第一章・召喚

 その場の空気は沈痛に満ちていた。

 怒り。

 悲しみ。

 怯え。

 不安。

 そんな感情を一身に受けながら、国王である彼は寝床で小さく息を吐き出した。

 胸元でずっと握りしめている巻物が、動きに合わせて静かに揺れる。

「父上」

 気遣うように呼ばれて、彼はうっすらと目を開け、声のした方にゆるゆると顔を向けた。

「――タケルか」

「はい、おそばにおります」

 タケルと呼ばれた青年は、大きくくっきりとした縹色の瞳に、悲痛といってもいいくらいの色を浮かべながらも、父に向かって微笑もうと努力した。

「皆、集めたか?」

「はい、父上のご命令通りに。ただ……その」

 口籠った息子に、彼は優しく苦笑した。

「ヤマトは来ぬか。まあ、仕方ない」

「……父上」

 その時、部屋の片隅にある布がふわりと揺れ、切袴に浅葱色の袿姿の若い女性が姿を現した。

 縹色をした切れ長の瞳に険しさを宿し、周囲が道を空ける中を真っすぐに寝台に向かって歩き、やがて二人の側で足を止めた。

「ヤマト、参りました」

「……姉上」

 驚きと安堵の表情を浮かべた青年――タケル――に目をくれず、横たわる父を冷ややかに見下ろしながら、ヤマトと名乗った女性は軽く頭を下げた。

「止める気満々のようだな、ヤマト」

 苦笑まじりに言う男性に、ヤマトは瞳だけでなく声にも怒りを滲ませた。

「お止めしても実施なさるのでしょう、陛下は」

「その通り。止められぬよ、誰にもな。決意は揺るがぬ。全てはこの中つ国を護るがためゆえな」

「……禁を破く事の重要さをお分かりではいらっしゃらない、陛下は」

「では問おう。我が娘にして、斎宮いつきのみやたる力を持ちし、倭姫よ」

 びくり、とヤマトの肩が揺れた。

「この中つ国を救う術はこの禁を破く、他にありしか?なしか?」

「………」

 唇を噛み締めたヤマトは、先ほどまでの怒りに満ちた表情を消し、顔を背けた。

「あれば……あれば、全力で…。己の命を課してでも、お止めいたします」

「それは我も同じよ。誰が好んでこの禁を破くというのであろう?過去の失敗から我らが天つ神は、固く強く封じることを命じられた。この禁の巨大な力ゆえに」

「父上」

 それまで黙って二人のやりとりを聞いていたタケルが、声を発した。

「ならば、せめて……私がやりましょう」

「駄目よ!」

「ならぬ!」

 同時に姉と父から強い返事が飛んできた。

「我が後を継ぐという役目。この中つ国を護る役目がそなたの両肩にかかっておるのだ。我はまもなく、力も命も尽きる」

「……っ」

 最後の一言に、タケルとヤマトだけでなく、室内にいた人々にも強い動揺が走った。

「ヤマト、そなたはタケルを支えてやって欲しい。これは命令ではなく…我の、願いだ」

「……それは私の願いでもあり、希望でもあります。そのことに関してはご安心ください」

「うむ」

 声を震わせながら頷いたヤマトに満足そうに微笑みかけた後、彼は青白い顔を反対側に向けた。

「タジカ、おるか」

「は、御前に」

 ゆうに2mはあるかと思うほどの巨大な体躯に似合わず、素早くかつ優雅な動きで寝台の前に滑り出た一人の壮年の男性が深々と頭を下げた。

「手はずは整ったか?」

「は。申し上げます。オモヒ殿は神殿の御前に待機。タヒコとウズメは中にて待機しております」

「周囲は」

「ニニギ殿を始め、念のために数十名を配置しております」

「よし。あとは……最後の一つのみだな」

「陛下」

 思わずといったように、タジカと呼ばれた男性が顔をあげた。

「それは、命令でございましょうか…」

「命令ではないが、定めであろう?従わねばならぬ。我は禁を破る。その罰は、報いは、誰が受ける?身代わりなどもってのほかだ」

「ですが、ここにいる誰もが陛下の代わりになりたいと願う想いはまことでございます」

「……気持ちだけ受け取ろう。ありがたく思う」

 微笑んだ彼は、だがすぐに表情を引き締め、ずっと胸元に置いていた巻物を改めて握り直した。

「で、我を捕らえるのは誰がやる?酷な役目であろうが……早う決めてくれ、時間がない」

「………」

 室内に、重い沈黙が降りた。


「――私が」

「私も」


 重苦しい空気を振り払うかのように、凛とした声がほぼ同時に響いた。


「…お前達か」

「はい」

「はい」

 タジカの横に並び、頭を下げた男性二人は、すぐに顔を上げた。

 ぬばたまを纏ったかのような髪に瞳、そしてふくよかな頬。

 ただ一つ、右側に座る男性の左頬に走る斜めの傷跡を除けば、全く瓜二つの顔が、そこに並んでいた。

「カムナ、オオナ」

 呼びかけに、双子らしき男性達は小さく頭を下げた。

「禁を破く事を捨て置くのは、この中つ国では決して許されませぬ。いかに陛下であろうとも」

「私達が、陛下の御身を預かります。禁を破りし者として、中つ国に広める必要があります故に」

「その通りだ。……ありがとう」

「……陛下」

 双子達は悲しげにお互いの顔を見合わせたが、すぐにふくよかな頬をきりりと引き締めた。

「最後にお尋ねいたします。どうあっても、禁を破りますか、陛下」

「無論」

「承知いたしました。……お止めすることはできませぬ」

「ふふ……さて」

 どこか楽しげに笑った彼は、反対側に顔を向け、もはや笑顔も消え、泣き出しそうになっている息子を見つめた。

「なんだ、その顔は。これから重要な儀式があると言うに、その情けない顔で受けるのか」

「ち、父上…」

「これより、そなたが中つ国を護るのだ。滅びから、そして……あの禍々しい【もの】から」

「……っ」

 タケルの傍らに立っていたヤマトが、息を飲んだ。

「忘れるな、国の民達はまだ戦い続けていることを。我がこうしている間もだ。議論の時間さえ惜しい。故に、儀式も簡易になるが……直ちに執り行う」


 三度、室内がざわりとざわめいた。


「そのために……全員を集められたのですね」

「その通りよ、ヤマト」

「……やはり私は顔を出さねばようございました。なれば執り行いも成りませんでしたのに」

「手遅れだな」

 ため息まじりに言う娘に笑った彼は、すぐに真剣な表情になり、息子を見つめた。

「タケル」

「……」

「良いな、先ほど我が申したことを忘れるな」

「………はい」

 俯いて父の声を聞いていたタケルは、静かに顔をあげ、頷いた。

 先ほどまでの悲痛さはほとんど消え、まだ悲しみの残る表情には新しい決意の色が見えた。

「必ず……必ず、守り抜きます。中つ国も、国の民も、そして……」

 一旦言葉を切り、深く息を吐き出した後。

「父上が御身をかけてまで、呼び出してしまう方も、私の全力で守ります」

「……よう、言うてくれた」

 彼は満足そうに微笑んで、息子に向けていた顔を戻し、天井を見つめた。

「我が犯す禁の最大の罪は、それよ。呼び出した者から全てを奪ってしまうであろう……我が自ら詫びることも許されぬ故、それもお前に託す……許せよ」

「父上……お言葉、確かに伝えます。呼ばれたお方に、必ず」

「うむ。……では、これより、我が持ちし全権と力の全てを、ここにいるタケルに引き継ぐ儀式を執り行う。その後直ちに禁を破る。その後は……任せたぞ、皆の者」

「……承知いたしました」

「ヤマトも、頼んだぞ」

「私としては禁じられた言葉のあらん限りを使って、貴方にぶつけたいのですけれど」

 静かに息を吐き出したヤマトは、切れ長の瞳を初めて緩ませた。

「斎宮であることをこれほど恨めしく思ったのは、初めてでございます」

「我は助かったがな。斎宮に就く前のお前の騒々しさを思うとな」

 重苦しい室内に、初めて笑い声が響いたが、それはすぐに消えた。


「では、これより――第八八七代中つ国が大国主おおくにぬしの国王として在りし、大足彦忍代別おおたらしひこおしろわけは――ここにいる全ての【託されし者】達を証人とし、これより執り行うことを告げる」

 先ほどまでは弱々しさが隠せなかった彼――国王の言葉に、力が集まり始め、部屋の中で反響していった。

 それまで微動だにしなかった寝台の四隅の薄布が、響きに反応したかのように揺れる。

天之御中主神あめのみなかぬしのかみを始めとした別天ことあまかみ、そして国之常立神くにのとこたちのかみを始めとした天つ神、天照大御神あまてらすおおみかみを始めとした三貴子みはしらのうずのみこ、この神々から託された力の全て、言霊の全てをタケルに引き継ぐことを、ここに告げる」

 凛とした言葉が一つ一つ告げられるのを、室内にいる者達は真摯に聞き入っていた。

「【託されし者】達よ。国王として告げる、最後の願いだ。タケルを、そして中つ国を、国の民達を、そしてお前達自身も、もうこれ以上死ぬことのないよう……」

 言い終えた国王は、力つきたかのようにぐったりと目を閉じ、荒い息を整えた。

 それでも誰も一言も発せず、動かなかった。


 しばしの時を経て、国王は目を開けた。

 同時に、ずっと握りしめていた巻物を持ち上げ、中央に施されている薄紙にしばし触れたあと――人差し指で、一気に裂いた。


 途端に、室内をものすごい勢いで突風が走り抜けた。


「うわっ」

「なっ」

 室内に動揺の空気が走る。


「落ち着きなさい!」

 澄んだ声で、タケルが声を張り上げた。

「カムナどの、オオナどの、まだ「解いた」だけです。動くには早すぎます」

 立ち上がろうとしていた双子の青年を軽く片手で制して、タケルは床の中で巻物を広げる父を見つめた。


 中つ国。

 大切な、愛すべき国。

 滅んで欲しくないが故に、禁を破く。

 なんという、矛盾か。


「……姉上」

「陛下。もう陛下となられたのですから、その呼びかけに答えることができませぬ」

「あ」

 はっとしたタケルは、傍らで悲しげに苦笑しながら立つ姉を見上げた後、小さく頷いた。

「……そうでした。では、ヤマト…どの」

「【どの】も要りません、と申し上げたいところですが…仕方ありませんね。何でございましょう」

「ニニギどのとオモヒどのに、烏の伝言をお願いします」

「はい、直ちに」

 袿を鮮やかにさばきながら、ヤマトが室内から出ていく。

「タジカ殿も、向かってください」

「御意、陛下」

 壮年の男性も頭を下げ、足早に去っていった。


 にわかに慌ただしくなっていく周囲の中で、もう国王ではなくなった彼は満足そうに息子を見つめた後、完全に広げた巻物に全意識を集中させた。


 ――失敗は、ない。

 これしか、術はない。


 恐れは、ない。

 否。

 あるとしたら、それは――この中つ国に呼び出された者が。

 この国を助けることを拒絶すること。

 

 だから、どうか。



 ――どうか。


 この願い、聞き届けてくれたまえ。



「高天原に神留座す《かむづまります》――」


 言葉が、口から自動的にこぼれ出た。

 同時に、巻物が光り始める。


「!!」

 それに気づいたタケルを始め、室内にまだ残っていた者達が息を飲んで言葉が流れるのを、ただ聞いていた。







 ほんの少し前まで国王であった彼が言葉を発し始めた頃。

「……来たな」

 巨大な柱の中央で目を閉じて座っていた青年が、するりと立ち上がった。

 腰まである長い黒髪をすばやく括りながら、周囲にいる若者達に向けて声をかけた。

「来るぞ。待機せよ」

「はっ」

 数十人いる年若い者は緊張もあらわに、槍を握りしめた。


「……吉と出ることを、願おう」

 自らも槍を手にしながら、呟いた青年に答えるかのように、大地が震動を始めた。


「――陛下が御身と引き換えにして、呼び出した者が吉となることを」


 

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