猫の歌

岡本 高

第1話


 それは、僕が二十五回目の就職の面接に落ちた日の夕方だった。僕はコンビニでおにぎりと唐揚とビールを買い、線路沿いの古アパートに向かっていた。いつものように、狭い我が家で一人寂しく夕食でとるつもりで、ふらふらと狭い路地裏を歩いていた僕は、電信柱の隅に一匹の猫を見つけた。小柄な三毛猫、目は切れ長で、手足は小枝のように細くて長かった。こころなしか元気がなく、お腹を空かせているように見えた。普段の僕であれば、空腹の野良猫など、気にも留めなかっただろう。あくまで猫は猫、僕は僕。自分の明日からの生活に何の関わりがある訳でもない。でも、その日は何故か、そう思えなかった。

 

 僕は、シャケおにぎりの包みを破り、わざわざ中の具を指で取り出して猫の目の前に置いた。このおにぎりはコンビ二メニューの中では高級品で、実はけっこう値が張る。猫はシャケの切り身と僕の顔を交互に見ながら、難しい顔をしてしばらく「フゥー」と唸っていた。


「鮭オニギリだけど、気に入ったなら食べていいよ?」


 僕のその言葉を聞くと、猫はおずおずとおにぎりをほじくりだし、シャケの切り身を引っ張り出した。どうやら、よほど腹を空かせていたようで、猫は小さくコクンと喉を鳴らすと、美味しそうにシャケの切り身を口に入れ、ペロリとたいらげてしまった。まるでこの猫が僕の言うことをわかっているみたいで、僕はなんとなく満足げな気持ちになった。


「いい食べっぷりだ。200円分の価値はあったかな」


 僕のその言葉を聞いているのかいないのか、シャケを全部たいらげた後も、猫はじっと僕の顔を覗いたまま、座り込んでいた。


「おいおい、君の食べられるような物はもうないよ」


 僕は持っていたビニール袋をがさがさと振り、唐揚とビールしか入っていない中身をアピールした。


「にゃあ」


 猫は納得いかない様子で鳴きを上げた。唐揚って、猫が食べても平気だっけ? 僕はそう思いながらビニール袋から唐揚を取り出してから、そいつがホットチリ味だったのを思い出した。多分猫には辛過ぎる。無言で、唐揚を袋に戻した。


「…うにゃあ」


「他はビールしかないや。ごめんな。またの機会ってことで。まぁ、そんな機会、二度とないかもしれないけどさ」


 猫に対してその場を取り繕っても仕方ないな。僕はそう思いつつ、恨めしそうな顔をする彼女を路上に残して、立ち去ろうとした。


「………」


 そうしてしばらく路地裏を歩くと、後ろに気配を感じた。あの三毛猫だった。


(僕の部屋までついてきても、冷蔵庫には氷くらいしか入ってないぞ)


 そう思いながら、僕は少し後ろをついて来る猫を振り返った。前を歩く僕の不機嫌な足音など意にも介さず、猫は「たまたま進む方向が同じだけ」と言いたげな、すました顔をして、ゆっくりと歩いていた。


 猫は、僕の住むアパートの一室に着くまでの二十分の間、ずっと僕の後ろについて来た。僕が玄関の鍵を取り出し、ドアを開ける瞬間、猫は「してやったり」という顔でペロリと舌を出した。僕は「あぁ、まんまとやられたな」と思いながら、扉を開け、後ろ手で「しっしっ」と手払いした。だが猫は「入るのが当然」といいたげな素振りで、玄関から僕の部屋へ入っていった。そして、狭い六畳一間の真ん中にちょこんと腰を下ろし、毛づくろいをはじめたのだ。やれやれだ。しかし、懐かれた以上、面倒を見るしかないだろう。ため息まじりに、僕は部屋の整理をして、猫のためのスペースを作った。


 こうして彼女をなしくずしに部屋に招きいれた僕が、最初にしたことは、ネットで猫の飼い方を調べることだった。この猫が僕の部屋に居つくつもりでいるなら、それなりの準備もいるだろう。


 自慢ではないが、僕は動物の世話が苦手だ。それでも、このずうずうしい猫を自分の部屋に上げる気になったのは、多少の気まぐれと、寂しさと、たぶん同情からだった。


 ネットでいくつかサイトをチェックし、猫を飼うのに当面必要なものをメモした。ペット用品の買出しに加えて、獣医に連れて行って、健康診断やら予防注射やらを受けさせなければならないらしい。


「おい、明日からは病院通いだぞ」


 僕が猫にそう言うと、彼女は「みゃあ」と納得したように声をあげた。


 このときの僕は、まだ、何も気がついてはいなかった。この猫がどんな存在であり、僕や、そしてもっと多くの人たちに、何をもたらすのかを。

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