてから、そっと私を抱きしめ返してくれた。

「…うん、大丈夫…」

そう言ったロイの腕に、しっかりした力がこもる。そしてロイは、そんな状態じゃなかったのに

「怖い思いさせて、ごめんね」

なんて、私に謝って来た。

 私は、そんなロイの言葉に必死になって首を振る。

 ウェットスーツ越しに感じられるロイの体温が、感触が、確かに聞こえる心臓の音が、私を緊張から解き放って、体から力という力を奪っていく。

 全身を弛緩させてしまった私はそのまましばらく、そうしてロイにしがみついたまま、彼女が無事だったという安堵感にただただ泣き続けていた。

 だから、私は、ロイがあんな状態になる前のやり取りの違和感に気付くことはなかった。



***



 それから私達はアパートのさらに低い階層へ降りて、夜を明かした。

 私は、あんまりにも怖かったのと、それから、手を離してしまったらロイが居なくなっちゃうんじゃなか、なんて根拠のない不安とで、とにかくロイにくっついて離れなかった。

 ロイはこれまでしてくれたのと同じように、静かに私を抱きしめていてくれた。

 翌朝に目が覚めたとき、私は眠る前のままにロイにしがみついていたものだから、先に起きていたロイが、ちょっとだけ呆れたような苦笑いを浮かべていたので、なんだか少し恥ずかしかった。

 それから朝食のレーションを食べて準備を済ませ、ショットガンを構えるロイを先頭にして、私達はアパートの階段を上がる。

 今になって気が付いたのだけど、どうやら下の階に行くほど温かかったらしい。いざこうして雪の上を目指して階段を上がって行くと、いつも以上に冷たく感じられる空気が肌を突き刺した。

 やがて私達は昨日アパートに入って来たバルコニーに到着して、そこから真っ白な雪原へと戻った。

 暗がりから出るときには、太陽が出ているわけでもないのに、そこに広がる白が、目が痛くなるほどに眩しい。

 ロイは、雪原を歩き出すよりも前に辺りを見回して、ふと、その表情を変えた。ロイが視線を送るその先には、真っ白な雪の上に点々と赤い血痕が続いている。

 たぶん、昨日のブラッドハウンドのものだろう…私はそう思ってロイを見上げる。するとロイは、昨日、この場所に来たときとは比べ物にならないほどの落ち着いた表情で、

「離れないで、着いてきて」

と静かに言った。

 私はそれに頷いて答え、ゆっくりと血の痕を追うロイにピッタリとくっついて歩く。

 程なくして私達の目の前に、真っ赤な血溜まりの中に転がる巨大な物体が現れた。

 一目見て、それが昨日のブラッドハウンドだと分かった。

 ロイがゆっくりとショットガンをその巨体に向けて立ち止まる。

 その後ろで私もブラッドハウンドの様子を伺う。でも、それもほんの束の間だった。

 お腹が上下に動いているわけでもなく、身じろぎをするわけでもなく、ブラッドハウンドは雪の上に静かに身を横たえたままだ。

 「し…死んでる…?」

「そうみたい」

そう言ってロイは、ゆっくりとブラッドハウンドの周りを歩き始めた。もちろん私も、離れずに着いて行く。

 頭の側に回った私達が見たのは、鼻先を吹き飛ばされていた巨大なイヌの顔だった。そこからの出血が致命傷になったんだ、っていうのが分かるほど、顔の周りの血溜まりは深く広かった。

 それを確かめたロイは、ふぅ、と息を吐いて、ショットガンをおろし、肩を落とした。

 「あんな状態で、良く当たったよ」

そう言ったロイは、どこか切なげに見えた。

 もしかしたら、ロイはイヌを飼っていたことでもあったのかな…?もし自分の飼っていたイヌが…家族同然のペットがこんなことになったらと想像したら…胸が痛まないはずはない。

「ロイ…大丈夫…?」

私はロイのことが気になって、そっと手に触れてそう尋ねてみる。するとロイは、もう一度、ふぅ、と深く息をついてから

「うん、平気」

と笑顔を見せてくれて、それから

「行こうか。今日は山登りになるからね」

と、明るい声色で、私を元気づけるように言った。

「うん!」

そんなロイに、私もなるだけ明るい顔をして応える。

 そして私達は、目に前に悠然とそそり立つサンフランシスコの山道に足を踏み入れたのだった。

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