第15話 半月の夜の告白




「くっ……」


 真夜中、何かにうなされたルカは浅い息を繰り返しながら跳ね起きた。

細身ながら引き締まった胸板が荒々しく上下している。

はっと彼が窓の外を見れば、下弦の月が淡い光を放っていた。


 少し息遣いが落ち着くと、ルカはそろりとシーツの間から抜け出して、窓辺に影を落とし、音も無く歩く。

そのまま玄関のドアに近付き、取っ手に白い指先を掛けた時だった。


「どこへ行くの、ルカ?」


 呼び止められた背中がびしりと凍り付いた。

ギギギとブリキの玩具が立てるような音をさせながらゆっくり振り返ると、ルカは緑の瞳に射抜かれる。


「少し風に当たろうと思って」

「苦しいの?」

「ははっ、何を言っているんだ? 少し眠れないだけだ」

「嘘つき。ルカは作り笑いが下手なんだから、笑って誤魔化そうとしたらすぐに嘘だってバレちゃうよ?」

「……覚えておこう」


 上滑りするような会話が途切れると、冷気のように肌を鋭く刺す沈黙が訪れた。


 ルカは嘘を吐くのが下手だった。

これまで嘘をつく必要が無かったからだ。


 覚えておく。

そう言いながらも、きっと彼女以外に嘘をつく事などこれから先ずっと無いだろうとルカは思う。


 ディアナが静かに怒っている。

何も言われずとも今のルカには彼女が緑の瞳に哀しい光を湛えながら怒っているが判った。

同時に、黙っているのはそろそろ限界だろうと悟る。


 これまで何も聞かずにいてくれたのは彼女の優しさだ。

その優しさにルカは縋ってしまっていた。

コスモスの前で発作が起きた時、一度ディアナを欺いたのだ。


「……胸が痛むの?」


 怒っているのに、ディアナはどうして温かい言葉をくれるのか?

彼女に優しくされればされる程に、ルカは罪悪感に責めさいなまれた。

彼女を愛しく思うがゆえに、傷付けたくなくて己をも偽った。


 自分が棘のない花であったなら。

動けもせず、物も言えず、彼女にひたすら愛情を注がれ、彼女の為だけに咲く花であったなら、どんなにか幸福だろうか?

それでも結局自分は散っていく姿を見せて彼女を悲しませてしまうのだろうかと、ルカは何度も思い悩んだ。

彼女と過ごす日々は、ルカにとって残酷な程に喜びに満ちていた。


「胸が痛むのはディアナのせいだ。激しい衝動に襲われるのもディアナのせいだ。ディアナがあんまり綺麗だから……」


 どこかで星が流れる気配を感じ取りながら、ルカはしとりと紅の瞳を月明かりに潤ませた。


「ルカ!」


 泣き出しそうなルカの声に、たまらずディアナは駆け出す。

窓辺にぼうと浮かび上がる二つの影が重なるのと同時にディアナの裸の足が床を蹴って、ルカの胸に飛び込んだ。

それが何であるか判らずに衝撃を無意識に受け止めたルカは、キラキラと月のように輝きながら揺れる銀色を捉えて初めて、ディアナが腕の中にいるのだと気付く。


「ルカ。私もね、同じなの。ルカのせいで悲しいの。こんなに胸が苦しいのも、全部ぜんぶルカのせいなの。ルカが一人で悲しむから、寂しくて。私は何の支えにもなれないのかなって」

「それは違う! 俺にはディアナしかいない。ディアナしかいないから、大切過ぎて……だから、言えないんだ」

「ルカが思っているほど、私は弱くないよ」

「わかっている。弱いのはディアナじゃなくて、俺の方だ」

「ルカは私に何を隠しているの?」


 怯えている子供を諭しているかのように、ディアナの声は柔らかかった。

高い位置にあるルカの顔を見上げて、彼女は自然と上目遣いになる。



 ――ドクン。


「くっ……」

「いたっ……」


 白い喉元が目の前で露わになった瞬間、ルカの心臓が不穏に高鳴り始めた。

衝動を押さえ込もうとしてディアナを抱くルカの腕に力が籠もる。

柔肌の下に流れる甘い血の香りが、微かにだが漂っていた。


「すまない……」

「ル、カ……?」


 食い縛った歯の間から絞り出すように断りを入れ、指先に力を入れ過ぎて砕いてしまわないように慎重に両肩を掴んでルカはディアナを引き離す。

拒絶とも取れるその行為に、心を突き飛ばされたような錯覚を覚えたディアナだったが、途中でルカの異変に気付いた。


 薄暗い室内だというのに、紅い瞳が獣の如く爛々と輝いていた。

彷徨うように手を伸ばせば、ルカは苦悶の表情を浮かべながら後ずさる。


「来るな……。来ないでくれ……」

「嫌よ」


 懇願するようなルカの口調に何か訳ありだと察したディアナは、拒まれながらもそれをさらに拒み、じりじりと距離を縮めていく。


「来ないでくれ! ディアナ、俺は君を傷付けたくないんだ!」


 ついに手が届きそうになった時、ルカは天井を仰いで叫んだ。

その口元でキラリと何かが月の光を反射する様をディアナはその瞳に捉える。


 ゆっくりと正面を向くルカ。

その顔は悲しみにも苦しみにも似た、深い絶望感に彩られていた。


「俺は人間じゃない。化け物だ。だから、ディアナに近付いてはいけなかったんだ……」


 そう言ってルカが口を大きく開くと、歯列に混じって一対の長く鋭い牙が現れた。

それを見て、これまでの全ての事がディアナの中で繋がる。


「ヴァン、パイア……?」

「そう。俺は人間の生き血を啜る醜い化け物なんだ」


 これでもかという程、ディアナはオリーブグリーンの瞳を見開いていた。

見間違いではないかと真っ先に我が目を疑うほどにあり得ない事実が、目の前に転がっていたからだ。


「どうして? ヴァンパイアはとっくの昔に滅んだ筈じゃ……」

「滅んださ。……俺以外はね」


 息を呑んだディアナは次の言葉を紡ぎ出せずにいた。


 この国の人間なら、誰でも知っている常識がたった今、彼女の中でガラガラと音を立てて崩れ去ってしまったのだ。

ヴァンパイアを倒した巫女と英雄の物語は、希望に満ちていてこの国の少女たちなら誰もが憧れた。

それが幸せと信じて疑わなかった。


 けれど、どんな夢物語にも代償はつきもので。

何故そんな簡単な事に気付けなかったのかと、ディアナは酷く己をなじらずにはいられなかった。


 当たり前と信じてきたものが失われ、ぐらつく足元に不安を感じながらも、それよりももっと強く、ルカに申し訳ない気持ちが彼女の中に湧き起こった。


 直接的ではないにしろ、ルカからたくさんの物を奪ったのは他ならぬ人間だと思うからこそ、掛ける言葉が見当たらず、ひどく狼狽える。

そんなディアナの様子を勘違いしたルカは諦めたように、どうだ恐ろしいだろう、と言い放った。



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