第7話 琥珀と囮
結局彼は、逍遙軒信廉の元へと戻る三ツ者の追跡をあきらめ潜伏地点を後にした。三ツ者達が去って行ったおおよその方角はつかんでいる。今はそれで十分、とはいえなかったが情報を手にした事実は成果として残る。今は、森に配置した六名の配下の行方を優先することにした。自分たち四名で逍遙軒信廉の防諜を斥け、情報を持ち帰る自信がないわけではない。だが、森に残った配下の行方も気がかりであったし、それ以上に気がかりなのは森に残った三ツ者の女のことだった。使命を果たすときに最も危険なことは、自分の気配を敵に気取られたり敵の拠点へ気づかれずに潜入することではない。なぜなら、その手の訓練は飽きるほど行っており、もはや目をつむってもできるからだ。草にとって一番の敵とは『慢心』である。任務に成功した帰り道に命を落とした“草”は極めて多い。『任務』に成功しても主のもとに情報を持ち帰るまでは『使命』は終わってはいないのだ。だから、退き口に敵がいるというのは、それだけで精神力を消耗することになる。新たな道から退いていくという手もあるが、勝手知ったる道を通るのとはわけが違う。その場合は、来る時にかかった時間の倍の時間を覚悟して戻らねばならない。だが、今回は時間が勝負だ。徳川方は我ら三河饗談のみが使命についているはずだが、恐らく、いや、間違いなく織田方も草を放っているだろう。絶対に尾張饗談に先を越されるわけにはいかなかった。いかなる犠牲を払ってもだ。
その場所に入って饗談の頭領はすぐに気付いた。血の匂い、それも尋常でない数の…。一人や二人の血の量ではなかろう。そして彼は思った。つまり我が六名の配下はみな殺られたのか、四半時もたたない内に、それもたった一人の三ツ者のおなごに…。馬鹿な!ありえぬ。いや、あってはならぬ事だ。我ら十名の草は所謂以心伝心どころではなく、お互いに考えていることがほぼ十中八九わかる。実の兄弟同士であってもここまでの画一的な思考はできぬはず。そのように“我々は訓練された”。技の力量もほぼ拮抗している。だが、自分が他の九名と異なる点が一つだけある。それは、『野心』だ。だから頭領に任じられた。あの三ツ者をどのように追って行ったのかは現場を見なくてもわかる。恐らくまっとうな殺り方だろう。数に恃んでの攻囲。当然だ。だが、殺られた。六名全員が。残念な事実だが、現時点での我らの劣勢を認めねばならない。だが、こちらも饗談の技をすべて見せたわけではない。まだ終わってはいない。正攻法で殺れないなら詭計で殺るしかない。彼はそう考えた。
琥珀は大木の幹に体を預けて肩を激しく上下させて喘いでいた。時折、嘔吐(えず)くような声も聞こえる。自分との力量の差がさほど大きくない六名もの草を殺ったのだ。呼吸が乱れて当然だった。今は、あの菩薩のような表情はかけらも見られない。疲労に困憊する少女の顔があるだけだった。激しく呼吸を乱しながら彼女は記憶の片隅にわずかに残っている育ての親である頭領の言葉を思い出していた。だが、それは幻蔵のことではないし、反り蔵のことでもない。ずいぶん昔の記憶だ。かなり集中しなければどんな場面だったのか思い出せないほどの。
…どんな顔してたっけ、もうしつこく教わったこと以外は何も思い出せないよ。唯一楽しかった記憶は小さかった時に、ほんの数回だけ草の仲間たちと一緒に連れて行ってもらった時の村祭りのわずかな記憶だけ…。私達は飴玉を買うお金もなく、ただまぶしそうに弟と二人で夜店を眺めてた…。だから、私は村祭りでは踊りに熱中した。踊りにはお金がかからないから…。でも、どうしても思い出せないことがある。私の左目はいつから見えなくなった?私の弟はいつからいなくなった?どうしてこれほどまでに昔のことが思い出せない?何か大事なことが…思い出せそうで思い出せない…。そう、何か…何か大切なことが…。
「琥珀よ…呼吸だ、すべては呼吸が勝敗を決める。無論、技や精神も大事だが、常日頃の鍛錬の成果を十全に引き出すには安定した身体を作らねばならない。呼吸が乱れていては身体をうまく動かすことはできぬ」
「そんなこと言ったって、全力で走ったり、刀を振ったら疲れるに決まってるじゃないか」
「とかく無駄な動きが多い故、疲労するのじゃ」
「弟を見よ、常に急所に攻撃を集中しておる、無駄口一つ利かず表情はあくまで涼しげ、ヤツの泣き言など聞いたことがないぞ?」
「そりゃ螺鈿(らでん)は何でも器用にこなすからねっ、私みたいに出来の悪い姉と一緒にはならないよねっ!」
「拗ねるな、謗(そし)るな、妬むなっ、お主はお主、お主の弟はお主の弟じゃ誰も比べてはおらぬ。ほれ、螺鈿が困っておろうが、お互いの良いところを取り入れ、より高みを目指すのじゃ」
「チェッ…でも、そうは言っても、いつも正確に急所に一撃ってわけにはいくもんかっ!」
「うむ、その通りじゃ、だからまず形から入れ」
「形?」
「ああ…姿勢を整えろ、疲れた声を出すな、面はあくまで柔らかくだ」
「どれも無茶な注文だね…」
「だが、お主、祭りの踊りの時は楽しげではないか」
「そりゃ、祭りの踊りと草働きとは全然違うもの…」
「同じじゃ…同じにせねばならぬのだ。草の仕事を続けるならな。深いひと呼吸ができれば体を起こすことができる。ふた呼吸もできれば、頭にかかった霧が晴れる。み呼吸さえできれば戦う態勢に戻れる。呼吸だ、呼吸を忘れるな…」
深呼吸で身体の疲労を払いながら琥珀は自分の身体の状態を確認した。わき腹と太ももの二か所にわずかな刀傷があるだけで、骨が折れたり関節が外れたりはいていないようだった。彼女は傷口を竹筒の水で洗い、ふところからハマグリの貝殻を取出し、中身の灰色っぽい粘性のあるものを傷口に塗った。草相手の戦いの場合、ほんのわずかな傷でも死に至ることがあることを彼女はしつこいほど言い聞かされていた。本来は傷口を焼灼してから処置をするのがよいのだとも教わったが、今、森の中で火を起こすわけにはいかなかった。まだ戦いは終わってはいない。自分たちの後をつけてきたのが十名だと琥珀は気づいていたからだ。必ず、追手が来る。仲間が殺られて放置する草はこの世に存在しない。
饗談の頭領は決心した。我ら四名は絶対にお互いの姿が確認できる位置で必ず戦う。絶対に一対一になるような状況は避け、少なくとも二対一になるまで仕掛けないと。だが、こちらの手の内をすべて見せて戦うのは愚策というもの。その上で自分自身は最終的な予備戦力となることを決めた。その理由は…これまたあってはならぬ事だが、もし、万が一、配下三名が全て殺られて彼自身しか残らなかった時のことを考えてのことだった。それは彼の心の中の 『野心』の呼びかけによる生存本能からの警告でもあったが、もっと深刻な状況になった時のためでもある。草はいついかなるときも全滅は許されない。なぜならば、情報を持ち帰るのが草本来の使命だからだ。だが、こちらが姿を現さねば、あの三ツ者の女も隠れたままだろう。そこで、自分達四名の内、一人だけが姿をさらし、自分からは決して仕掛けず囮となり、配下の二名が伏せている場所へ女を誘い三名で始末する。それでも、手に余るようならさらに自分がその場に合力する、そのように作戦を決めた。
饗談の男は一瞬呆然とした。『いついかなる時も』我を忘れることがないように“厳しく”訓練されているにもかかわらずだ。何の前触れもなく、琥珀が木々の太い幹の背後から音もなく亡霊のように姿を現したのだった。殺気の欠片もない。両手に漆黒の刃の小太刀を手にしており、顔には例の菩薩の表情が浮かんでいる。彼と琥珀との距離はおよそ五間(約9m)ほど離れている。彼はその瞬間震えた。彼女の姿に臆したのではない。予期せぬ行動をとったり、動きが止まったりすると彼らには即座に“罰”が加えられたからだ。それは“お仕置き”などという生易しいものではなかった。定かではないが、彼らが面をつけているのもその恐ろしい罰の痕を見られないようにするためだという者すらいた。あくまで噂だ。彼ら三河饗談は完全統一された集団行動を売りにしていた。だから、“自分”を殺し、ただの影になるように訓練されてきたのだった。だから、彼は体の震えを無理やり止め平静の心を取り戻そうと努め、それになんとか成功した。
次は囮の役割を果たす時だ。だが、いきなり逃げ出したのでは女を詭(いつわ)り、計り事にかけることができない。それに六名もの仲間を殺った手並みも見てみたい。普段ならそんなことは考えることも許されなかったが、女を前にしてふとそんな想いが心の中で鎌首をもたげた。彼は普段、十名の草の中の一人を演じていたし、より高みに上ろうという野心も持ち合わせていなかった。だが、筆舌に尽くしがたい訓練を積んできたのだ。そう、思い出す度、身体に震えが来るほどに…。何のために?無論、使命を果たすためだ…でも、それだけなのか?それで自分の一生は終わりなのか?普段の彼はそれでもかまわないと思っていた。彼は『敦盛』を唄った幸若舞(こうわかまい)が好きだった。幸若舞とはこの時代、能と並んで主に武家に愛された曲舞(くせまい)で、『敦盛』とは源平時代にいたとされる元服間もない年若い平敦盛を、源氏方の熊谷直実がやむを得ず討ち、その後、出家した際にこの世の無常を唄ったものだ。これは、あの織田の参議殿(信長)も大層お好きだと聞く。「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきか…」という部分は強く共感できる部分が彼にはあった。戦いに、病に、草の使命に、いつ自分が殺されるかわからない。人間生きたとしてせいぜい五十年、何ほどのものがあろうかという想いは常に彼の頭にはあった。だが、そのあとに続く「これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ(これは仏の意思だとわかってはいるが、悔しい事だ…)」という想いを持ちながら余生を過ごすなら、死んだほうがマシだとも彼は思っていた。もし、どうしても自分の死が避けられぬ運命ならば、自分より技量の高い熊谷直実のような“男”になら討たれてもよいと彼は考えていた。しかし、自分の激しい殺気を前にしても全く動じることのない、この年端もいかない少女を前にして、彼は今までの自分の鍛錬を愚弄されたように感じた。彼は自分の心の深奥からどす黒い殺意が表面に吹き出てくるのを感じ、それを懸命に抑えた。
彼は相手がいかなる容姿であっても先入観で相手の能力を測ってはならぬと厳しく教えられてきた。現にこのおなごは“普通ではない”。いかに腕が立つとはいえ、一人で六名もの饗談を殺ることなどできはしない、必ず何かある。だから女の様子を細かく観察した。得物は二つの小太刀のみ。刀身は月の光の照りかえりを防ぐために黒く塗りつぶされている。唐風の装束で頭部、両腕と、それに両足は太ももから下が露出している。目の届かないところには恐らく無数の暗器が…おなごは特にそうだろう、と彼は考えた。だが、光の照りかえりを防ぐために刀身を黒く塗りつぶすことにまで気を回す者が、自身の身体の目立つ部位を外部にさらすとは…。男は思わずフッと軽い笑みを浮かべた。無論、笑みは面の下で琥珀には見えなかった。翻って自分自身のことを考えてみると、全身を装束で覆っているが鎖帷子ではなく、単なる麻布だ。手甲と小手のみに鋼が入っている。外部に触れる部分は目元だけだが、その目元も含み針などを警戒して網で覆われている。二尺に少し足りない直刀が一本、苦無が三つ、暗器はない。無論使うことはできるが必要がないから持ってこなかった、ただそれだけだ。殺傷範囲では完全に自分が上で、それに劣る女の戦術は恐らくこちらの懐に飛び込んで小太刀を打ち込む、この一手であろうと彼はあたりを付けた。二刀なのもそれで合点がいく。どだい、女の筋力で二つの太刀など扱えるわけがない。防御より攻撃に重点を置く戦い方だろうと彼は考えた。
饗談の男と琥珀はお互いに向い合せに立っていた。男の身長は六尺(180cm)に三寸(9cm)くらい足りなかったが、少女のそれは五尺(150cm)に届かなかった。また、男は少女の目を見ていたのに対し、少女のほうは何というか特定の場所を見ているような感じではなかった。事情を知らぬ者には単に森の中で逢引きしている男女に過ぎないように見えたであろうが、気配が違うし雰囲気が異様だ。男は殺気にまみれていて修羅のようだったが、少女は穏やかな雰囲気を放つ菩薩のようだった。また、男は太刀を晴眼(剣先を相手の両目の間に位置する)で構えていた。たとえ距離があっても、両目の間にとがったものが位置しているだけで心理的な重圧がかかる。男は自分の身体と相手の身体の間に太刀を置き、自分の懐には絶対に入れさせないつもりだ。一方、琥珀は決まった構えをせず、小太刀を両手とも逆手で持っており、だらりと両腕を下げている。拳には何か黒いものをはめているようだ。お互いの距離はおよそ五間(約9m)ほどで、琥珀はもちろん、男の太刀の殺傷範囲からも遠く及ばなかった。二人はしばらくそうやってお互いを見合っていたが、唐突に琥珀が男のほうへ歩き出した。走るわけでもなく、ゆっくりと時間をかけるわけでもない。ただ単に歩き出した。人間は想定外のことが起こると心理的空隙を生じさせるものらしい。男の時間は確かに止まった。ほんの一瞬ではあるが…。ハッと我に返った男が琥珀の顔面に突きを入れ、そのあとすぐに刃を時計回りに一刻半(約90°)ほど倒し、薙いだ。二撃目には威力はないが、切っ先には毒が塗ってあるし相手の首に刃先が触れた途端太刀を引くので、突きが躱されてもそのあとの二撃目で敵の首を刎ねることができる剣術である。傍目で見ると、二撃目は太刀をいったん引いて勢いをつけて首を刎ねたほうがよいように思えるが、それでは敵に太刀を躱す隙を与えるし、そもそも太刀は敵の身体に刃先が当たったら“引いて”使うものなのだ。だが今の攻撃は言うほど容易くはない。これ一つ取っただけでも想像を絶する修練が必要となる。だが、その二撃とも琥珀は躱した。なんという反射、獣の感性というべきか、単なる勘の良さとは言い切れないものが彼女の動きにはあった。
私は二人の立ち合いを静かに見ていた。だが、私には戦いの詳細は見ていてもわからないし、見落としも多い。だから見て思ったことだけを伝えようと思う。饗談の男は片膝をついていた。私にはまるで見えなかったが、どうやら琥珀の一撃を左わき腹に受けたらしい。「らしい」と評したのは、男が左わき腹を手で押さえてかすかなうめき声をあげていたからだ。無論、彼女の小太刀の一撃ではあるまい。小太刀なら男は死んでいたはずだからだ。琥珀は男の攻撃を二撃とも躱し、なおかつ男に一撃を与えた。小太刀ではないなら無手しかない。あるいは何かを投げたか…だが、男の周辺には何も落ちてはいない。ならば恐らく足による一撃だろう。この時代、足を使って戦うなど私は見たことも聞いたこともなかったが、それ以外考えられぬ。すぐさま、琥珀は男に躍り掛かった。男は素早く立ち上がり、太刀で琥珀の小太刀を防いだが、彼女は左手の小太刀で男の太刀を受け流し、右手の小太刀で男の首を薙ごうとした。だが、男は瞬間太刀から左手を放し小太刀での一撃を左手で受けようと自分の顔の前に左小手を持ってきた。鈍い音とともに小太刀は男の顔面の直前で止まった。どうやら男の両手には甲と小手の部分に鋼が入っているようだ。だが、次の瞬間、男は身体を九の字に曲げて再び片膝をつき、男の太刀は跳ね飛ばされた。今度ははっきり見えた。やはり琥珀は蹴り技をつかっている。お互い一瞬とはいえ、両手がふさがったわけだから、足を使うしか攻撃の手段がないのはわかるが、あんな動きが人にできるものなのかと、私は訝かしい思いをした。琥珀の一撃目は男の胴の中心に、右足による深い突き刺さるような蹴りが入り、二撃目は男のひじの右腕の内側に彼女の左足による蹴りが入った。私はあのような足を使う技があるのかと、その光景に見入っていた。
-第7話了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます