壁の中の世界(すみれのように可愛くて、はちみつのように優しいお手伝いさんがいる場合)
迷光ろぼと
第1話はじまり
ふと、気付いたら周囲一面、緑の草原になっていた。
少し熱を帯びた風を全身に感じる。
目の前には、白いワンピースをはためかせた、女の子が立っている。
「えーっと、あのー、君は誰?」
「私はね、エリスっていうんだよっ。
そしてね、ここは壁の中の世界なんだよっ」
なんとなくそうなんじゃないかと思っていた。
「でね、エリスはお手伝いさん」
「でね、君はエリスのご主人サマ」
「でね、これからはキミがやりたくないことや、少しでもイヤなことがある時は、エリスが全部手伝ってあげるんだよ」
「ここは壁の中の世界なんだろ。そんなにイヤなことはないんじゃ……」
「そんなことないんだよ。君はこれからここで生活していくんだけど、やっぱりいろいろやりたくない事とか出てくるかも知れないんだよ。
それを手伝ってあげるのがエリスの役目なんだ」
「大丈夫。僕は今までちゃんと一人で生きてきたから」
「……そうなんだ。よく頑張ったね。よしよし」
背伸びしたエリスに頭を撫でられる。ちょっと甘い匂いがする。ふかふかのお布団のような、気持ちのいいお風呂のような匂い。
「でもね、これからは何でもエリスに頼ってくれていいんだよ。
例えば! 夜に一人でトイレに行くのが怖かったら、一緒に行ってあげるよ」
「それはエリスのことだろ」
「そんなことないもんっ!」
エリスは身長150センチくらい、小柄で痩せている。
腰まである長い髪は、繊細な光の束が集まったような薄黄金色。
クリクリした丸くて大きい目からは、とても快活な印象を受ける。
「ちょっとだけ、この世界を案内するからついてきてよ」
突然、エリスにぎゅっと手を握られる。
指と指とを絡める、俗に言う『恋人つなぎ』という繋ぎ方。
「手冷たいね。少しこうしてあっためようね?」
心配そうに上目遣いで見つめられる。長いまつ毛が濡れているように見える。
エリスの手は絹のような手触りで温かくてふにゃふにゃしている。
かなり気恥ずかしいが、気持ちが良いのでこのままにしておく。
「これからは特に必要がないとき以外は、ずっと、手をつないだり、お互いの体に触れていたりするからねっ」
「えー、別にそんなことしなくても良いって」
「君は、ひどく疲れているみたい。あと今は不安でいっぱいだよ。
これは必要な治療ですっ! 先生に任せておきなさい」
「エリスはお手伝いさんじゃなかったのかよ?」
「ごっこ遊びは基本だよ! これから色んなことして楽しく過ごしていこうねっ」
花のような笑顔で笑いかけるエリス。純粋な好意を向けられたようで思わずどきっとしてしまう。
「じゃあ、日暮れまでまだ時間があるから、ちょっとだけ歩こうね」
あたり一面の草原には、
季節は……春なのか、今日は風の中に初夏の香りが混ざっている。
日差しの加減から考えると、今の時間は午後のようだ。
遠くにはヨーロッパ風の石造りの建物群と、座礁した大きなクジラみたいな何か、そしてその向こうには壁らしき構造物がうっすらと見える。
エリスに手を引かれながら、そっと横顔を眺める。どの角度から見ても破綻がない高級なお人形のような顔立ち。
服装は、白っぽい薄手のワンピースに薄桃色のカーディガンを羽織っている。今日みたいな初夏の陽気にはぴったりの格好だ。
「いろいろ案内できるところはあるんだけど、たくさん見ると疲れちゃうから、今日はこの世界の輪郭になっている『壁』を少し見に行こうと思うんだ。その後、お夕飯の材料を街に買いに行って、家に帰ろうと思うんだけど、ご主人サマはそれでも大丈夫?」
「壁は……見に行かなくていい。どうせ壁の向こうには行く気にならないから」
「そうだね。わかった。じゃあ街にお夕飯の材料だけ買いに行ってそれから帰ろうね」
まるであやすような口調で話しかけられる。『ご主人サマ』という呼称とのギャップが激しい。
自分より年下の女の子に甘やかされているようで、不思議な感覚。でもそんなに悪い気持ちはしない。
しばらく歩いていると不意にエリスが立ち止まる。
僕の方に振り返って、僕の両手を手に取る。
「手がだいぶ温かくなってきたね。こっちの手も……大丈夫!
ねっ、こうやって手をつないでいると、安心するでしょ」
確かに、この世界にやってきたばかりのときより随分緊張が取れてきたような気がする。
自分では大丈夫だと思っていても、心の奥底には常にそういったプレッシャーは発生しているのだろう。
繋いだ手を離そうとすると、改めてぎゅっと握りしめられる。
「ダメだよ。ずーっと握ってないと離れ離れになっちゃうかもしれないでしょ」
「子供じゃないし迷子になんかならないよ」
「そういうのよくないよ。素直にならなきゃ」
ニコッと微笑みかけるエリス。
素直になった僕は手を繫いだままでいることにする。
10分ほど来ると草原の端までたどり着いた。
「ここのまっすぐな道をずーっと行くと、街に出るからね。もう少しがんばろうね」
道の向こうには石造りの建物が複数見える。白っぽい外壁に赤っぽい屋根の建物が多い。
エリスに手を引かれながら、もうしばらく歩くことにする。
道すがらもエリスにいろいろなことを話しかけられる。
「好きな食べ物はなあに? エリスはね、アイスクリーム!」
「肉じゃがかな」
「にくじゃがってジャガイモとかを使って作る料理? 日本風のやつだよね。
お家の本棚のお料理の本で少し見たことがある。
今度、作り方を覚えて作ってあげるね!」
「ねえ、じゃあ、好きな色は?」
「青と緑の中間の色かな」
「ほんと? エリスの瞳の色と同じだよ!」
嬉しそうに顔を上げるエリスの瞳を見る。
たくさんの情報とたくさんの秘密を内包しているような、ターコイズブルーの瞳。
瞳を見つめていると、意識が深く、深く沈降していく。
「エリスはねえ、桃色とか薄緑とかの優しい色が好き!」
瞳に引き込まれそうになっているところに、エリスの声がして、はっと我に返る。
エリスの顔も瞳も抗いがたい魅力を持っていて、油断しているとずっと見つめていたくなってしまう。
「じゃあ、好きな女の子の服装は?」
「スカート!」
ノータイムで答える。
「そうだと思った!」
エリスが嬉しそうに抱きついてくる。
「これからはね、君のために毎日スカート履いてあげるねっ。
でね、ちょっと恥ずかしいけど、いつでも好きな時にスカートめくりしていいよ。
いつも可愛いパンツ履いておくからっ」
「僕はスカートめくりなんて、別にしたくないよ」
ものすごくしたい。
「えーっ」
エリスが残念そうに膨れてみせる。
「……でも、エリスがそこまで言うなら、してあげなくもない」
エリスは再びぎゅーっと抱きついてきて、嬉しさを表現する。
歩いていると、風が吹く度に、エリスの光の束のような髪からいい香りがする。
もしかしてと思い、つないだ手のまま、エリスの手を顔のところまで持ってきて匂いを嗅いでみる。
思わず心臓がせつなくなるような、官能的な匂い。
この子は手のひらまでいい匂いがするのか。
不意につないだ手を持ち上げられたエリスは、不思議そうな顔でこっちを見ていたが、すぐににこやかな顔で微笑みかける。
気持ちのいい風が吹く春の一本道を、そうやって二人きりで歩いた。
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