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家に帰りつき父は早々に風呂をためだした。濡れただろうから早く入れと急かされ、先ほどの話の続きはしてくれなかった。
昨日まで、いや今朝までは確かに父だって志望校について何も文句なんてつけていなかった。友人と一緒の高校といったのがいけなかったのか。そんな理不尽な。
少しいらいらしながら頭を乱暴に洗う。シャワーで流れていく泡を見ながら、いやでもあの父に限ってそんなはずはないと思い直す。友人たちだって気のいい奴らで、今日だって別に失礼なこともしていなかった。あいつらに文句を言うんだったらさすがに僕だって怒ってやる。ああ、でもやっぱりそんなことでまさか……。そもそも盟応じゃなければどこに行くのか。ここより偏差値が高い公立校となると二つほど当てはあるがこの時期に変更となると勉強も間に合わないかもしれない。
考えは堂々巡りし、ずきずきと頭が痛む。湯船につかりながら眉間を押さえる。
頭を後ろに倒したら首筋が湯船のふちに当たり刺すような痛みが走った。
さっと首に手を回し、朝気づいたニキビを指の腹でそっとなでる。少し大きくなっている気がした。
今朝父が塗ろうとしていた薬はどこだっけ。そもそも家にニキビの薬なんてなかった気もする。風呂から上がったら少し冷やそう。そして父にもさっさと風呂に入ってもらって冷たい水でも飲んで ……。さっきの話の続きをするのだ。
浴室はあんなに熱かったのに脱衣所に出た瞬間から寒気がした。最近の体調不良に加え雨に濡れたからだろうか。こんな時期に風邪をひいている場合ではないというのに。
「上がったよ、父さんもお風呂入りなよ」
「ああ、ありがとう」
父が疲れた顔をしながら浴室に向かう。車では横に座っていたからよくよく顔を見ていなかったが、なんだかやたらと憔悴している。
父の収入は親子二人暮らしくらいであれば十分だが、裕福というほどではない。弁護士だからとやたら金持ちのように見られるが、人並みの生活をごくごく普通に送りつつ、老後のための貯金をしようと思ったらそこまで残るわけじゃないよ、と前に父は言っていた。もちろんお前がやりたいことがあるならそれを応援したいからね、お金のことはどうにかするから何かあったら言いなさい。これは高校でどこを受験するかを話し合った時の言葉だ。そうだ、あの時に高校については決着がついたはずなのだ。物理の実験が好きだからなんとなく理系の大学に強い高校に行きたくて、家の近く、かつ自分の偏差値で行けるところとして父も納得してくれたのに。
二人分のコップに水を注ぎ、食卓の上に乗せる。肘をつき顔を伏せ、ため息をつく。家の中のどんよりとした空気がとにかく嫌だった。ああ、まるで母さんが出て行ったときみたいだ。
「さて、どこから話そうか」
ジャージに着替えた父は先ほどよりか幾分は顔色が良かった。
「どこからもなにも、始めからだよ。どういうことか説明して」
自分の意見を曲げないと始めから決まっているときは、相手の目をしっかりとみて自分からはそらさない。相手がひるむ瞬間を決して見逃さず、そこを詰めるのがポイントだ。自分から目をそらしてしまうと気持ちで負ける。父から聞いたアドバイスは小学校の時のけんかでは効果絶大だった。ゲームの使いたいキャラが被ったとか、遊具の遊ぶ順番だとか大体がくだらなく、でも自分たちにとっては譲れない内容で。すぐに手が出る荒っぽいやつもいたけど、まっすぐ目を見て自分の正当性をそれっぽく言うと相手はすぐに折れた。ひどいときは泣き出すやつすらもいたが、体がそこまで大きくない僕がいじめられも、舐められもせずにここまでこれたのは父のこの教えがあったからだと思う。
――今日はプロが相手だ。
父も穏やかな表情で、でもまっすぐに僕を見つめなおす。
「四日谷学園に行きなさい」
「……え」
そうそうに怯みそうになる。四日谷学園とはここらへんで一番の金持ち高と言われ、入試も一般には行っていない。口添えがいるだの、特待生しか入れないだの、もっと直接的に言うと裏金が必要ともっぱら噂の高校である。
「そんなの無理だよ、あんなところどうやって行くんだ。受験だってかなり難しいって噂じゃん」
特待生の入試内容では大学の専門学部の試験レベルの実技科目が出題されると聞いている。それでも合格者を出さない年もあるとかないとか。
そんな学校だが、人学年の人数は普通の高校レベルにはいて、そのほとんどが幼稚舎からの内部進学生だ。生まれながらに金持ちな人間ばかりがそろっていて、たまに才能が秀でたやつが編入できる。
「お前は受かる。というかもう合格しているんだ」
父親はA4の茶封筒から一枚の合格通知を出した。
「……は?」
受験などした記憶がない。むしろ願書すらも出していない。これは一体何なんだ。
父は黙ってその封筒の中からさらに三枚の紙を取り出した。そのいづれもが四日谷学園の合格通知だった。幼稚舎、初等部、中等部――
「……知らない。受けてないよ、僕」
「ああ、受験はしていない。お前は生まれた時から四日谷学園の入学資格をもっていただけだ」
父の言っている言葉の意味が分からない。受験もしていないのに学校には入れるなんて、義務教育の公立校だけじゃないか。
「四日谷学園はな、治哉」
父が言葉を区切る。
「
第二次世界大戦後、体のどこかに宝石が埋まっている人間が突如として発生した。彼らは
「馬鹿らしい、ただの古い噂話じゃないか。そんなのもう流行ってないよ」
よりにもよって弁護士の父からこんな言葉を聞くことになるなんて思いもしなかった。なんだってこんな子供だましみたいな話をするのか。
「それに何、
父が悲しげな眼で目で僕を見つめた。首筋がずくずくと痛む。
「すまない。もともと生まれた時から
痛い、痛い。首が痛い。
「今は専門の病院で
首筋を触る。ニキビだと思っていたそれは小さいが硬くてひんやりとしている。まるで首に石が埋まっているような――。
「今までずっと黙っていてすまなかった。今朝お前の首筋から石のようなものが見えて生きた心地がしなかったよ」
父が深いため息をついた。手を組み、親指をくるくると回す。父が言葉を探しているときの癖だ。
――あ。
「盟応は受験するな。四日谷学園に行きなさい」
僕はもうだいぶ前から父から目をそらしていた。回り続けている親指がとまり、指先と指先がつながる。恐る恐る顔を上げたら、父のまっすぐな視線とぶつかった。
気が付いた時には自分のベットの上にいた。首の痛みがひどくなってから後のことの記憶が曖昧だ。ただ自分で部屋に戻った記憶はないので父に運んでもらったのだろう。中三の息子を運べるだけの力がまだあったのか。
「あ、起きたか」
父はベットの横に座っていた。四日谷学園の入学届らしき紙に目を通しているようだった。
「話の続きは明日にするか。お腹がすいているならご飯を温めるけど、具合が悪いならそのまま寝ておきなさい」
「僕、四日谷にはいかない。盟応受けるから」
こんなところで中途半端に話を終わらせてはいけない。言わなければ。自分のことなのだから。
父は相変わらず悲しそうな目をしながら携帯を取り出した。何か操作をして僕に画面を差し出す。
「寝ている間にな、撮ったんだ」
僕の頭から首筋にかけての写真。首の付け根の、ちょうど痛みを感じているところが少し避けるように開いており、その中から赤い無機質な光が漏れていた。ルビーかな……そんなことを考えたら急に目頭が熱くなり、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。僕は人間じゃなかったのか。
「……
しゃくりをあげながら訴える。特になりたいものや成し遂げたいものなんてのもなかったけど、こんな意味の分からないもので人生を決められるのは嫌だった。
「宝石人種はかなり希少だ。希少だが確実に存在する。噂話のようにコレクターもいる。ただ、国は
父の口調が荒くなり、早口になってきている。
「四日谷学園は基本的に
「コレクターがなんだよ、首筋を隠して生活をすればいいだろう。盟応ならあいつらもいるんだ、いざとなったら助けてもらえる」
「法がない中で、十分に、自由に生活ができるとでも思っているのか」
父の怒鳴り声などひょっとしたら生まれて初めて聞いたかもしれない。両手で僕の両腕をつかむ。充血した目には涙がたまっていた。
「友達にも絶対にお前が
腕をつかんでいた手の力が一層強くなった。息が震えている。涙は頬を伝い、僕の膝の上に落ちていた。それでも父は僕の目を見ている。倒れる前に勝敗は決していたはずなのに、僕が悪あがきをしたせいで父をこんなに苦しめてしまった。
ふと時計に目をやると針は深夜の一時を指していた。――ごめん、羽柴。明日は早起きできないや。
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