カクテルとタバコと幼女

昭久

第1話

愛川はせかせかとした動きで、机に置いてあったタバコの箱に手を伸ばした。くしゃくしゃになった箱から一本、タバコを取り出す。口にくわえて、安物のライターで先端に火をつけた。ゆっくり、大きくタバコを通して息を吸う。すぐに口内に煙が充満していき、次第に口だけでなく胃や肺にまで行き渡っていくのを実感した。タバコを味わうように、愛川は数秒だけ息を止めた。口からタバコを摘んで、口笛を吹くようにおちょこ口になる。そのまま静かに、体内に溜まった煙を吐き出した。煙と共に、身体を蝕んでいた疲れを吐き出しているような感覚にとらわれる。肺に溜まった空気が少なくなるにつれ、頭が真っ白になっていった。


愛川は、この感覚が好きだった。病み付き、と言っても過言ではないだろう。最初の頃、タバコを吸い始めの頃の愛川は、この所謂ヤニクラの感覚が苦手だった。子供の頃に起こしていた貧血と似たような感覚だったからだ。今となっては身体的には丈夫となった愛川であるが、小さい頃はよく貧血を起こして倒れていた。その度に、周囲の人間に迷惑をかけていた。愛川は子供ながらに、誰かに迷惑をかけるという事実に強烈な後ろめたさを感じていた。ヤニクラは、昔のトラウマを思い出させる。だから嫌いだったのだが、今となっては何の感情も浮かばなくなってしまった。そんな子供じみた感傷は、とうに忘れてしまった。


「ふぅ」


煙を吐ききってから、大きく息を吸って溜息をつく。一度、灰皿に灰を落として、タバコを口にくわえてから、椅子に深く腰掛けた。背もたれに、全身の体重をかけるように寄りかかる。すると自然に首が後ろに曲がり、天井を見上げる形になった。天井はヤニがこびりつき、黄色一色に塗りつぶされていた。


愛川はこの校舎がいつできたものか知らなかったけれど、その様相を見て、何十年も昔に建てられたものなんだろうと思った。何十年も、この部屋の天井はタバコの煙を受け止め続けていたのだろう。そう考えると幾分哀愁を感じられた。


(変な学園だよな、ここ)


愛川は煙を吸いながら思った。愛川が勤める『桜丘学園』は、今どき珍しく分煙を行っていなかった。今、愛川がいる職員室では、誰もが大手を振るって自分の席でタバコをふかしていた。近年騒がれている分煙化・禁煙化という傾向から真っ向に対立する体相だ。愛川でなくとも、多少そういった世論に聡い人間であれば、少なからず疑問に思うだろう。だが、それは疑問に思っても仕方がないことであった。意味がないとも言える。何故なら、この校舎の教師は全員が愛煙家だったからだ。職員室で分煙する理由がほとんどないのだ。ならば、世論に従う必要もないだろうというのが、この学園の第一責任者の考えだった。だとしても、新しく入ってきた教師が喫煙者でなかったらどうする、と穿った反論を行う人間もいることだろう。愛川もその人間の一人だったからこそ、この学校を変だと考えたわけだが。しかし、それもやはり、意味がないことだ。この学園の責任者には、誰も逆らうことが出来ない。逆らっても、結果何も変らないから意味がないということではない。単に逆らえるような状況に、誰一人として存在していないからだ。これは愛川も同じことである。身をもって体感してきた事実だった。


「ふぅ……」


愛川は溜息と共に煙を吐き出した。頭を振るってから、身体を起こす。目の前には自分の机がある。授業で使う教科書やテスト作成用の問題集が机の奥にびっしりと立て並べられていた。その前にB5サイズのノートパソコンがあった。画面には先ほどまで作成していた、期末テストの問題が映し出されていた。そのままノートパソコンを閉じて、愛川は口にくわえていたタバコを吸った。タバコの先端から立ちのぼる紫煙を眺めながら、次の授業のことを考えていた。


(何とか授業の空き時間にテストは完成したけれど、もうすぐ次の授業の時間なんだよな)


(ああ、めんどくさい。何で僕は教師になんかなったんだよ)


こんなに忙しい仕事だと分かっていれば、誰もこんな職業を選びはしなかった。こんなことは多分、ほとんどの教師が考えていることだろう。頭の中で愛川は、定型文のような愚痴を呟いた。それを合図に、チャイムが鳴り響いた。授業の終わりを告げる音。十分の休憩時間の後、次の授業が始まる。


愛川は咥えていたタバコを名残惜しそうに摘んだ。最後に大きく煙を吸い込んで、タバコを口から解放する。煙を吐き出しながら、まだ半分くらい残っていたタバコを乱暴に、灰皿にこすりつけた。

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