第26話 強欲の化け物



「帰りたい、と思う」

「うん、私もよ。だから……」

「俺はもういいんだ。十分に生きた。ディアナにも会えた。ディアナが元気で、生きていてくれるなら、それだけでいい」

「そんな……!」


 ディアナの瞳にはみるみるうちに雫が溜まっていく。


「そうだ! 初めて会った時、ルカは萎れた薔薇の花を甦らせてくれたよね。あの時みたいに、ルカも元気に……」


 迫り来るその瞬間に怯えつつも、ディアナは気丈に振る舞おうとした。

出会った頃、ルカが見せた不思議な力。

それに願いをかける。


 しかし、ルカは微かに首を振るだけだった。


「それは、出来ないんだ……」

「どうして!? 力が足りないなら、私の血を呑めばいいわ!」

「自分の命だけは……、操れないんだ」


 出来ない。

助からない。


 足元に転がっていたガラスの破片で自分の肌を切り裂こうとしていたディアナの動きが止まった。

それにホッとしたような表情を見せるルカ。


「どうして……」


 ルカの頬を、熱い雫がパタパタと打ち付ける。


「雨……?」

「ううん。私がね、泣いてるの。これはね……、涙っていうのよ……」


 空はこんなにも青いのに、と不思議そうに言うルカに、ディアナはいつものように答えた。


「これが、涙か……。綺麗だな」


 端の方から次第に狭まっていく視界の中、ルカはディアナの濡れた頬に手を遣り、目元を拭ってやる。

その冷たくて温かい手に、ディアナはそっと自分のそれを重ねた。


 そんな、心から想い合う二人を枢機卿は忌々しげに舌打ちをしながら睨み付ける。


「ふん……。まだ死なぬか。しぶとい化け物め……。ウェリデ司祭、奴にとどめを刺すのだ。どうした!? 早くせぬか!!」


 怒鳴り付けてくる枢機卿の声に、ニクスはふらりと立ち上がる。

その手には、先程取り落とした火器があった。


 キラリと光る銃口にディアナは身を固くしながらも、ニクスとの間に立ち塞がるようにしてルカを庇う。


 そんなディアナの様子をちらりと見たニクスは一瞬悲しげな表情を浮かべた後に、枢機卿の方へと身体の向きを変えた。


「そうだ! 早くしたまえ、ウェリデ君!」

「いいえ、枢機卿。強欲で、愚かな化け物は私と貴方ですよ」

「何を言うのだ!? 教皇に次ぐ地位を持つ私に向かって何と……!? 誰に向かって物を言っているのか分かっているのかね!?」

「何度でも言いますよ、枢機卿。我々は化け物なのです」


 猿のように顔を真っ赤にして喚き散らす枢機卿とは対照的に、ニクスは落ち着き払っていた。


「私は己の分不相応なものを望み、それがどうあっても手に入らないと心の何処かで知っていながら、ある者の手から掠め取り、奪いました。そうまでしても、どうしても私は彼女が欲しかった。けれど、その結果はご覧の通りです」


 崩れ荒れ果てた建物は、そのまま教会の実態を表しているかのようだった。


「そして貴方は若かりし頃の情熱と真摯な心を忘れ、金と権力、酒、そして女に溺れた。これを強欲と言わずして何と言いましょう?」

「何を証拠にそんな……!」

「証言など、幾らでも得られますよ。貴方の拝金主義の噂は市井にも鳴り響いていますから。それに、その醜く突き出た腹が何よりの証拠です」

「破門だ! お前など、即刻破門にしてやる!」

「いいですよ、どうせ辞めるつもりでしたから。その前に私は、教会を荒廃させた張本人である貴方を殺します。貴方に頂いたこの火器と、前巫女が身命をして作り出してくれた破邪の弾で、終わらせるのですよ」


 たった一つ欲しかったものを手の内から失ってしまったニクスにはもう失うものなど何も無いように思えていた。

聖職者の身分にすがり付いていたのも、ディアナを守りたいが故だ。


 けれど、そこで守りたいものはもう何も無い。

今更、破門だ何だと言われようと、ニクスには痛くも痒くも無かった。


 醜く足掻いて瓦礫に蹴躓き、腰を抜かして慌てふためき、恐怖に顔を引き攣らせながら後ずさる枢機卿の姿に、薄ら笑いさえ浮かべていた。

酷く滑稽な様に、ニクスは自分を重ねて自嘲する。



「……待って下さい」


 引き金を引こうとするニクスを止めたのは、ディアナだった。


「……ううん。待って、ニクス」

「なっ……!」


 懐かしい呼び声にニクスは息を呑む。


「撃っては駄目」

「どうして止める? 私に出来る償いはこれしかないというのに。ディアナは枢機卿が、私が憎くはないのか……?」

「憎いわ。赦せないとも思う。だけど、それじゃ同じ事の繰り返しだわ。そんなの、きっと誰も望んでいない筈よ」


 ディアナのたった一言に、銃口が揺れる。

緑の瞳は涙に濡れていたが、鏡のようにしっかりとニクスの姿を映し出していた。

そこに込められた不思議な力に従い、ニクスは火器を手放す。


「今は赦せない。だけどいつか、赦せる時が来たらいいと思う。生きて罪を償い続ける。枢機卿、それが貴方に課せられた罰です」


 ディアナは静かに思いを告げた。

廃墟のように荒れ果てた聖堂に暫しの静寂が訪れる。

しかし、それも長くは続かなかった。


「……ふふふふふ、ははははははは、ふふふふ、アーハッハッハッハ! 何を言い出すかと思えば小娘が。つくづく甘い事だな! 私に命令を下せる権限を持つ者は教皇ただ一人! そして、その教皇は私の言いなりだ! もはや、誰も私を裁く事など出来ん!」


 不気味に笑う枢機卿。

己の勝ちを確信している、そんな顔だ。

けれど、不遜な態度の枢機卿にもディアナは毛の先程にも動揺しなかった。


「いいえ、枢機卿。我が教会において、ヒエラルキーは絶対ですが、一つだけ特例があります。巫女は神と対話し、時に神をその身に降ろす事の出来る唯一の存在。故に巫女となった今の私は、教皇と同等の権限を有しています」

「馬鹿な……」


 金に溺れ、酒に溺れ、女に溺れていた枢機卿は嘗ての勤勉さを失った。

それが招いたのは、身の破滅だ。


「もう一度言います。生きてその身に宿る罪を償いなさい。これは命令です」

「ええい、黙れ! 小娘、お前が死ねば同じ事よ!」

「……危ないっ!」


 枢機卿の袖に光る物を認めたニクスが、鋭く叫びながらディアナの方へと手を伸ばす。


 一瞬反応の遅れたディアナは、身構えながらも助からないだろうと考えた。

しかし、破裂音がしたのと同時に彼女は極光に包まれていた。



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