第五夜 薄明/ヒトデ
一
藻の生えた岩を踏まないよう避けながら、
「やっぱり何か打ち上がっています。行きましょう」
オーメさんの曇った半透明の管足を見て口角を上げました。海水の筋が流れる砂利を踏み遠巻きに板岩に近づきます。潮は満ちかけていました。木や海藻が打ち上げられている岩陰の入江を覗き込むと、羽虫の群れの中にふやけた灰色のヒトデがいました。まともに息を吸ってしまい湯がえずきます。オーメさんは管足を十本展開し、ヒトデへ距離を詰めてゆきます。
「危ないですよ」
ハンカチで口元を覆い、オーメさんに駆け寄ります。オーメさんは差し渡し八メートルのヒトデから体四つ分離れた場所で止まりました。手で羽虫を追い払い湯が隣に立ちます。手帳を取り出し、日付と場所を書き込みました。手を止め中腰で観察し「漂着物 陸生ヒトデ ズイウンリュウの一種?」と書き加えます。一歩下がり、灰色のヒトデを眺めます。五本の腕のうち、隣り合った二本は短く、頭と翼腕になる三本が長い歪な星型です。長さと幅に比べて厚みはありません。腐敗して皮膚の色は濁り、長い首と縁の裂けた二枚の翼腕が投げ出されています。湯は海水に浸った下半身側に回り込みました。円柱形の短い後ろ脚に光るものが見えます。そこから整然と生える棘だけが透明感を留めていました。湯が棘に近寄ろうとすると、鞄から弦楽器の音色が流れます。
「シグさんからだ」
湯は鞄の蓋を開け通信石を取り出しました。黒い石に透明な鉱石が積層された、掌に乗る長方形の石板です。二層の境界面に文字が浮かび白く点滅しています。湯は着信と表示された矩形に触れようとしました。
「出てはダメ」
鋭い女性の声が湯の動きを制しました。湯が通信石から目を上げ周りを見渡すと、波を割り一人乗りの
「島軍の棘皮使いの方ですか?」
通信石の
「ええ、そう」
島軍の棘皮使いは頭全体を覆うヘルメットに手をかけました。前後に割れたヘルメットをもぎ取って外すと、後ろで結った亜麻色の長髪が揺れました。
「
中尉は細い目でヒトデを一瞥します。湯が口を開く前に中尉が話し始めました。
「その格好はメイドさんね。この近くで働いているのかな。名前は?歳はいくつ?」
穏やかな口調ですが、湯の頭から爪先まで視線を這わせています。
「素敵なワンピースね」
這っていた視線が太腿の間で止まりました。スカートの中に吊った、剣の柄がある位置です。湯は姿勢を正しました。
「はい。
湯は中尉の左胸を見ました。棘皮鎧の発声器の縁が右回りに点滅しています。神経系で負荷の大きな作業をしているため、会話が出来ないことを示す信号です。
「もしかして、室賀さんのご主人様って
湯の眉が動きました。
「私の槍も海鼠製なの。丈夫で扱いやすくて、いつも助けられてる」
中尉は駐機した浮橇を振り返ります。弱い波に浸る機体の側面には槍が懸架してあります。海鼠製の多目的骨槍で、使い込んだ艶があります。既に中尉が向き直り自分の顔を見ていることに気づかず、湯は槍の製品名は「ヴォルヴァ4」だろうか、あるいは「波の乙女」シリーズのどれだろうかと暗記したカタログと照らし合わせていました。視線に気づいて通信石から手を滑らせそうになり、槍と中尉を交互に見て言葉を探します。
「不在の主に代わり、平素は格別のご引立てを賜り厚く御礼申し上げます」
たどたどしく社交辞令を述べ深く頭を下げます。中尉は骨片を鳴らして笑い、岩に座りました。窪みに砂の溜まった、乾いた岩です。
「座ったら?少しお話ししましょ」
失礼しますと言い湯は隣に座りました。中尉は膝にヘルメットを乗せ呼気フィルターのカートリッジを取り外しました。
「ご主人様はお留守なんだ。出張かな?」
「行方が分からないのです」
腰から替えのカートリッジを取り出していた中尉の手が止まりました。湯は水平線を見つめています。
「一年前にお屋敷を出て行かれて、それきりです」
中尉はカートリッジから湯の横顔に視線を移しましたが、白い顔には表情は映っていませんでした。
「ごめんね、悪いことを訊いてしまった」
「いえ、中尉は全く悪くありません」
中尉の目を見た湯は、笑みを浮かべています。二人で服や映画、海鼠の新製品の話をしてから砂を払い中尉が立ち上がりました。
「室賀さん、ここで見たものについて誰にも話さないと約束して。今なら、貴方はここにいなかったことにしてあげられるの」
湯の表情が変わらないのを見て中尉が苦笑します。
「あまり驚かないのね。でも取り調べを受けるのは嫌でしょ?」
湯はしまいそびれた通信石を胸の前で握りました。立ち上がり口を開きます。
「星沢中尉は
出し抜けに大きな括りの質問をされ、中尉は即答出来ませんでした。湯は顔色を変えずに中尉の目を見ています。
「小さなことでも役に立てるかもしれません。凝澪の人と生き物のためにも証言させてください」
中尉は目を開いて黙ったあと、苦笑ではなく腹の底から笑い出しました。
「貴方、面白いことを言うのね」
中尉は親指で涙を拭います。湯は目尻を吊り上げました。
「民間企業の所属ですが私も棘皮使いです。島を守りたい気持ちはきっと同じです」
一歩踏み出し言い切りました。息を整えた中尉がかぶりを振り、両手を開いて宥める仕草を見せます。
「ごめんね、馬鹿にした訳ではないの。貴方が棘皮使いだってことも聞く前から分かってた」
ヘルメットを砂利に置き湯に近づきます。湯が黙って次の言葉を待っていると、中尉が肩に手を置きました。
「でもね、貴方がそんな子だからこそ余計巻き込みたくないの」
その口調から、湯は請われている、謝罪されているという印象を受け、相手を責める口調になっていたことを自覚しました。その後、潮が引き始めるまで中尉は食い下がる湯の説得を続けました。
「本当に証言しなくていいのですか?」
中尉が手首に表示された時刻を見たとき、湯の後ろからオーメさんが滑り出てきました。
「オーメさんにはどうやって口止めをすれば?」
その白と薄桃色の背中を見てほくそ笑みます。
「あらあら〜、大変!このイエガゼさんはとても危険なデータを持ってる可能性があるわ」
芝居掛かった大袈裟な喋り方をする中尉の手の中で、肩がびくりと震えました。
「私の仲間に見つかったら解剖されるかもしれない!」
湯は悲鳴を上げオーメさんを抱え上げて岩を駆け登りました。こけつまろびつ逃げる湯の後ろ姿を見て、中尉は腕を組み頷きます。開けた岩の上に出た湯が振り返り、手を振って何かを言いました。その声は潮騒にかき消されていましたが、中尉は手を振り返しました。
二
林を抜け帰路を歩いていると、太陽が束の間陰りました。見上げると藍鉄色の翼が旋回しています。
「あ……」
湯は鞄の蓋と本体の間に手をねじ込み通信石を取り出しました。主渾源は切ったままです。ボタンを押しシグさんに発信します。呼び出し音を挟まずに声が聞こえました。
「湯!何をしてたの?」
湯は通信石を顔から遠ざけました。足元で佇むオーメさんを視界の片隅で見ます。
「湯、聞いてるの?」
声に苛立ちを感じ取り、湯は慌てて返事をしました。
「はい、
「静ヶ浜は街道から外れているわ。寄り道はともかくなぜ通信石を切ってたの」
湯は言葉に詰まりました。助けを求め足元を見ましたが、オーメさんは砂に規則的に小石を並べるのに夢中です。通信石の向こうでシグさんが小言をまくしたてます。
「まあ、いいわ。フギンに乗って」
姿勢制御用のリントヴルム・エンジンが若葉色の炎を吐き、藍鉄色の翼が着陸します。湯は翼の下、
湯は帰宅してシャワーを浴びると甚平に着替え、夕飯の支度を始めました。芋と魚の干物、果物をぶつ切りにして皿に盛り食卓につきます。甚平の腹側を捲り上げクリップで留めました。
「いただきます」
腹に五本の溝が開き星型に開きました。溝から展開した管足で干物を掴み、中心にある口に押し込みます。台所をイエガゼたちが横切り、湯はお疲れ様です、怪我はないですかと声をかけました。管足が皿と腹を往復し皿の上の固形物が五分の一になった頃、湯は果物の汁気を吸った干物を腹の口に運びながら呟きました。
「わざわざフギンを遠隔操作で寄越すなんて、大袈裟ですよ」
天井の隅でカメラのレンズが湯を正面に捉えました。壁の送話器が拡声モードになり、シグさんの声がします。
「ムニンの方がよかったかしら?うちの格納庫に入らないけど」
芋を五枚の歯で押し潰し、湯がカメラを睨みました。シグさんは構わず話を続けます。
「静ヶ浜の近くで錬金術士の実験場が見つかったの」
湯は首を傾げました。
「錬金術士?そんなに危険が?」
ええ、と返事をしてシグさんは鉱石テレビのスイッチを入れました。夕方のニュースが流れています。
「死んだ動物を違法に輸入していたの。死骸を操る研究をしていたそうよ」
浜で見た濁った肌を思い出しながら、湯は干物の頭を噛み砕きます。錬金術士の件は映らないままニュースは終わり、外国の古いアニメが始まりました。
「海外産の屍から細菌や寄生虫が流出したら、島の生き物が危険に晒されてしまいますね」
湯は胃袋を揺らし残りの食事を迎え入れる空間を作ります。間を置いて送話器が小刻みに震えます。
「わたしはね、湯。島よりあなたが心配なの」
湯はアダンモドキの実を腹に吸い込みました。串で一切れ刺し頭の口にも運びます。
「私が?」
「そうよ。出発の日も近いでしょう」
カメラの関節から音が漏れました。
「実験場は島軍が押さえたけど、死骸が辺りをうろついている可能性があったの。もしあなたが病気を移されたら」
湯は管足をしまい腹を閉じます。紙タオルでヘソの周りを拭き、甚平のクリップを外しました。皿には芋の皮と干物のヒレのかけらが浮いています。
「治せるのはご主人様だけかもしれない。そのご主人様はもういないのよ」
湯は体を震わせてから背筋を伸ばし、カメラと目を合わせます。レンズに瞳が映ります。
「もう?」
据えた目でレンズを見つめ、訊き返します。食卓に手を突き立ち上がりました。皿に残った汁に漣が立ちます。
「ごめんなさい今のは——」
「ご主人様がもういらっしゃらないなんて、いつ決まったんですか」
湯は青ざめた顔でカメラを見ました。アニメのオープニング曲が終わりコマーシャルが始まると、湯はリモコンでテレビを消し皿を持って食卓を離れます。
「ごちそうさまでした」
皿を流し台の桶に押し込みました。丁度通りかかったイエガゼが物音を浴び管足を引っ込めます。湯は皿を洗って水を切ると早足で台所を出てゆきました。送話器の拡声モードがオフになりカメラの角度が元に戻ります。
部屋に戻り、髪を留めたゴム紐を外し湯は机の陸生棘皮図鑑を手に取りました。二段ベッドの上段に体を沈み込ませ、枕元にある
夜明け前に目を覚ました湯は、物音を立てずに部屋から出ました。天井の通気口に潜り込み、シグさんの神経が通っていない廊下に出ます。ホヤランプを床に置き鞄から見取り図を取り出そうと屈むと、淀んだ空気を通して光るものが見えました。湯は身構えます。
「湯、どこに行くの?」
姿が見えるより先にシグさんの声が廊下に反響しました。
「シグさん?どうやって?」
ぬるい闇に向かって尋ねます。灯りの中にカメラと拡声器を背負ったオーメさんが現れました。ケーブルを引きずっています。
「湯、どこに行くの」
いつもより抑揚を抑えた声です。管足の動きが三歩前で止まりました。湯は言葉を飲み込み、また口を開きました。
「静ヶ浜です」
喉がつかえて小さな声しか出ませんでした。
「どうして?」
湯はカメラを見つめます。薄紅色のレンズの内側で部品が動くのが見えました。
「無事を確かめたい人がいるんです」
返事はありません。灯りに惹かれた蛾が視界を横切りました。
「今度は嘘ではないようね」
湯は胸に溜まっていた空気を吐き出します。握り締めた手を開くと見取り図が乾いた音を立てました。
「実はさっき、島軍の棘皮使いから救難信号を受け取ったわ。場所は静ヶ浜」
湯は鳥肌を立てました。先にシグさんが話し出します。
「先に言わなくてごめんね。それに昨夜のことも、悪かったわ」
拡声器の陰でオーメさんの管足が震えます。管足の中を行き来する水の動きが灯りで透けて見えました。
「私の方こそ、ごめんなさい」
拡声器に頭を下げました。
「じゃあ、行きましょう。付き合うわ」
シグさんの声が、いつもの柔らかな抑揚を取り戻しました。湯は顔を上げ、オーメさんの背中からカメラと拡声器を取り外しました。床に振動が響き、ホヤランプに留まっていた蛾が闇に消えます。
三
十分後、崖の中腹に空いた穴から棘皮鎧を着てフギンに乗った湯が飛び出しました。光の尾を引いて静ヶ浜へ緩やかに旋回します。
「ヘルメットの気密性は確認した?」
潜水ヘルメット内に声が響きます。二人は暗い海面を飛びながら取り留めのない会話をします。お屋敷の点検の話になったとき、シグさんの口調が廊下で話したときのものになりました。
「お屋敷でわたしに見張られてて息苦しくないか、気になっていたの」
湯は目を丸くし左胸を見ようとしました。瞼の裏に映る景色が消え、ヘルメット内側の網目模様がぼやけて見えます。シグさんが目を閉じるよう注意します。
「シグさん、私はそんな——」
「いいの。だからあなたが海鼠水工へ行くと言ったとき、寂しかったけど嬉しかった」
二人は静ヶ浜まで黙って飛びました。
「思っていた以上だわ」
断崖の先の浜は青白く燃えていました。上空で無限記号を描きながら熱線の雨を降らせる、ズイウンリュウの青白く燃える腹が見えます。浜では島軍のテントや結界生成器が燃え、腐臭と焦げる臭いはフィルターでも濾し切れません。湯は中尉を探しましたがざくろ色もむぎわら色も見つかりませんでした。
「私がきたときには、こんな。それにズイウンリュウがレーザーを出すなんて聞いたことがありません」
惨状を目にし上ずった声を上げる湯が二の句を継げないでいると、ヘルメット内を雑音が駆け巡ります。シグさんがチューニングをすると雑音の中から人の声が浮かび上がります。
「誰かいるの?」
「星沢中尉。聞こえます、メイドの室賀です。筋翼機で静ヶ浜上空にいます。中尉は今どちらに?」
弱々しい声ですが通信相手は中尉でした。呼びかけを続けます。
「室賀さんなの?駄目よ、逃げて」
湯は上を飛ぶズイウンリュウを注視します。薄い体が大きく傾いて旋回し、背中が見えました。炎に縁取られた背面に長い箱があります。側面に通信石と同じ鉱石を組み込んだ通信機が見えました。
「中尉、まさかズイウンリュウの背中にいるのですか?早く脱出してください」
注視と拡大を繰り返しながら湯は呼びました。
「駄目なの、腐敗液と熱で操縦席の水管系が溶けてしまった。自爆させるから離れて」
中尉の声に同調して箱の通信機が光り、炎でズイウンリュウの皮膚が爆ぜます。ペダルに置いた足がすくみました。
「湯、落ち着いて」
左手の上に手が重なります。シグさんが、棘皮鎧の裏地を操作して生み出した触覚です。
「あの灰色の凧みたいなの、ニーズヘッグと呼ぶことにしましょう。瑞雲という感じではないわ」
ヘルメット内の記録装置を作動させ頷きました。
「例の錬金術士が手を加えたのでしょうか?」
シグさんはフギンの翼とエンジンを調整し考えました。
「そうかもしれない。でもこの分だと——」
ニーズヘッグが滑らかな鼻面をこちらへ向け降下を始めました。腹が輝きを増し熱線がフギンの翼を掠めます。湯はフレームに据えた
「放っておけば燃え尽きるんじゃないのかしら?」
湯が操作を誤りフギンが傾ぎます。湯は息を吸い込みました。
「馬鹿なこと言わないでください中尉が閉じ込められているんです。それじゃ蒸し焼きです」
湯は自分の声で耳が痛くなりました。
「分かってる、分かってるから高度を上げて。レーザーは腹から出るから上を取った方が安全よ」
ヘルメットの中で眉根を寄せ海面から上昇します。
「跳び移って操縦席の風防を外すしかありません」
パルス弾で牽制を続けニーズヘッグより高く飛ぶと、熱線の数と精度は大きく下がりました。
「外せたとしてその後は?」
シグさんの質問に湯は短く唸ってから答えます。
「シグさんのリントヴルムに期待します」
ニーズヘッグが体を傾け熱線を撃ちました。フギンの翼が焦げます。
「わたしの燃費はそんなによくないのよ!」
湯が背中に回り込もうとするとニーズヘッグは全身を捻って裏返り、背面飛行に移りました。下から近づこうとすると再び裏返ります。湯は操縦席の乗り心地を想像し焦りを感じました。翻る灰色の背中と青白い腹を注視し拡大すると、操縦席の脇に中尉の槍が取り付けられているのが見えました。
「中尉、今からそこに行きます。諦めないでください」
顎の先にある拾話器に言葉を吹き込みます。
「どうしてそこまでしてくれるの?こんなことになったのは島軍のせいだし、私にも責任があるのに」
中尉の質問に湯は口籠りました。
「それは」
漁船の漁火に反応したニーズヘッグが揺れました。湯はフギンを沈み込ませて急上昇し、フェイントにかかったニーズヘッグの背中へ加速します。操縦席に手が届きそうに思えたとき破裂音が鼓膜を弾きました。ニーズヘッグの片翼が中ほどで折れました。皮膚の骨片に沿って多角形の亀裂が走ります。亀裂から青白い光が漏れ、爆炎が上がります。中尉が湯の名を叫びました。フギンのエンジンと羽ばたく音が消え、青白い煙が広がりました。中尉が操縦席のカメラで湯の姿を探していると、海面で黒いものが動きました。濃い雑音の混ざる通信が操縦席内に届きます。
「それは、中尉をその屍から解放した後にお話しします」
波の下から破れた藍鉄色の翼が浮き上がります。片側の渾水タンクがなくなっているのが中尉のいる操縦席から見えました。
「室賀さん、大丈夫なの?怪我は?」
雑音の混ざる通信を受けながら湯は翼を振りました。水飛沫が散ります。爆発で羽枝の四割を失っても骨格と筋肉は健在で、揚力も不足していません。
「海鼠の製品は堅牢さが自慢ですから」
メイン・エンジンの推力を上げ、引き離された距離を詰め直し高度を上げます。雑音が減り中尉の笑い声が聞こえました。
「分かった、ありがとう。こちらからもやってみる」
中尉からの返信の後、操縦席の横で稲光が起こりました。湯の視界が白くなります。
「眩しっ——」
「ごめん、別のにする」
視界が開けると、中尉の槍を霧が取り巻き氷柱が育っていました。穂先から柄にかけて生えた氷柱がニーズヘッグを貫きます。
「これくらいしか出来ないけど、追いつけそう?」
ニーズヘッグの速度が落ち、体を捻る動きが鈍りました。
「十分です。シグさん、自動操縦に」
翼をすぼめ斜め上から接近し、座席の固定具を腰から外します。内腿から二本のナイフを逆手に抜き両脚のリントヴルム・エンジンを全開にして、ニーズヘッグに跳び移ります。焚浴の炎で腐肉が沸騰する背中にナイフを突き立てると、氷柱を目印に這い進みます。
「中尉、私が見えますか?」
レールに載ったカメラが操縦席を半回転し、湯の前で止まりました。
「すごい、見えるよ。本当にきてくれたんだね」
中尉の声は震えていました。両手で交互にナイフを刺し操縦席に辿り着いた湯は、右手のナイフを投げ捨て操縦席に掌の管足で張り付きました。風防を分離させるレバーを見つけ掴みましたが、レバーは動きません。取手が熱で溶け操縦席に融着しています。
「そんな、風防が外れません中尉」
拳で取手を叩き、自分のベッドより大きな操縦席を見上げました。島軍の紋章が描かれています。
「ここまできて、どうして」
湯は膝を折り座り込みました。ニーズヘッグの骨片が弾ける音が響きます。
「室賀さん、槍の下を見て」
操縦席の壁を通して声が聞こえました。
「操縦席は突貫工事で取りつけたの。根元に傷をつけて私の術を当てれば、丸ごと剥がせるはず。大丈夫、一緒に帰れる」
痺れた指を握り直し、ナイフを握った状態で棘皮鎧を硬化させます。乾いた皮膚と骨片の結合を刃を押し引きして切り開くと、水分に富んだ腐肉層に指が触れました。半ば融けている腐肉を掻き出すこと十分、ニーズヘッグの体幹骨を掴む人工の鉤爪が見えました。湯はナイフに渾を送り込み硬度を高め、両手で握り振り下ろしました。体幹骨が砕けた後ナイフが砂になりました。
「基部が浮いた、掴まって」
中尉の声に力強さが戻りました。操縦席の梯子を握ります。
「揺れるよ」
瞑っていた目をさらに強く瞑りました。
「いつでもどうぞ」
背後に凍気が広がり、操縦席がニーズヘッグの背中から抜け落ちました。空と海が目まぐるしく入れ替わります。途切れ途切れに見える海原に、緑に囲まれた薄紫のつぶれた円が見えました。風景が一周してから見ると、それは凝澪島でした。スカートの下で若葉色の炎が瞬き風景の回転が止まります。風防が吹き飛び中尉が身を乗り出しました。
「室賀さん、手!」
差し出された掌を見て、自分と中尉の残り体力が逆転していることを湯は悟りました。
「早く!」
湯が中尉の手を取ると、中尉は手首を掴んで引き寄せ操縦席から跳びました。中尉の髪と肩越しにニーズヘッグの体が燃え上り分解してゆくのが見えます。二人は落下しながら互いに棘皮鎧の管足を吸着させ、体を固定します。
「駄目、減速が間に合わない」
全方位への加減速から解放され放心していると、声が振動として湯の肌に届きました。中尉は背中に架けた槍から非物質障壁を広げ減速を試みています。頼んでヘルメットを外してもらい、潮風を吸って目を擦ります。外気に触れた瞳の焦点が合った先は中尉の濡れた喉でした。湯は生まれて初めてものを見るような眼差しを、血が通い薄く日焼けした肌に向けます。海面にぶつかるということを忘れ頸動脈の律動に目を奪われていると、自分の前髪に瞼を打たれ我に返りました。喉に瞳を凝らしていたことに中尉が気づいた様子はありません。後ろめたさを覚えつつも、湯は棘皮鎧の陰から喉と耳を覗き見ます。下顎の、正面から見えない位置にほくろを見つけたとき顎が動いて中尉と目が合いました。
「ごめんね、せっかく助けにきてくれたのに」
咄嗟に湯は横を向いて目を瞑り、曖昧な返事をして誤魔化しました。咎められたのではないことに安堵し目を開くと、仄白い水平線に紛れた薄い色の球体がありました。
「ねえ、室賀さん、さっきの答えを——」
「あの気球に飛び込みましょう。あの位置ならリントヴルムで跳べるはずです」
球体を指差し湯は中尉の言葉を遮りました。
「
中尉も湯の指が指す先に浮かぶ気球を認めました。
「そっか、無人の気球ならクッションに使える」
湯の背中に回している中尉の右腕に力が入り、湯が体を引きつらせます。痛かった、と訊かれ湯は首を横に振りました。中尉は湯に自分に掴まるよう促します。
「正確な軌道修正は出来ないかもしれません。槍で引っかけてもらえますか?」
湯が中尉の肩甲骨を掴みました。中尉は槍を手に取り穂先に非物質障壁の錨を生成します。
「任せて」
中尉が囁きます。湯は右目を瞑りました。瞼の裏にこれから行う加速の量と移動ルート、風向きと風速が映し出され、左目の気球が浮かぶ空と視野の中で重なります。
「跳びます」
二人の棘皮使いは閃光を曳き落下の軌道を捻じ曲げました。曲線を描き体ごと気球に刺さります。中尉の胸を通して湯の額に衝撃が伝わり、再び上下が分からなくなります。シグさんの声が骨伝導で鼓膜に届きました。
「会話機能を切るわ。帰ったら渾水をよろしくね。プレミアムの」
湯は左の親指を曲げ肯定の意思を伝えます。
四
二人は管足を解き別々に着水しました。冷たい海水でニーズヘッグの腐汁が洗い流され湯は安堵の泡を吐きます。
潰れた気球をかき分け中尉が海面から顔を出しました。棘皮鎧が膨らみ浮き袋になります。気球のゴンドラから投げ出された物品の間に乳白色の棘皮鎧が漂っています。
「室賀さん!」
うつ伏せで浮かぶ湯を中尉は引き寄せ、軽く頬を叩きました。呻き声を上げ目を開いた湯に歓声を上げ頭と首を両腕で包み込みます。
「中尉、ちょっと苦しいです」
「本当にありがとう。でもこんな無茶はもうしないで」
湯がもがくのを諦めるまで抱擁を続けると、中尉は湯の手を引き転覆した杏色のゴンドラに登りました。フギンが自動操縦で舞う空に信号弾を打ち上げます。ゴンドラから漁った救命具を置き、二人はキールに腰掛けました。
「答え、教えてくれる?」
中尉は薄明に染まる海を見て細い目をさらに細めました。
「答え?何のですか?」
真水をパックからストローで飲んでいた湯が、面食らった表情を浮かべました。パックを中尉に渡します。
「どうして私を助けようと思ったのか、後で話すと言ったでしょ」
受け取った真水を飲み、パックを裂いて中尉は残りを飲み干しました。
「それは」
湯は中尉の横顔から目を逸らし俯きます。
「中尉がご主人様に似ているからです」
不思議そうな顔で中尉はパックを畳み、腰の雑囊にしまいました。
「ご主人様ってどんな方?どんな所が私と似てるのかな?」
湯は自分の爪先と中尉の襟元を忙しなく交互に見ながら指でのの字を書いています。中尉は真剣な面持ちで湯の顔を覗き込みます。
「丁寧で気品のあるところとか島のための仕事をしているところとか、他にも佇まい全般です」
湯は切り揃えた前髪で中尉から目を隠しました。中尉は脚を組み、顎に手を当てて頷いてから膝を打ちました。おもむろに湯の両肩を掴みます。
「中尉、何を」
手に力を込め、血色のよくなった湯を突き落としました。続いて中尉も飛び降り二つの水柱が続けて上がります。
「ここの水、すごく澄んでる。岸から離れてるものね」
先に浮き上がった中尉が
「ちょっと水遊びしていきましょ?」
水から顔を出した湯は呆気に取られていましたが、笑顔で水をかけてくる中尉に応戦し始めました。
「もう、中尉、救助の人に怒られますよ」
湯が切れたロープを振り回して叫びました。
「大丈夫」
中尉は流れ藻を結んで玉を作ります。
「一緒に怒られましょう」
流れ藻の玉を湯に投げつけます。
流れ藻が散り散りになると二人はゴンドラに戻りました。明るさを増してゆく水平線から太陽が登り、二つの並んだ影は刻々と長さを変えてゆきます。
「やっぱり行かないと」
湯は手首のインジケーターに触れました。フギンへの通信は確保されています。
「中尉、私のこと島軍に黙っていてもらえますか?」
水に映る中尉を見て湯がはっきりしない口調で言いました。
「わかった。心配しないで。証拠品のズイウンリュウは燃えちゃったし」
中尉は俯く湯に笑いかけましたが、彼女は笑わずに中尉の顔を見ました。
「三日後に海鼠水工へ向かう予定なんです。それと中尉、実は私は人間じゃ——」
風が吹きました。湯の髪を留めていたゴム紐が切れ銀光が乱反射します。
「動かないで」
中尉は視界が髪だけになって狼狽える湯の後ろに立ちました。自分の髪留めを外し湯の髪を束ねます。
「よかった、似合ってる。室賀さんの瞳と似た色だし、お礼に持って行って」
髪を触られている間、体を強張らせていた湯が息を弾ませます。髪留めの石が髪に緑色の影を落としました。湯は立ち上がり中尉の顔を見上げました。
「受け取れません、こんな高そうなもの。浮いている紐で括ります」
髪留めを外そうと手を伸ばした湯は訝しみました。力を入れても髪留めの蝶番はビクともしません。
「それ、室賀さんが家に着くまで外れないよ」
中尉はこともなげに言い放ち、その言葉を聞いて足を滑らせた湯の手を掴みました。
「帰ったら連絡して。髪留めの内側に連絡先を貼っておいたから」
風で揺れるゴンドラの上で、中尉は平然と立ち続けます。
「私の後ろにいる間に、そんなことを?」
中尉がほくそ笑みました。
「私と私の棘皮鎧は、そういう小技が得意なの」
うなだれる湯の前で中尉が口に手を当てて笑います。湯はフギンに自分のもとへくるよう指示を送りました。
「室賀さん」
着水したフギンに乗り込んだ湯に、槍を手にした中尉が声をかけます。
「貴方が人間ではないのなら、きっと神話の戦乙女、ヴァルキュリアよ。私にはそう見えた」
操縦桿を握ろうとした湯の手が止まります。もう一度ここから跳びたいという気持ちを抑え固定具をかけました。
「身に余る言葉です。ありがとうございます」
湯は操縦桿を握り直しました。
「気をつけてね。まっすぐ帰るのよ?」
翼の端でゴンドラを押して離れます。
「はい、帰ったら連絡します。それでは」
フギンが羽ばたき海面を滑走して離陸します。手を振る中尉に宙返りをして見せてから、湯はお屋敷へ滲んだ空と海の間を飛びました。
おわり
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